日本における災害医療の歴史
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「災害医療」の記事における「日本における災害医療の歴史」の解説
神話時代 わが国の記録に残っている最古の災害医療に関する記述は、古事記(712年 太安万侶 編纂)の時代にまでさかのぼる。創生神代の巻において、災害医療・災害看護に関する記述であろうと読み取れる一節がある。 それは出雲国を旅していたオオナムヂ(大国主命)の話である。 伯耆(ほうき)の国で、八十の神々がオオナムヂ(大国主命)を殺そうとして、イノシシの姿に似せた大岩を真っ赤に焼いて、山の上から転がり落とした。オオナムヂは、焼けた岩に押し潰されて死んでしまった。それを聞いた母神の サシクニワカヒメ(刺国若比売命)は 殺されたわが子を見て哭(な)き悲しみ、高天原に上って 天の大神・カムムスビ(神産巣日神)に助けを求めた。大神は、赤貝の女神・キサガヒヒメ(𧏛貝比売)と、蛤の女神・ウムギヒメ(蛤貝比売)の二柱の女神を遣わして、彼を作り生かさせた。キサガヒヒメは貝の殻で焼けたオオナムヂの骸を丁寧に岩から剥がし、ウムギヒメは母神の乳汁に薬を混ぜ合わせて、オオナムヂの焼け爛れた体にくまなく塗った。まもなくオオナムヂは生き返って、うるわしい男に戻った。 これは、現在の鳥取県の伯耆大山(鳥取県西部にある中国地方最高峰の火山で、古名を火神岳(ひのかみだけ)という)の噴火によって人々が大火傷を負った出来事の伝承であると考えられる。ある日突然、火の玉(火山噴石)が降って来て、一人の男が全身に大火傷を負う。母親は火傷した子の命を助けようと、当時の権力者に救いを求め、女性たちが手当てや介抱をする。ここに、当時の災害発生直後の人々の姿を見ることができる。また、焼けた皮膚を丁寧にはがし、タンパク質を含む乳汁を塗る という手当ては、現代のような優れた医薬品や衛生材料が手に入らなかった当時としては、最先端の治療法であったと考えられる。 中世 奈良・平安時代や戦国時代以降にも、多くの自然災害や戦乱が起きていたが、医療行為はそもそも日常生活の一部であるため、当時の文献に戦乱や災害の被害記録は残っていても、それに対する医療活動の詳細が 残っていないことが多い。一般庶民が現在のように 当たり前に医療を受けられるような時代ではなく、薬は高価で医療は都の貴族たちや武将など、一部の者が受ける程度であった。またわが国は聖徳太子の時代から永きにわたり 仏教国であったため、外科治療の基礎となる人体の解剖学は 「遺体を切り刻むなど狂気の沙汰だ」 とされ、長らく発展しなかった。 そのため 治療法も煎じ薬など漢方薬による内科的治療と、栄養のある食事をさせるといった自然治癒力に頼る治療法が主流であったと考えられ、当時の災害医療は、負傷者の傷口を井戸水などで洗浄したり圧迫止血したりといった、現在の「応急手当」程度のレベルのものであったと考えられる。災害医療に使えるような本格的な外科医療が始まるのは、「解体新書」などに代表されるような西洋医学が入ってくる江戸時代末期から明治時代になるまで待たなければならなかった。 近代 わが国で本格的に看護婦(※ 現在は法改正により「看護師」となっているが、当時は「看護婦」と称していたため、歴史的記述の際は、当時の呼称を用いる) が養成されるようになった明治20年(1887年)以降に看護婦が活動した最初の火山災害は、明治21年(1888年)に発生した磐梯山の噴火である。 この災害では、水蒸気爆発や山体崩壊、火砕流により、山麓にあった複数の村々が住民もろとも土砂に飲まれ、また民家は爆風になぎ倒され、死者461名を超す大惨事となった。 なんとか救出することができた負傷者の多くは裂傷や骨折、打撲などを負っていたといわれ、発災直後から地元の開業医たちが総出で初期治療に当たったが、医薬品や医療機器の不足から対応は困難を極めた。その後火山災害としては初めて、日赤病院から医師と看護婦、救護員など15名、東京帝大からも医師たちが派遣された。 明治24年(1891年)に発生した濃尾大地震は、愛知・岐阜の両県を襲った直下型 内陸地震であり、約14万棟の家屋倒壊と火災で、死者7千人を超す大惨事となった。東京からは帝国大学病院や赤十字病院、慈恵医院(当時)や順天堂医院、関西からは京都の同志社病院、そして大阪からも多くの医師・看護婦が被災地に入り、災害医療に当たった。 日本赤十字では、その前年の明治23年(1890年)から、戦時救護を目的とする「救護看護婦」の養成を始めていた。濃尾大地震の際には、1年半の看護教育を修めた一回生 10名と、従来から赤十字病院で勤務していた看護婦 21名が、医師たちと共に救助に赴いた。救護看護婦は 傷病者の担架搬送や、医師の外科診療の補助に当たった。この経験から、救護看護婦養成の目的の一つに「天災(自然災害)時の救護」を加えることになった。 明治29年(1896年)6月に発生した明治三陸地震では、現在の岩手県 釜石市の東方沖200kmを震源とする地震により、リアス式の三陸海岸を、当時観測史上最高となる38.2mの巨大津波が襲い、現在の宮城、岩手、青森の3県でおよそ2万2千人近い死者を出す大惨事となった。この時も東京の日赤救護班が派遣されたが、太平洋沿岸部の道路は大津波により広範囲で浸水・寸断されていたため全く通行できず、やむなく救護看護婦らは迂回路として険しい山道を徒歩で越えて、被災地へと向かった。大船渡では、津波被害を免れた高台の寺に臨時で設けた救護所で災害医療活動を行ったという記録が残っている。 大正12年(1923年)に発生した関東大震災では、現在の神奈川県 小田原沖の北 10kmを震源とする地震で、東京・神奈川・千葉などが被災した。約60万戸の家屋倒壊、また運悪く 昼食時に発災したため、当時の東京市内では、把握されているだけでも約80ヶ所以上からほぼ同時に出火した。 家屋密集地域では大火災となり、死者のうち約87%の9万2千人が焼死、死者・行方不明者は約14万5千人以上に及び、治療を行う医療機関も軒並み甚大な被害 を受ける未曾有の大災害となった。 このときも全国から救援物資・人材が被災地に送り込まれ、災害医療・救護活動が展開された。震災後には、宮内省の救療班や 済生会、日赤などが無料で巡回診療や看護活動を行った。その後、聖路加や日赤が「社会看護婦」(現在の保健師)の養成を始めるなど、関東大震災の復興期における医療・看護活動は、地域保健の先駆けともなった。
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