第2回第3回印象派展とは? わかりやすく解説

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第2回・第3回印象派展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「第2回・第3回印象派展」の解説

1874年ごろから、デュラン=リュエルがモネの絵を大量に購入することが難しくなり、第1回印象派展失敗したため、モネ経済的な苦境陥ったモネルノワールシスレーベルト・モリゾは、1875年3月、オテル・ドゥルオ(英語版)で多数作品競売にかけざるを得なくなったが、参加者嘲笑され無残な結果終わったモネは、マネに「もし苦境脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙送りマネはこれに応じてモネ援助したまた、モネ作品個人的に購入するバリトン歌手ジャン=バティスト・フォール英語版)、実業家エルネスト・オシュデ、税官吏ヴィクトール・ショケなどの収集家愛好家現れてきた。オテル・ドゥルオの競売ルノワール知った収集家ジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、1879年に「ラ・ヴィ・モデルヌ(近代生活)」誌を創刊して印象派普及貢献した1876年4月第2回印象派展デュラン=リュエル画廊開かれたモネ18点出品した。ここでは、日本着物着けた妻カミーユモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品している。着物のほかにも、扇子持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的なジャポネズリー日本趣味)の作品である。この絵は、第2回展好評博し、2,000フラン売れたものの、モネ経済的困窮解消したわけではなかった。 新聞評価は、第1回展のときよりは好意的であったゾラは、「クロード・モネこそは、おそらくこのグループのリーダーだろう。彼の筆さばきは素晴らしく際立っている」との評を寄せたまた、画家ギュスターヴ・カイユボット医師ジョルジュ・ド・ベリオといったモネ購入者支援者現れた。それでも一般の人々反感根強く批評家アルベール・ヴォルフ英語版)は「フィガロ」紙で、第2回展について「これら自称芸術家たちは、自ら『革新派』または『印象派』と名乗りキャンバス絵具手にすると、手当たり次第色彩投げつけ、そしてそれら全部に、堂々と署名するのだ……。そこには、完全な発狂状態にまで達した人間虚栄心恐ろしい姿が見られる」と酷評した1876年夏から秋にかけて、エルネスト・オシュデ邸宅であるモンジュロンのロッテンブール館に滞在し、その居間を飾るための『七面鳥』など4点制作したエルネストの妻アリス・オシュデは、1877年8月20日に第6子ジャン=ピエール生むが、彼はモネの子ではないかとも言われている。モネは、相変わらず経済的困窮続きゾラシャルパンティエ含め限られた支援者たちに度々資金援助依頼をしている。 1877年初めには、パリサン=ラザール駅近くのモンシー街(フランス語版)に部屋借り一つの駅主題しながら異なった視点から異なった時刻描いた12点連作取り組んだ。これは、のちの『積みわら』や『ルーアン大聖堂連作つながっていくものであったサン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車発着する駅で、モネ日頃からこの駅を利用していた。鉄道は、マネ印象派の画家追求した近代性象徴する主題であった。その年4月第3回印象派展には、『サン=ラザール駅8点のほか、テュイルリー庭園モンソー公園描いた作品出品した美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、第3回参加者18名を紹介する小冊子印象派』を刊行しとりわけサン=ラザール駅連作賛辞送ったこのころアルジャントゥイユでの生活に出費かさんだこともあり、モネ借金追われ家具競売求められる状況陥った。そのうえ、妻カミーユ病気倒れたモネ地主『草上の昼食』借金担保引き渡して1878年1月17日アルジャントゥイユ去った。そして、数か月間は、パリのエダンブール街(フランス語版)に滞在した3月17日カミーユとの間の二男ミシェル英語版)が生まれた。しかし出産後カミーユ健康状態はさらに悪化していった。その春、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子出版しモネシスレーピサロルノワールベルト・モリゾの5人を印象派グループ先導者として選び出し解説書いた。 『アルジャントゥイユ1874年油彩キャンバス60 × 79.7 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)(W312)。 『散歩、日傘をさす女性1875年油彩キャンバス100 × 81 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。第2回印象派展出品(W381)。 『ラ・ジャポネーズ1876年油彩キャンバス、231.8 × 142.3 cmボストン美術館第2回印象派展出品(W387)。 『七面鳥フランス語版)』1877年油彩キャンバス174 × 172.5 cmオルセー美術館第3回印象派展出品(W416)。 『サン=ラザール駅列車到着1877年油彩キャンバス83 × 101.3 cmフォッグ美術館(米ケンブリッジ)(W439)。 『サン=ラザール駅1877年油彩キャンバス75 × 104 cmオルセー美術館第3回印象派展出品(W438)。 『サン=ドニ街、1878年6月30日祭日1878年油彩キャンバス76 × 52 cmルーアン美術館第4回印象派展出品(W470)。

