渤海王の上表文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 13:31 UTC 版)
『続日本紀』天平勝宝5年(753年)6月8日条に、孝謙天皇が高麗(渤海)の古い記録を調べた際、渤海が国を平定した日の上表文の記述として、 「日本と渤海は血族なら兄弟にあたり、義の上では君臣の関係にあります。そのため、ある時には援兵をお願いしたり、あるいは天皇のご即位をお祝いしたりしています。朝廷に参上する不変の儀式を整え、忠誠の真心を表します」 と聖武朝ではあったのに、今の代(孝謙朝)では渤海から上表が出されていないのはなぜかといった記述がなされている。 宝亀2年(771年)12月21日条では、上表文を持った壱万福らが入京したが、同3年(772年)正月16日条において、その上表文が無礼であるとして、咎められる記述があり、先例と異なったため、受け取らない処置がとられている。さらに、同4年(773年)6月12日条、渤海国使の烏須弗(うすふつ)が上表文を持ってきたが、6月24日条において、前使の壱万福らの進上した上表文の言葉は驕慢であったので、その事情を告知して、すでに退去させてしまっていると記され、能登国司の言上では、「渤海国使の烏須弗らの進上した上表文とその函も、通例と違っていて無礼である」と報告し、朝廷に召さず、本国に帰らせる処置をとっている(『続記』の記述では、国使は、このまま帰れば、罰を受けると泣いて抗議をしたとされる)。同10年(779年)11月9日条、渤海押領(統率者)・高洋粥(こうようしゅく)らの上表文は無礼であるから進上させてはならないと記述されており、聖武朝以降は態度が変化していることがわかる。
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