第2回・第3回印象派展
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「クロード・モネ」の記事における「第2回・第3回印象派展」の解説
1874年ごろから、デュラン=リュエルがモネの絵を大量に購入することが難しくなり、第1回印象派展も失敗したため、モネは経済的な苦境に陥った。モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾは、1875年3月、オテル・ドゥルオ(英語版)で多数の作品を競売にかけざるを得なくなったが、参加者に嘲笑され、無残な結果に終わった。モネは、マネに「もし苦境を脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙を送り、マネはこれに応じてモネを援助した。また、モネの作品を個人的に購入するバリトン歌手ジャン=バティスト・フォール(英語版)、実業家エルネスト・オシュデ、税官吏ヴィクトール・ショケなどの収集家・愛好家も現れてきた。オテル・ドゥルオの競売でルノワールを知った収集家ジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、1879年に「ラ・ヴィ・モデルヌ(近代生活)」誌を創刊して、印象派の普及に貢献した。 1876年4月、第2回印象派展がデュラン=リュエル画廊で開かれた。モネは18点を出品した。ここでは、日本の着物を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品している。着物のほかにも、扇子を持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品である。この絵は、第2回展で好評を博し、2,000フランで売れたものの、モネの経済的困窮が解消したわけではなかった。 新聞の評価は、第1回展のときよりは好意的であった。ゾラは、「クロード・モネこそは、おそらくこのグループのリーダーだろう。彼の筆さばきは素晴らしく、際立っている」との評を寄せた。また、画家ギュスターヴ・カイユボット、医師ジョルジュ・ド・ベリオといったモネの購入者・支援者も現れた。それでも一般の人々の反感は根強く、批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は「フィガロ」紙で、第2回展について「これら自称芸術家たちは、自ら『革新派』または『印象派』と名乗り、キャンバスと絵具を手にすると、手当たり次第に色彩を投げつけ、そしてそれら全部に、堂々と署名するのだ……。そこには、完全な発狂状態にまで達した人間の虚栄心の恐ろしい姿が見られる」と酷評した。 1876年夏から秋にかけて、エルネスト・オシュデの邸宅であるモンジュロンのロッテンブール館に滞在し、その居間を飾るための『七面鳥』など4点を制作した。エルネストの妻アリス・オシュデは、1877年8月20日に第6子ジャン=ピエールを生むが、彼はモネの子ではないかとも言われている。モネは、相変わらず経済的困窮が続き、ゾラやシャルパンティエを含め、限られた支援者たちに度々資金援助の依頼をしている。 1877年初めには、パリのサン=ラザール駅近くのモンシー街(フランス語版)に部屋を借り、一つの駅を主題としながら、異なった視点から異なった時刻に描いた12点の連作に取り組んだ。これは、のちの『積みわら』や『ルーアン大聖堂』連作につながっていくものであった。サン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車が発着する駅で、モネは日頃からこの駅を利用していた。鉄道は、マネや印象派の画家が追求した近代性を象徴する主題であった。その年4月の第3回印象派展には、『サン=ラザール駅』8点のほか、テュイルリー庭園、モンソー公園を描いた作品を出品した。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、第3回展参加者18名を紹介する小冊子『印象派』を刊行し、とりわけサン=ラザール駅の連作に賛辞を送った。 このころ、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥った。そのうえ、妻カミーユが病気に倒れた。モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡して、1878年1月17日、アルジャントゥイユを去った。そして、数か月間は、パリのエダンブール街(フランス語版)に滞在した。3月17日、カミーユとの間の二男、ミシェル(英語版)が生まれた。しかし出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化していった。その春、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。 『アルジャントゥイユの橋』1874年。油彩、キャンバス、60 × 79.7 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)(W312)。 『散歩、日傘をさす女性』1875年。油彩、キャンバス、100 × 81 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。第2回印象派展出品(W381)。 『ラ・ジャポネーズ』1876年。油彩、キャンバス、231.8 × 142.3 cm。ボストン美術館。第2回印象派展出品(W387)。 『七面鳥(フランス語版)』1877年。油彩、キャンバス、174 × 172.5 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品(W416)。 『サン=ラザール駅:列車の到着』1877年。油彩、キャンバス、83 × 101.3 cm。フォッグ美術館(米ケンブリッジ)(W439)。 『サン=ラザール駅』1877年。油彩、キャンバス、75 × 104 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品(W438)。 『サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日』1878年。油彩、キャンバス、76 × 52 cm。ルーアン美術館。第4回印象派展出品(W470)。
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第2回・第3回印象派展
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「カミーユ・ピサロ」の記事における「第2回・第3回印象派展」の解説