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第2回・第3回印象派展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)

カミーユ・ピサロ」の記事における「第2回・第3回印象派展」の解説

第1回印象派展の頃から、デュラン=リュエルは資金難に陥りピサロ作品購入中断してしまった。ピサロアマチュア画家ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)や親友テオドール・デュレ支援頼りにし、モンフーコーのピエット宅にもしばしば滞在した1876年第2回印象派展デュラン=リュエルの画廊開かれたピサロテオドール・デュレ助言に従って出品数を増やしポントワーズとモンフーコーの風景画12点出品した。この時も、印象派批評家からの酷評浴びた権威ある批評家アルベール・ヴォルフ英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派酷評した上、ピサロについて次のように書いたさて、ピサロ氏には次のことを理解させてほしい。木々紫色ではないこと、空は新鮮なバター色ではないこと、どんな田舎にも彼が描くように見えるものはないこと、そしてどんな知性このような錯乱受け入れることができないことを! — アルベール・ヴォルフ、『フィガロ1876年4月3日 ヴォルフピサロ最初に取り上げているのは、ピサログループ首謀者だと見ていたからだと考えられる他方ゾラミュレは、ピサロ称賛する論評発表したピサロ経済的にますます苦しくなり、パリの家を手放したポントワーズの家も差押えを受けそうになったが、ギュスターヴ・カイユボット支援のおかげで、これを免れた。より簡単に売れ陶製タイルに絵を描いたりもした。 1877年第3回印象派展開かれたカイユボット中心となって推進しドガモネピサロルノワールシスレーモリゾセザンヌ賛同した。もっとも、ピサロセザンヌ、ギヨマンは、当初連合(リュニオン)」という反ブルジョア色の強い組織の展覧会参加しようとしていたが、これを取りやめて、印象派展参加したようである。都市風俗画重視するドガは、「印象派」という名称を使うことに強く反対したが、ピサロを含む画家たち主張により、初めて「印象派画家たち展覧会」と名乗ることになり、路線対立顕在化した。ピサロは、支援者ピエットを印象派展招待したピサロ自身は、ポントワーズとモンフーコーの風景画22点出品した医師ジョルジュ・ド・ベリオが、ピサロ主要作品『マチュランの庭、ポントワーズ』を購入した批評家ジョルジュ・リヴィエールは、美術雑誌印象派の画家」の4月14日号で、ピサロ高く評価する論評発表したピサロ同年5月28日ルノワールシスレーカイユボットとともに競売場オテル・ドゥルオ(英語版)で、14点競売出したが、落札額は50から260フランとどまり失敗終わったミュレピサロ助けよう肖像画注文し自分の営む菓子店福引1等景品にしたが、1等引いた女中は、絵をケーキ交換してほしいと言ったという。この年には、再びセザンヌキャンバス並べて制作している。 テオドール・デュレ1878年5月、『印象派の画家たち』と題する小冊子出版しモネシスレーピサロルノワールベルト・モリゾの5人を印象派グループ先導者として選び出し解説書いたピサロの生活がますます苦しくなる中、妻のジュリー1878年11月21日、第6子(四男)リュドヴィクロドルフフランス語版)を産んだ。 『マチュランの庭、ポントワーズ1876年油彩キャンバス、113.35 × 165.42 cmネルソン・アトキンス美術館第3回印象派展出品。 『赤い屋根ポントワーズサン=ドニの丘、冬の効果1877年油彩キャンバス54 × 65 cmオルセー美術館第3回印象派展出品

