渤海滅亡と高麗への亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:46 UTC 版)
「渤海 (国)」の記事における「渤海滅亡と高麗への亡命」の解説
928年、929年になると、渤海人の高麗への来投が相次ぎ、東丹国西遷時にあたるため、東丹国西遷に抵抗する者あるいは圧迫を受けた者と推測される。その後、契丹滅亡まで、継続的に渤海遺民の亡命記録があり、934年の大光顕亡命の際に数万人、979年に数万人、契丹の大延琳反乱鎮圧時には契丹人も含む500人以上が亡命しており、最後の来投は1116年末から1117年頭にかけて契丹から来投した100人弱である。契丹滅亡時に、渤海遺民の高永昌が遼東の東京に拠って大渤海を称したが、金に潰され、最後に来投した渤海人はこの余党とみられる。 三上次男は、渤海滅亡直前に渤海人の高麗への亡命が相次いでいることから、渤海宮廷で内紛が勃発していたことを指摘している。日野開三郎は、東丹国の遼東移治後、旧渤海領に2つの地方政権が誕生したと推測し、上京龍泉府に拠ったのが後渤海、西京鴨緑府に拠ったのが大光顕政権とした。後渤海の主権者は大諲譔の弟、大光顕政権は大光顕であるが、後渤海と大光顕政権が別個の政権であるか否かは決し難いが、大諲譔の弟と大光顕とが宮廷の内紛の対立者である可能性はある。来投者の職官は、文官は司政、礼部卿、工部卿であり、武官は左右衛将軍、左首衛少将などである。司政は国の政務執行機関である政堂省の次官、礼部・工部の二卿は、政堂省に属する6つの最高行政機関のうちの礼部および工部の長官であり、左右衛将軍は禁衛守護を任官された南北左右衛の将軍とみられ、来投者は、いずれも中央政府あるいは禁衛の大官・将軍である。来投者の姓は、大和鈞、大元鈞、大福謨、大審理など王族の大氏が多く、来投者のうち、中央政府高官は王族とみられるため、事件の重大さを窺わせ、来投者に率いられた民も、500人、100戸、1000戸など数は少なくない。 『遼史』巻七五耶律羽之伝には、遼が渤海国を滅したのち、故地と民を基盤につくった傀儡国東丹国の宰相耶律羽之が、東丹国の民を遼東に移すことを説いた上書の一節があり、その上書には、太祖が渤海の内紛に乗じて出兵、戦わずして勝利し、渤海を滅ぼしたとする意味があり、簡略な一句であるが、渤海政治史にとって極めて重大であり、これこそ内紛の事実を裏書きし、あるいは内紛を具体的に伝えたものといえる。 渤海昔畏南朝、阻險自衛、居忽汗城。今去上京遼邈、既不為用、又不罷戍、果何為哉、先帝因彼離心、乘釁而動、故不戰而克。天授人與、彼一時也。渤海は昔、南朝(中国の王朝)をおそれ、阻険によって自ら衛り、忽汗城(いまの黒竜江省東京城)に居る。いま上京(遼の首都、すなわち上京臨潢府)をさること遼邈にして既に用をなさず。…先帝(遼の太祖)彼の離心により、釁に乗じて動く、故に戦わずして克つ。天、人と彼とを一時に授くるなり。 — 遼史、巻七五 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。遼史/卷75 高麗は、亡命渤海人に対してあまりよい処遇をしておらず、渤海の世子を称した大光顕に対して、王継という姓名を与え、王室戸籍に編入、都に近い白州の長官に任命し、祖先の祭祀をおこなわせたが、高麗は、帰順した豪族をその地の長官に任命し、支配を委ねるのが一般的であったことから、この待遇も亡命渤海人を白州に移住させて、大光顕を実質的な統治者に任じたとみられるが、新羅のように王室と婚姻を結ぶあるいは官僚として任用するなどの実質的優遇はない。新羅の場合、670年に高句麗王族の安勝(朝鮮語版)が来投すると、これを高句麗王、ついで報徳王に冊封、金馬渚に高句麗を復興させて、新来高句麗人の受皿にした。680年、新羅は安勝(朝鮮語版)に王妹を娶らせ、高句麗王家と新羅王家の結合を図り、683年には新羅王家と同じ金姓を賜り、王都慶州に居住させ、安勝(朝鮮語版)を新羅の貴族とし、自国の貴族として高句麗王統を維持させている。 また、亡命渤海人を失土人、遠人と呼び、異域の民とみなした史料の存在も明らかとなっており、高麗時代の大氏の子孫は、文臣より劣る武臣・胥吏としてのみしか記録に登場しない。また、朝鮮半島南部に移住させられた亡命渤海人の居住地は部曲あるいは所であり、部曲あるいは所とは、郡県に隷属し、特定の役を課された行政区画であり、その住民の身分は一般良人より低い。 高麗亡命後の大氏の動向が最初に記録に登場するのは、10世紀末から11世紀初の三次にわたる契丹の高麗侵攻であるが、『高麗史』によると、第一次高麗契丹戦争(中国語版)において、大道秀(朝鮮語版)が契丹軍を安戒鎮で阻止するのに活躍、第二次高麗契丹戦争(中国語版)では、西京の防衛に従事したが、保身をはかる同僚に欺かれて、契丹に投降している。