渋谷定輔との関係
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黎子が定輔と知り合う前、先述の詩『悲しき揺籃 蚕期農村の子供のこと』において、農民たちの苦しみを著していた頃、定輔もまた1926年5月に、黎子のもとから数百キロメートル離れた南畑村において、養蚕労働の過酷さを日記に綴っていたことが『農民哀史』に記録されている。このことから、定輔と黎子は、互いを知る由もない時期から、奇しくも全く同時期に、農民たちに対して同じ思いを抱いていたことになる。日本の産業革命に伴って農村が資本主義に浸食され、プロレタリア文学においても農民文学がピークとなり、新潟県で木崎村の小作争議の資金援助のために『農民小説集』(新潮社)が出版されたほどの時代であった。 母は疲れはてたからだをひきずりながら、蚕の世話に追われている。蚕が出ると一日に七回給桑する。(中略)夜はおそくまで、蚕にすくもをふり、給桑する。弟も妹も疲れきって桑おろし場にごろ寝だ。地獄の底だ。そこから日本の最大の輸出品は生産され、その生産者は、こうしてどん底に呻吟し、黙々として消えてゆく。呪うべき資本主義よ。(中略) 夜になると、みんな疲れて死人のような状態だ。地獄の底をミイラが動いている気がしてくる。誰のための労働か。誰のための蚕と繭と生糸と絹織物か。 — 渋谷定輔『農民哀史』、渋谷 1970, pp. 289–312より引用 また同じく『農民哀史』においては定輔は、黎子との文通を始める前年の1926年の3月から6月にかけ、自身の女性観を「世界のどこかに、おれと同じようなことを相思する女性がいるに違いない。それは思想の川につながっているに相違ない! 思想の川をのぼって行こう。激流は覚悟している!」「人類的に意義のある農業労働生活を、真に理解し共働する女性の友」「私は社会生活の基礎が、衣食住の安定と男女の調和であると考える」と考えていたことが記録されている。このことで桜の聖母短期大学教授の二瓶由美子は定輔を、黎子の出逢うことのできた良きパートナーだとしている。 黎子と定輔が1927年末頃より文通していた頃、黎子は農民運動を志しながらも、自分の思想がまだ初歩的であることを自覚していた。そんな彼女にとって定輔は、遠慮なく厳正に批判してくれる指導者であった。他にも運動家の青年たちはいたが、黎子にしてみれば、彼らは主義や説を武器とする暴君に過ぎなかった。貧農出身で飢餓から階級闘争に入った定輔を、彼らと比べてずっと真面目で実践的な人物であり、そうした清純な人格こそが、当時の無産運動に必要と考えていた。 私は初めっから、私の悪い、言わばプチブル的な点をよく指導し、誤謬を粉砕していただくために、いわゆる、厳正な指導者として、あなたを多分に尊敬も来もし、(中略)何でもそのままに、私の考えを書いたのですから、私としては、悪い点は常に正しく「あなたはここが悪い」と遠慮なく言って欲しいのです。(中略)現在までの友人は、理論において、学術において、本当に素晴しい人達が多かったかもしれない。けれども、それらの人達は、いずれも、ブルジョアあるいはインテリゲンチャーのそれであって、イズムを武器に持つタイラントでしかなかった。(中略)素晴しい理論家よりも、実行化の真面目さが欲しい。(中略)私は、あなたを、現在では、私の永いこと、常に探し求めて来たすべての条件に適合する指導者として尊敬しております。 — 黎子から定輔宛ての手紙、1928年8月30日付、渋谷 1978, pp. 20–21より引用 定輔もまた、社会主義へと傾倒する黎子に、出身階級こそ違えど自分と共通する境遇を感じていた。また、マルクス主義に足を踏み入れながらも自身を初歩的と語る黎子に、謙虚な人間性、素直な性格を感じ取っていた。 1928年9月6日に「訣別する旧同志への書簡」への返信として送られた手紙には、黎子が定輔を他の思想家たちと激しく区別していたことが強く表れている。 インテリゲンチャー出身の理論家の一人が、私をある左翼の支部に是非行くようにと、生活までも保証し、指導を引き受けるとまで言ってくれたことがあった。だけど私はその時行かなかった。なぜなら、その人は激しい理論家でまた実際家ではあったが、今にして思えば、常に悩みつつあるプチブル的イデオロギーを、実生活において一歩半歩も脱していない人であったから。 — 黎子から定輔宛ての手紙、1928年9月6日付、渋谷 1978, p. 29より引用 これら黎子からの手紙に対する定輔からの返信は、『この風の音を聞かないか』には見られないが、定輔の没後、富士見市に寄贈されていた約4万点の定輔の遺品や資料類の中から、定輔すら行方を失念していた黎子との往復書簡の束が発見された。それによれば、定輔はまだ黎子に逢う以前から「僕の頬は熱く赤い、僕はこの実状を表現すべき文字を知らない」「グングンとあなたの魂に引き込まれて行くような気がしてならぬ」など、熱い想いが述べられている。 結婚直前の1929年12月には、黎子は姉宛ての手紙で、定輔のことを以下のように紹介している。 幾人かの求婚者の中から、自分の最も尊敬出来る人を一人選びました。おそらく、今までの私の知人の中で、現在の社会的地位においては一番低い階級の人です。学歴は無い、家は貧農。(中略)自転車一台と行李一個を持っている他に、物としては何一つ持ってはいないのです。だが、仕事をする実力と、強い意志と、明晰な頭脳と、何人にも持たないような真面目さとを持っています。 — 黎子から姉宛ての手紙、1929年12月4日付、渋谷 1978, p. 123より引用 黎子にとって定輔は、師であると同時に、結婚宣言にもあるように、対等な運動家としての関係性を重んずる存在でもあった。以下の声明文の一文は、当時の共産主義者たちが、共鳴者の女性を利用して犠牲を強いることが問題視されていたことから、思想と運動と生活とを一体化し、対等な運動家としての姿を実現しようとしていたものと見られている。このことから定輔と黎子を、性別を超えた同志的関係とし、互いの自立と支え合いの姿を見出すことができるとの意見もある。 しばしば、社会運動者の恋愛ないし結婚等を、支配階級のあらゆる機関が利用し、逆宣伝の材料にしましたので、私達はそれを粉砕する為に、声明文の形式をもって私たちの態度を闡明し、結婚挨拶に代えるのであります。 — 渋谷定輔・渋谷黎子「結婚についての声明書」1930年1月、渋谷 1978, p. 132より引用 結婚後から埼玉県内の農民運動の身を投じるまでは、定輔が各地の農民運動のために長期にわたって家を空けると、黎子は不安がり、彼が検挙されたのではと不安に陥ることも多かった。疲労、孤独感、気弱さから、捨てたはずの故郷や母を思い出して悲しみに暮れることもあった。そのような精神状態を見透かしたかのように、定輔は必ずといってよいほど電報や手紙で連絡し、その都度、黎子は元気を取り戻していたという。 先述の通り上野公園での会話の行き違いや、日記を書くことを注意されたように、夫妻の間では意見の対立や感情の食い違いは、到るところで現れたと見られている。しかし黎子は、疑問があれば納得のいくまで定輔に説明を求め、その努力に定輔もまた教えられるところがあった。こうして夫妻は、共に成長していったと考えられている。この点については黎子らの同志である農民運動家の山本弥作も、後に以下のように回想している。 彼らの間はまず階級的協力者として固く結ばれ、お互いにその階級的成長を助け合い(彼女は渋谷君から革命的貧農としての良さを、渋谷君は彼女から革命的インテリとしての良さを得た)、この基盤に立って愛情こまやかな家庭生活を展開したのである。 — 山本弥作「同志渋谷黎子を憶う」、杉山 1988b, p. 45より引用 1931年より定輔が負傷をおして農民活動に入った頃の黎子の日記には「私は彼をこのように尊敬出来ることはとてもうれしいことだ。結婚したものにとって、相手を尊敬し愛し切れないことは、非常な不満であろう」とあり、かつて福島の実家で縁談を断り続けてきた黎子にとっては、夫である定輔を信頼し、敬愛し、共通の目標に向かって邁進できることは、大変な幸福感であり、何物にも代えがたかったと見られている。また山崎朋子は、定輔が頭を負傷した際に黎子が定輔の身を案じて書いた手紙を指して、「古今のどのようなラブ=レターにも優っている」と述べている。 黎子の死後、定輔は、黎子の直接の死因は弾圧であるが、同志であり夫である自分に責任があると、罪の意識にも似た感情を拭いきれなかったが、同志の1人である福島県高商社会科学研究会の服部ナホから黎子のことを「思想的にも行動の上でも、自分の思ったことをやり抜いて亡くなったんだから、女として幸せだった」と聞かされ、このことが生きる支えになったという。
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