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第2回・第3回印象派展(1875年-1877年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:28 UTC 版)

ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「第2回・第3回印象派展(1875年-1877年)」の解説

ルノワールは、1875年初め、『婦人2人の娘』の肖像画依頼1200フラン受けた。このことがきっかけで、競売場オテル・ドゥルオ(英語版)での競売会を思い付きモネシスレーベルト・モリゾ誘って同年3月24日競売会を開いたルノワールは、20点出品した参加者嘲笑浴び結果芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワール2点を含む18点購入している。また、収集家出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、ルノワール3点購入している。税官吏ヴィクトール・ショケも、競売会を見てルノワールに妻の肖像画依頼した。こうしてルノワールショケの間には友情生まれルノワールショケセザンヌモネ紹介したシャルパンティエ夫妻ルノワール重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、ギ・ド・モーパッサンエミール・ゾラといった文学者や、各界名士、後に絵のモデル務め女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った並行して1875年サロンにも応募したが、落選したこの頃ルノワールは、絵の売上げ増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りアトリエのほかに、モンマルトルコルトー通りにも庭付き一軒家アトリエ借りることができた。そこで、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の制作取り掛かったサン=ジョルジュ通りアトリエには、相変わらずリヴィエール、エドモン・メートル(フランス語版)、テオドール・デュレ、ヴィクトール・ショケといった友人たち集まった1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともにギュスターヴ・カイユボット宛てて第2回グループ展の開催提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネサロン入選作も激し非難遭ったことなどが理由考えられるショケもこれを後押しした。そして、3月-4月デュラン=リュエルの画廊第2回印象派展開かれたルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点出品した批評家アルベール・ヴォルフ英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派酷評した上、ルノワールについて次のように書いたさて、ルノワール氏には次のことを説明してほしい。女性トルソー胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色がかった緑色斑点を伴う分解中の肉の塊ではないことを! — アルベール・ヴォルフ、『フィガロ1876年4月3日 これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対す批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色緑色使って表現したのに対し物の固有色を重視するアカデミズム絵画立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している。他方エミール・ゾラは、ルノワール肖像画賞賛した。 1877年第3回印象派展開かれたカイユボット中心となって推進しドガモネピサロルノワールシスレーモリゾセザンヌ賛同したルノワールは、モネピサロカイユボットとともに展示委員務めたルノワール出品した21点中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目集めたムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルの丘中腹にある舞踏場で、庶民憩いの場であった巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちキャンバス運んだという。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、ルノワール勧めにより、第3回参加者らを紹介する小冊子印象派』を刊行したリヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロン賑わす芝居がかった物語画(歴史画)に匹敵する現代真の物語画である」と述べた。この絵はカイユボット買い取ってくれたが、全体的に展覧会売れ行き不調であった第3回印象派展最終日1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボットピサロシスレーとともに競売会を開いたが、その成果芳しくなかったそうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家ウジェーヌ・ミュレ、医師ポール・ガシェ作曲家エマニュエル・シャブリエなどの愛好家支援頼みであったマネドガら、カフェ・ゲルボワ常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えたグループ展のメンバーには、パリ離れる者が多かったが、パリ残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りモンマルトルアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出したルノワールは、この頃工芸品への興味持っており、カフェでも、19世紀美し家具時計制作できる人がいないことに文句漏らしていた。 『習作陽光の中の裸婦)』1876年頃。油彩キャンバス81 × 65 cmオルセー美術館第2回印象派展出品。 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会1876年油彩キャンバス131 × 175 cmオルセー美術館第3回印象派展出品。 『ぶらんこ1876年油彩キャンバス92 × 73 cmオルセー美術館第3回印象派展出品。 『すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢1876年油彩キャンバス98 × 71 cmブリヂストン美術館第3回印象派展出品

※この「第2回・第3回印象派展(1875年-1877年)」の解説は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の解説の一部です。
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