日本における災害医療の歴史とは? わかりやすく解説

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日本における災害医療の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 11:57 UTC 版)

災害医療」の記事における「日本における災害医療の歴史」の解説

神話時代 わが国記録残っている最古災害医療に関する記述は、古事記712年 太安万侶 編纂)の時代にまでさかのぼる。創生神代の巻において、災害医療災害看護に関する記述であろう読み取れる一節がある。 それは出雲国旅していたオオナムヂ大国主命)の話である。 伯耆(ほうき)の国で、八十神々オオナムヂ大国主命)を殺そうとして、イノシシの姿に似せた大岩真っ赤に焼いて、山の上から転がり落としたオオナムヂは、焼けた岩に押し潰され死んでしまった。それを聞いた母神の サシクニワカヒメ(刺国若比売命)は 殺されたわが子を見て哭(な)き悲しみ高天原上って 天の大神・カムムスビ(神産巣日神)に助け求めた大神は、赤貝女神・キサガヒヒメ(𧏛貝比売)と、女神・ウムギヒメ(蛤貝比売)の二柱女神遣わして、彼を作り生かさせた。キサガヒヒメは貝の殻で焼けたオオナムヂの骸を丁寧に岩から剥がし、ウムギヒメは母神乳汁混ぜ合わせてオオナムヂ焼け爛れた体にくまなく塗った。まもなくオオナムヂ生き返ってうるわしい男に戻った。 これは、現在の鳥取県伯耆大山鳥取県西部にある中国地方最高峰火山で、古名火神岳(ひのかみだけ)という)の噴火によって人々大火傷負った出来事伝承であると考えられるある日突然火の玉火山噴石)が降って来て一人の男が全身大火傷を負う。母親火傷した子の命を助けようと、当時権力者に救い求め女性たち手当て介抱をする。ここに、当時災害発生直後人々の姿を見ることができる。また、焼けた皮膚丁寧にはがし、タンパク質を含む乳汁を塗る という手当ては、現代のような優れた医薬品衛生材料が手に入らなかった当時としては、最先端治療法であった考えられる中世 奈良・平安時代戦国時代以降にも、多く自然災害戦乱起きていたが、医療行為そもそも日常生活一部であるため、当時文献戦乱災害被害記録残っていても、それに対す医療活動詳細残っていないことが多い。一般庶民現在のように 当たり前に医療受けられるような時代ではなく高価医療は都の貴族たちや武将など、一部の者が受ける程度であった。またわが国聖徳太子時代から永きにわたり 仏教であったため、外科治療基礎となる人体解剖学は 「遺体切り刻むなど狂気の沙汰だ」 とされ、長らく発展しなかった。 そのため 治療法煎じ薬など漢方薬による内科的治療と、栄養のある食事をさせるといった自然治癒力に頼る治療法主流であった考えられ当時災害医療は、負傷者傷口井戸水などで洗浄した圧迫止血したりといった、現在の応急手当程度レベルのものであった考えられる災害医療使えるような本格的な外科医療が始まるのは、「解体新書」などに代表されるような西洋医学入ってくる江戸時代末期から明治時代になるまで待たなければならなかった。 近代 わが国本格的に看護婦(※ 現在は法改正により「看護師となっているが、当時は「看護婦」と称していたため、歴史的記述の際は、当時呼称用いる) が養成されようになった明治20年1887年以降看護婦活動した最初の火災害は、明治21年1888年)に発生した磐梯山噴火である。 この災害では、水蒸気爆発山体崩壊火砕流により、山麓にあった複数々が住民もろとも土砂飲まれ、また民家爆風になぎ倒され死者461名を超す大惨事となった。 なんとか救出することができた負傷者多く裂傷骨折打撲などを負っていたといわれ、発災直後から地元開業医たちが総出初期治療当たったが、医薬品医療機器の不足から対応は困難を極めたその後火山災害としては初めて、日赤病院から医師看護婦救護員など15名、東京帝大からも医師たちが派遣された。 明治24年1891年)に発生した濃尾大地震は、愛知岐阜の両県を襲った直下内陸地震であり、約14棟の家屋倒壊火災で、死者7千人を超す大惨事となった東京から帝国大学病院赤十字病院慈恵医院当時)や順天堂医院関西からは京都同志社病院、そして大阪からも多く医師看護婦被災地入り災害医療当たった日本赤十字では、その前年明治23年1890年)から、戦時救護目的とする「救護看護婦」の養成始めていた。濃尾大地震の際には、1年半看護教育修めた一回10名と、従来から赤十字病院勤務していた看護婦 21名が、医師たちと共に救助赴いた救護看護婦傷病者担架搬送や、医師外科診療補助当たった。この経験から、救護看護婦養成目的一つに「天災自然災害時の救護」を加えることになった明治29年1896年6月発生した明治三陸地震では、現在の岩手県 釜石市東方200km震源とする地震により、リアス式三陸海岸を、当時観測史上最高となる38.2mの巨大津波襲い現在の宮城岩手青森の3県でおよそ2万2千人近い死者を出す大惨事となった。この時も東京の日救護班派遣されたが、太平洋沿岸部の道路大津波により広範囲浸水寸断されていたため全く通行できず、やむなく救護看護婦らは迂回路として険しい山道を徒歩越えて被災地へと向かった大船渡では、津波被害免れた高台の寺に臨時設けた救護所災害医療活動行ったという記録残っている。 大正12年1923年)に発生した関東大震災では、現在の神奈川県 小田原沖の北 10km震源とする地震で、東京神奈川千葉などが被災した。約60万戸家屋倒壊、また運悪く 昼食時に発災したため当時東京市内では、把握されているだけでも約80所以上からほぼ同時に出火した家屋密集地域では大火災となり、死者のうち約87%の9万2千人焼死死者行方不明者は約145千人以上に及び、治療を行う医療機関軒並み甚大な被害 を受ける未曾有の大災害となった。 このときも全国から救援物資人材被災地送り込まれ災害医療救護活動展開された。震災後には、宮内省救療班や 済生会日赤などが無料巡回診療看護活動行ったその後、聖路加日赤が「社会看護婦」(現在の保健師)の養成始めるなど、関東大震災復興期における医療看護活動は、地域保健先駆けともなった

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