また、第二次高麗契丹戦争(中国語版)では、大懐徳が郭州の攻防戦において戦死しているが、大道秀は『遼史』に「高麗礼部郎中渤海陀失」とあるため、明らかに渤海系であるが、大懐徳も同様とみられる。大道秀の肩書は、『遼史』に「礼部郎中」という文官として登場するが、高麗の記録が伝える中郎将、そして将軍という武官を採るべきであり、最初から武官を本来の肩書として帯びた武臣とみられ、大懐徳も同様であり、高麗初期の大氏は武臣の地位であると判断される。 高麗中期になると、1181年に慶大升に対する反乱計画の密告者として、令史同正大公器なる人物が記録に登場するが、大公器の肩書は、中央官司の胥吏の散職であり、両班の一翼をなす武臣より一段低い政治的、社会経済的境遇にあることが確認できる。 1218年に大集成(朝鮮語版)なる人物が記録に登場する。崔忠献は、武臣政権の安定策として、武臣の歓心を買うため、大集成などを借将軍(散職の将軍)に昇進させており、高麗中期においても、大氏は武臣の地位であることがわかる。その後、大集成は、武臣政権の執権者崔瑀との結びつきから権勢を伸ばし、1232年に大集成の娘が崔瑀の後妻に迎えられ、外戚の地位につき、モンゴルの高麗侵攻の回避と崔瑀の政権維持に役割を果たした。15世紀成立の『世宗実録地理志』の黄海道条によると、牛峯県には亡姓(高麗時代にはその地に土着していたが、李朝初めまでに他所に移動し、存在しなくなった姓氏)として崔氏および大氏がみえ、高麗時代には、崔氏および大氏も牛峯県におり、大集成の本来の出身地は牛峯県とみられ、大集成の栄達の背景には、崔忠献と同郷という要素が推測され、崔瑀の威勢に依付したものとみられる。崔瑀の後継者である崔沆は、政権掌握過程における金敉との対立に際し、継母大氏(大集成の娘)が金敉を支援したことを怨み、1250年と1251年に、継母大氏(大集成の娘)および族党に大弾圧を加え、大集成の族党を全羅道へと流配させた。 武臣政権の末期には、モンゴルの高麗侵攻と関連し、大金就が登場する。1253年、大金就は校尉の肩書で、牛峯別抄30余人を率い、金郊・興義両駅間においてモンゴル帝国軍(英語版)と交戦、6年後には開城に侵攻したモンゴル帝国軍(英語版)を撃退している。この事例から、大金就もまた武臣の地位(しかも比較的低い)であることがわかり、大金就の率いた牛峯別抄は、牛峯県で組織された編成軍であり、牛峯県所在の大氏の一員として、大金就が指導にあたったと推測される。 李氏朝鮮初期に編纂が進められた『新増東国輿地勝覧』巻三二慶尚道金海都護府姓氏条に、慶尚道金海都護府所属の部曲の姓氏として、田氏および大氏が記され、『新増東国輿地勝覧』巻二四慶尚道醴泉郡姓氏条には、李氏朝鮮初期までに他所から移住した者とみられる大氏が、所在地名「亏尒谷」(朝鮮語: 우니곡)を付して記されており、「亏尒谷」(朝鮮語: 우니곡)は、大氏の移住前の本来の居住地を意味し、醴泉郡に隣接する尚州所属の亏尒谷所に該当する。李氏朝鮮後期に編纂された大集成(朝鮮語版)の後裔とされる大氏の『永順大氏(朝鮮語版)族譜』は、慶尚道尚州永順面(朝鮮語版)を本貫としているが、永順面(朝鮮語版)は、『高麗史』巻五七地理志二慶尚道尚州牧条に「諺伝、州北面林下村人姓太者、捕賊有功、陞其村、為永順県」とあり、それを、『増補文献備考(朝鮮語版)』巻五二帝系考・付氏族・太氏条の永順大氏(朝鮮語版)の部分では、「高麗時、永順部曲民、有太姓者、捕賊有功、陞部曲為県」としており、林下村も部曲と推測され、高麗時代の部曲あるいは所は、地方行政制度の一環をなす行政区画であるが、郡県の下に隷属、住民全体が国家の課した特定の役を世襲的・集団的に義務づけられた政治的、社会経済的に郡県とその住民より低い境遇におかれ、金、銀、銅、鉄、磁器、瓦、炭・墨、紙、紬、絹、茶、ショウガ、ワカメ、塩、魚類などの物品の生産・貢納が義務づけられていた。 北村秀人は、10世紀初の高麗が進めた渤海遺民の受容を、渤海を朝鮮の歴史の一環として位置づける立場から、渤海の併合・吸収による、朝鮮史上最初の本格的統一だとする見解が、主に北朝鮮学界で主張されているが、そうした見解は十分な裏付けがない、と評しており、「記録に現われる当時の大氏の実例をみると、いずれの時期の亡命者の場合も、高麗での政治的、社会経済的な地位・境遇は、どちらかというと、低く劣ったものであったことが窺える。こうしてみると、高麗の歴史展開における渤海系民の比重や意義などの評価に関しても慎重さが求められることになろう」と述べている。
※この「渤海滅亡と高麗への亡命」の解説は、「渤海 (国)」の解説の一部です。
「渤海滅亡と高麗への亡命」を含む「渤海 (国)」の記事については、「渤海 (国)」の概要を参照ください。
- 渤海滅亡と高麗への亡命のページへのリンク