第1回印象派展の頃から、デュラン=リュエルは資金難に陥りピサロの作品の購入も中断してしまった。ピサロはアマチュア画家ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)や親友テオドール・デュレの支援を頼りにし、モンフーコーのピエット宅にもしばしば滞在した。 1876年、第2回印象派展がデュラン=リュエルの画廊で開かれた。ピサロはテオドール・デュレの助言に従って出品数を増やし、ポントワーズとモンフーコーの風景画12点を出品した。この時も、印象派は批評家からの酷評を浴びた。権威ある批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ピサロについて次のように書いた。 さて、ピサロ氏には次のことを理解させてほしい。木々は紫色ではないこと、空は新鮮なバター色ではないこと、どんな田舎にも彼が描くように見えるものはないこと、そしてどんな知性もこのような錯乱を受け入れることができないことを! — アルベール・ヴォルフ、『フィガロ』1876年4月3日 ヴォルフがピサロを最初に取り上げているのは、ピサロをグループの首謀者だと見ていたからだと考えられる。他方、ゾラやミュレは、ピサロを称賛する論評を発表した。 ピサロは経済的にますます苦しくなり、パリの家を手放した。ポントワーズの家も差押えを受けそうになったが、ギュスターヴ・カイユボットの支援のおかげで、これを免れた。より簡単に売れる陶製タイルに絵を描いたりもした。 1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。もっとも、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンは、当初「連合(リュニオン)」という反ブルジョア色の強い組織の展覧会に参加しようとしていたが、これを取りやめて、印象派展に参加したようである。都市風俗画を重視するドガは、「印象派」という名称を使うことに強く反対したが、ピサロを含む画家たちの主張により、初めて「印象派画家たちの展覧会」と名乗ることになり、路線の対立が顕在化した。ピサロは、支援者ピエットを印象派展に招待した。ピサロ自身は、ポントワーズとモンフーコーの風景画22点を出品した。医師ジョルジュ・ド・ベリオが、ピサロの主要作品『マチュランの庭、ポントワーズ』を購入した。批評家ジョルジュ・リヴィエールは、美術雑誌「印象派の画家」の4月14日号で、ピサロを高く評価する論評を発表した。 ピサロは同年5月28日、ルノワール、シスレー、カイユボットとともに競売場オテル・ドゥルオ(英語版)で、14点を競売に出したが、落札額は50から260フランにとどまり、失敗に終わった。ミュレはピサロを助けようと肖像画を注文し、自分の営む菓子店で福引の1等の景品にしたが、1等を引いた女中は、絵をケーキと交換してほしいと言ったという。この年には、再びセザンヌとキャンバスを並べて制作している。 テオドール・デュレは1878年5月、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。 ピサロの生活がますます苦しくなる中、妻のジュリーが1878年11月21日、第6子(四男)リュドヴィク=ロドルフ(フランス語版)を産んだ。 『マチュランの庭、ポントワーズ』1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。 『赤い屋根、ポントワーズのサン=ドニの丘、冬の効果』1877年。油彩、キャンバス、54 × 65 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品。
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第2回・第3回印象派展(1875年-1877年)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「第2回・第3回印象派展(1875年-1877年)」の解説
ルノワールは、1875年初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場オテル・ドゥルオ(英語版)での競売会を思い付き、モネ、シスレー、ベルト・モリゾを誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、ルノワール3点を購入している。税官吏ヴィクトール・ショケも、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、ギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラといった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った。 並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した。 この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、モンマルトルのコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の制作に取り掛かった。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、エドモン・メートル(フランス語版)、テオドール・デュレ、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった。 1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、ギュスターヴ・カイユボットに宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展が開かれた。ルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点を出品した。 批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた。 さて、ルノワール氏には次のことを説明してほしい。女性のトルソー(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色がかった緑色の斑点を伴う分解中の肉の塊ではないことを! — アルベール・ヴォルフ、『フィガロ』1876年4月3日 これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している。他方、エミール・ゾラは、ルノワールの肖像画を賞賛した。 1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目を集めた。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画(歴史画)に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった。 第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家ウジェーヌ・ミュレ、医師ポール・ガシェ、作曲家エマニュエル・シャブリエなどの愛好家の支援が頼みであった。 マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた。 『習作(陽光の中の裸婦)』1876年頃。油彩、キャンバス、81 × 65 cm。オルセー美術館。第2回印象派展出品。 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年。油彩、キャンバス、131 × 175 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品。 『ぶらんこ』1876年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品。 『すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢』1876年。油彩、キャンバス、98 × 71 cm。ブリヂストン美術館。第3回印象派展出品。
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