社会事業家としてとは? わかりやすく解説

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社会事業家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 03:42 UTC 版)

賀川豊彦」の記事における「社会事業家として」の解説

結核苦しみ、また信仰への懐疑煩悶はんもんしながら、やがて「貧民問題通じてイエス精神発揮してみたい」と一念発起し1909年明治42年神戸市新川スラム住み込み路傍伝道開始する12月24日神戸新川貧民窟転居し、救霊団(のちの神戸イエス団)の事業始めた1911年明治44年)に神戸神学校卒業1912年大正元年)には一膳飯屋天国屋」を開業したハルスラム出会い1913年大正2年)に神戸教会簡素な結婚式挙げたハル印刷工場勤務していた父の転勤に伴い家族とともに横須賀から神戸転居、父が勤務する印刷工場女工となった賀川スラム隣人招いて披露宴行い普段きつねうどん上のご馳走を口にしない彼が寿司折詰配ってハル紹介して言った。「私はみなさん女中をお嫁にもらいましたあなた方の家がお産病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼み来てください喜んで参ります」。 ハル結婚後、賀川とともにスラム貧民救済活動献身不衛生なスラム環境によりトラコーマ感染し右目を失明するも、救貧活動続けた。なお、賀川両眼ともトラコーマ冒され何度も失明危機経験している。 1914年大正3年)に渡米しアメリカ社会事業労働運動垣間見つつプリンストン大学プリンストン神学校学び1915年大正4年)にスラムでの経験ふまえて渡米前執筆した貧民心理研究』が出版される同書は、貧民を外から観察するではなく貧民中にあって観察分析した日本貧民研究史不朽のもの」との評価もあるが、文中被差別部落人々への誤った差別的見解表現があり、のちに、部落解放運動関係者から批判されている。 1917年大正6年)に帰国すると、神戸スラム戻り無料巡回診療始めたまた、米国留学中の体験から貧困問題解決する手段として労働組合運動重要視した賀川は、鈴木文治率い友愛会接触し1919年大正8年)に友愛会関西労働同盟会を結成理事長となった。また同年日本基督教会牧師資格得た1920年大正9年)に自伝的小説死線を越えて』を出版、わずか1年100万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間広めたその後ベストセラー作家として、『一粒の麦』、『空中征服』、『乳と蜜流るゝ郷』など、数々小説発表する。これらの原稿料莫大な印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年労働者の生活安定目的として神戸購買組合(灘神戸生協経て現・コープこうべ日本最大生協)を設立生活協同組合運動にも取り組んだまた、武藤富男と共にキリスト教系業界紙キリスト新聞発行元キリスト新聞社)を立ち上げた1921年大正10年)、神戸三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所現・川造船神戸工場)における大争議指導し労働者による工場自主管理や約35千人組織した大規模デモなどを指導するが、示威行動中の労働者警官隊との衝突により、賀川をはじめ百数十人の組合幹部一斉に逮捕され戦前最大労働争議労働組合側の敗北終わった。これを契機に、「無抵抗非暴力」を唱える賀川は、「直接行動」を主張する急進派左派)から激し批判浴びた。やがて、関西労働運動において急進的なサンディカリスト勢力増し賀川農民運動活躍の場を移すことになる。また、関東大震災被災者救済きっかけ本所基督教産業青年会発足貧民診療所などを経営した1922年大正11年)、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合設立し本格的に農民運動取り組んだ組合急速に発展し3年後1925年大正14年)末には組合員数は7万人超えたこの間1923年大正12年)に関東大震災起きると、直ち現地駆けつけ罹災者救済活動を行う。この活動は、宗教医療保育等、広範囲にわたるセツルメント事業として展開され江東消費組合中ノ郷質庫信用組合設立した。また無産政党運動にも積極的に関与し1926年大正15年)の労働農民党結成当たって執行委員就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重移していった。1925年大正14年)に同志社大学講義行い中島重影響与え友誼を結ぶ。1929年昭和4年)、日本基督教連盟の特別協議会賀川主導により「神の国運動」を議決賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年昭和7年)まで全国伝道のため巡回した。また米国中国欧州世界各国講演活動を行う。 賀川1938年5月満洲視察する旅行に出かけた。南満洲鉄道がほぼ丸がかえ汽車飛行機自動車乗り継ぐ4週間の旅で全満洲主だった都市をめぐり、満鉄総裁松岡洋右共和中央本部総務部長甘粕正彦とも会談した帰国後、賀川満洲基督教開拓日本基督教連盟提案し満洲長嶺子と太平泰に2つ基督教開拓つくった1940年8月25日渋谷憲兵隊反戦平和論拘引される。1941年昭和16年4月リバーサイド日米キリスト者会議アメリカ合衆国キリスト教会に「アメリカ教会への感謝状」をおくった1943年5月27日神戸憲兵隊留置取調をうける。 第二次世界大戦に関しては「国際戦争反対同盟」に属したが、1943年昭和18年11月3日憲兵隊による取調べを境に同同盟脱退、「国際友和会日本支部」を自ら解散している。賀川は、徳島中学時代軍事教練拒否鉄拳制裁を受けるなど、生来平和主義者であり、その平和思想危険視する憲兵隊逮捕されるなど弾圧を受けるが、太平洋戦争大東亜戦争後期において(一説には太平洋戦争当初から)、多く宗教家同じく戦争協力的な姿勢であった。これは、賀川設立した協同組合等社会事業とその関係者や、彼を慕う多く弟子支持者軍部弾圧から守るため「取引」をしたものともいわれている。1944年10月20日宗教使節として中国おもむいた終戦敗戦)により中止となったが、1945年昭和20年8月16日には賀川奨励者として名を連ねる戦意昂揚音楽礼拝」が「日本基督教団戦時活動委員会」の主催により予定されていた。 その後太平洋戦争敗戦による強制接収にて中国から帰国していた清水安三郁子夫妻と偶然知り合い1946年学校法人桜美林学園創立のため、町田市内の米軍工場跡を安三に提供した。安三と共に桜美林学園創始期運営携わり初代理事長就任したが、後に方針違いから安三と袂を分かつ形で桜美林学園去っている。

※この「社会事業家として」の解説は、「賀川豊彦」の解説の一部です。
「社会事業家として」を含む「賀川豊彦」の記事については、「賀川豊彦」の概要を参照ください。

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