背景と前身であるリチャーズ・ホテル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 02:57 UTC 版)
「浦江飯店」の記事における「背景と前身であるリチャーズ・ホテル」の解説
1842年8月29日、アヘン戦争の結果として南京条約が結ばれ上海を含む5港が開港された。その後徐々に上海でのイギリスの租借地が画定されてゆき、イギリス人の住民も増えていった。上海には1844年の時点で50名の外国人が暮らしていたと記録されている。 初期の移民の一人であるスコットランドの商人、ピーター・フェリックス・リチャーズは1840年より上海で雑貨屋など船乗りや旅行者相手の商売を営んでいたが、1846年に上海で初めての西洋料理店と、中国で初めての西洋式ホテル、リチャーズ・ホテル(礼査飯店、「礼査」はリチャーズの音訳)を開店した。これらは洋涇浜(黄浦江の支流)の南に位置していた。 このホテルは一棟からなる、これといった特徴のないバロック建築のホテルだった。1846年12月22日には上海共同租界の第1回の会合がリチャーズのホテルで開かれている。しかし1856年の5月15日、リチャーズはニューヨークでのビジネスの不調から英国領事裁判所より債務超過を宣告される。上海のホテルを含むリチャーズの一切の資産は債権者であるウィリアム・ハーバート・ヴァシェ(英語版)とチャールズ・ウィルスの手に渡った。
※この「背景と前身であるリチャーズ・ホテル」の解説は、「浦江飯店」の解説の一部です。
「背景と前身であるリチャーズ・ホテル」を含む「浦江飯店」の記事については、「浦江飯店」の概要を参照ください。
- 背景と前身であるリチャーズ・ホテルのページへのリンク