渋谷定輔との出逢い
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1927年(昭和2年)、渋谷定輔が講演のために東北地方を回っており、黎子は福島での講演会に聴衆として参加した。黎子は先述の通り、すでに定輔の『野良に叫ぶ』を読んでいたこともあって、その講演内容に非常に感銘を受けた。 定輔が『婦人運動』の寄稿者だと知って親近感を抱いたこともあり、同年末より定輔と文通を始めた。黎子が定輔に手紙を送ったことが、文通のきっかけとなった。文通の中で黎子は、政治的抑圧による緊迫した状況下で定輔の安否を尋ねたり、自分の現況や苦悩を打ち明けて相談したり、家柄に拘る実家から脱出し、職業婦人となって新たな生き方を捜すことの望みを打ち明けるなどしていた。また、村の貧しい農民たちの生活は『野良に叫ぶ』とまったく同じにも関らず、農民たちの解放を真剣に考えて運動する者が皆無だと訴えてもいた。当時の定輔は、農民自治運動の解体後、新しい農民運動の展開の準備に明け暮れ、統一戦線を模索する最中にあった。この統一戦線の模索は頻繁に、2人の文通の共通のテーマとなっていた。文通の際は、黎子があらかじめ定輔宛てに、差出人を女性の名前とした封筒を何通も送っており、定輔はその封筒を用いて黎子に返信するという、慎重な方法がとられた。 1928年(昭和3年)7月頃より、文通は頻繁になった。文通が進むにつれ、黎子は定輔に「こんなに手紙を送っているのに返事を書いてくれない」と恨み言を書き、その直後に「あなたは多忙だから仕方ない」と書き、恨み言を取り消すといった具合に、次第に定輔に傾倒していった。この頃、黎子は社会主義思想で検挙されたこともあり、長姉は黎子に、そうした思想を持つなら家を出るようにと怒りつけていた。 同1928年9月に定輔から黎子へ、農民自治会の脱退時に農民運動家の竹内愛国に宛てた「訣別する旧同志への書簡」が送られてきた。これは定輔の農民運動の総括ともいえる原稿用紙18枚の長文であり、原本と複写の2部しか存在しない内の複写を黎子へ送ったものであり、自分の心情を吐露するために送られたものと考えられている。黎子はこれに感銘を受けると共に、定輔の思想に共感した。9月5日付の定輔宛ての手紙では「この生きる道が私に見つからなかったら、私はすでに、女学校三年の時に自殺したかもしれないのです」と述べており、これが生涯の方向を決定する転機となったと見られている。 同1928年11月、定輔との出逢いの機会が訪れた。当時の定輔は特高により「思想特別要視察人」として認定されていたことから、宮城県白石町(後の白石市)に潜伏しており、黎子の指定した待合せ場所である梁川駅(福島電気鉄道)に、朝9時頃に到着した。黎子は生憎、当日が自宅での見合いの日になってしまい、何とか抜け出して梁川駅へ向かう旨を、定輔に伝えていた。しかし黎子は一向に現れず、定輔は猛吹雪の中、駅舎で昼食もとらずに黎子を待ち続けた。定輔の帰りの最終バスの時刻である16時頃に、ようやく黎子が現れた。しかし家の女中が同伴していたため、一言も言葉を交わすことができず、駅舎の中で目で挨拶のみした後、黎子は何事もなかったかのように吹雪の中を帰っていき、定輔も最終バスで帰途に就いた。その頃の池田家では、黎子が見合いの最中に突然にして姿を消したことで大騒ぎになっていた。数日後に黎子は定輔宛ての手紙で、見合いによって到着が遅れたことを詫び、結婚によって自分を奴隷化する家との戦いへの協力を求めた。 同11月、黎子は粟野村で定輔と出逢い、2人きりで林道を歩いた。会話の内容は甘いものなどではなく、農民運動についての話し合いであり、農民運動における全国的な統一戦線の結成こそが緊急の任務として2人の意見は一致した。付近の労務者たちから冷やかしの声を浴びたが、当の2人には恋愛や結婚などの意識はなく、手を握ることすらなかった。この出逢いを通じて黎子は、定輔の人間性を再認識し、全幅の信頼を置くに至った。
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