日本における牛乳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 17:48 UTC 版)
日本では太平洋戦争後にアメリカ合衆国からの脱脂粉乳を含む食糧支援のララ物資を経て、1954年に学校給食法が制定され、牛乳の提供を規則としてから広く普及してきた。近代以前においては、日本や中国で、牛乳は普及していなかった。しかし、歴史上、日本国内で一切牛乳が利用されなかったわけではなく、史書で僅かながら牛およびその乳を利用してきたことが分かっている。 『日本書紀』には、神武天皇の東征において、弟猾なる者が天皇一行を持て成した折に「牛酒(ししさけ)」を献上したという記述が見られ、これは牛肉と酒のことではないかという研究がある。一般には、560年(欽明天皇21年)に百済の智聡が、日本に伝えた医薬書に、搾乳などについての記述があり、これによって広まったとされる。考古学的には、日本列島では2015年時点で弥生時代における牛の飼育は確認されていない。古墳時代には牛を形象した埴輪が出土しており、奈良県御所市の南郷遺跡群からは5世紀頃の牛臼歯が出土しており、この頃から家畜利用されていたと考えられている。 その後、北魏以来の鮮卑・匈奴の牧畜文化を濃厚に継承する唐の影響の大きな時代には、彼らの乳の知識が日本にも伝来し、酪・蘇・醍醐といった乳製品に加工され一部の階級層には食べられていた。しかし、奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出したことで、以降は仏教の普及とともに、次第に牛乳を飲む風習は薄れていったとされる。一方で、考古学的には古代における牛肉食の存在も指摘される。 「牛乳を飲むと牛になる」という迷信があり、それを知った少年時代の織田信長が、「実際に牛になるかどうか試す」と言って牛乳を飲んだという逸話がある。これは当時、牛乳が一般的な食品では無かった事を意味する。江戸時代末期に来日した、初代・駐日アメリカ合衆国大使のタウンゼント・ハリスが所望した時も、「あんなものを飲んでいるから、獣のように毛深いのだ」と噂されたほどである。 それでも、江戸時代には、僅かながら日本でも乳製品の利用が始まっている。陸奥国北部の盛岡藩で寛永21年/正保元年(1644年)から天保11年(1840年)にかけて書き継がれた「雑書」に牛乳に関する記録が見られる。「雑書」によれば、対馬藩における国書偽造事件(柳川一件)において対馬藩主・宗氏の外交僧である規伯玄方(きはく げんぼう)が盛岡藩にお預けとなっていた。盛岡藩は南部馬の産地として知られるが、馬利用の一方で南部牛の利用も盛んに行われており、牛角や皮革も利用されていた。「雑書」によれば盛岡藩主の南部重直は慶安3年(1650年)に規伯玄方の奨めにより牛乳を用いたという。 『倭漢三才圖絵』には古代の乳製品である蘇や醍醐などの製法が書かれており、『本朝食鑑』にも乳製品を利用した料理が載っている。宇田川玄真は、日本で初めて、西洋のチーズ作りの本を翻訳している 江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗は乳牛の輸入を行い、それ以来、薬としてわずかばかり使用されていた様子である(ただし、当初は馬の薬として用いられ、人間のための薬ではなかったと言う説もある)。第11代将軍・徳川家斉は『白牛酪考』と言う本を作らせており、腎虚、労咳、産後の衰弱、大便の閉塞、老衰から来る各種症状に効くといった効能が書かれている。ただし当時の日本には、通常の食品としては忌避されるものを薬として服用する習慣があり、牛乳もそういった位置づけであった。水戸藩主の徳川斉昭は、自らの庭に乳牛を飼い、健康のため、牛乳をギヤマンの器に入れて飲んでいた。斉昭の著書『菜食録』では、牛乳は精力剤であるとの説明がある。 現在の千葉県白子町出身の前田留吉が、オランダ人より酪農に関する技術を学び、1863年に開港地である横浜で本格的な牛乳の国内生産が始まり、その後、次第に広大な原野を持つ蝦夷地(北海道)に拠点が移される。 明治4年(1871年)に、「天皇が毎日2回ずつ牛乳を飲む」という記事が新聞・雑誌に載ると、国民の間にも牛乳飲用が広まった。 明治維新を経て、1875年(明治8年)には、当時の北海道開拓使において、国産第一号の欧米風チーズが試作された。このとき、元来の農家は家畜から搾乳する行為を嫌ったとされ、牛乳販売を事業として行ったのは主に士族出身者であった。牛乳販売は、失敗が多かったとされるいわゆる「士族の商法」の代表的な成功例である。これにより、北海道で大規模酪農としての牛乳の生産が行われるようになった。 1900年4月7日、内務省は牛乳営業取締規則を公布し(省令)、容器がガラス瓶になった。 第二次世界大戦後には、1946年以降にアメリカの救援食料であるララ物資による脱脂粉乳が輸入された。1947年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)公共衛生福祉局の招請で来日した医学者らが、日本の疫痢の原因を血液中のカルシウム不足であると言及。児童が牛乳を採る必要性に言及している。1954年の学校給食法が牛乳を出すことを規定したため学校給食へ導入された。食生活の欧米化も経て広く飲まれるようになった。日本における生乳の生産量は、年間約820 - 840万トン(うち、市乳向けは400万トン弱)で、約4割が北海道で生産されている。 1966年には201万klだった牛乳の消費量は、1996年に505万klと30年間で約2.5倍に増加した。しかし、以降は少子化による学校給食用牛乳の消費減少や、消費者の牛乳離れ等により消費は減少に転じている。2013年の消費量は、ピークだった1996年時に比べ、約3割減の350万klであり、17年間で150万kl減少している。特に若年層の牛乳需要の拡大を図るため、2005年(平成17年)より、中央酪農会議は「牛乳に相談だ。」というキャンペーンを実施。2006年には北海道で1000トンが廃棄される事態も発生した。
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