日本における火薬の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:56 UTC 版)
日本において最初に火薬が使用されたのは13世紀の元寇襲来の際に登場した“震天雷”(しんてんらい)であり、14世紀頃には朝鮮に火薬の製造技術が導入され、同時期に日本にも黒色火薬の製法についての知識が(一応は)伝来したと考えられている。例えば、碧山日録には応仁の乱の際に、細川方の陣営に火槍が配備されていたとの記述があり、同時代に成立した壒嚢鈔には鉄砲についての記事が存在する。 1543年、種子島に漂着したポルトガル人が、東南アジアで改良された、今日マラッカ式火縄銃と呼ばれる形式の鉄砲と共に、日本に(本格的に)火薬(に関する西洋式の知識)を伝えた。 当時の火薬は黒色火薬であり可燃物として木炭と硫黄を、酸化剤として硝石(硝酸カリウム)を用いるものであった。このうち木炭は森林国である日本国内で容易に自給され、硫黄に至っては火山国という性質上むしろ輸出国で大陸における軍需を下支えしていたが、硝石だけは湿潤気候で牧畜生産の乏しい日本国内では天然に産出しないため、南蛮貿易で硝石を輸入し、火薬を製造していた。 当時の日本は高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術を有しており、鉄砲製造は急速に普及し、大量生産が行われた。1575年の長篠の戦いでは、織田信長が大量の鉄砲を用いることで武田勝頼に大勝している(この頃、武器として銃を大量に所持していた国は日本だった) 。中国地方の口伝では本願寺門徒の間で蓬(ヨモギ)の根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見したという。馬の尿とヨモギでそれは量産(当時にしては)された。これらは当時の軍事機密であったので厳重に守秘されて一般に広まることはなかったが、本願寺派に供給された火薬の主体であったようである。信長が驚いた本願寺の鉄砲の数は、実は弾薬の量に支配されるものであり、安価な硝酸がそれを支えたのである。 江戸時代に入り鎖国がなされると、国内で硝石を供給せざるを得なくなる。軍事用の火薬使用は激減したが、狩猟用や、もっぱら空砲による害獣駆除用として鉄砲が農山村に普及したため、銃規制が強化されつつも一定の火薬の需要が存在したのである。汲み取り便所の壁から床下の土中に染み出した窒素に富む糞尿などから生じたアンモニアに亜硝酸菌と硝酸菌が作用するため、古い民家の床下の土壌には硝酸カリウムが蓄積している。これを原料とすることで硝石を生産した。床下土を用いた硝石の製造は江戸時代を通じて主流の方法であったが、同様に床下で硝石を生成する東南アジアの伝統的手法と異なり、豚などの家畜を大規模に飼育しない日本の民家では硝石の生成量が少なく、一度掘り出してしまうと20 - 30年間は採集できなかった。ちなみに、明治時代の秩父事件においては、困民党は火縄銃等を用いて戦ったが、その銃に用いる火薬は前述の方法によって硝石を調達し、製造したものである。 江戸時代の越中五箇山(現在の富山県南砺市)や飛騨白川村では、積極的に硝酸イオンを蓄積させた焔硝土を用いて硝石を生産していた。焔硝土を用いる硝石の生産方法は、1811年(文化8年)に加賀藩の命令によって五十嵐孫作が提出した「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に最も詳細に記されている。主としてこの文書によると、合掌家屋のイロリ近くの床下を掘り下げてヒエの茎・葉を敷き、その上に良質の畑土、蚕糞、麻の葉・タバコの茎など栽培植物の不要部分、ヨモギ・アカソ等の山草を積み重ね、その上に人尿を散布して焔硝土を調製する。焔硝土から水で硝酸イオンを抽出し、抽出液を木灰で処理し、濃縮した後冷却すると硝石が析出する。この方法は毎年の再生産が可能な優れた製造方法であった。 一方、平和の到来による軍事用の火薬使用の激減は火薬の供給に余裕をもたらし、平和的な火薬の利用法が普及する余地をもたらした。花火である。日本に花火が到来したのは1589年または1613年のこととされ、元和偃武後に急速に普及した。1648年にはすでに、江戸の町において隅田川の河口を除き花火の使用を禁ずること、および町中での花火制作を禁ずる触書が出されている。1733年(享保18年)には隅田川花火大会が初めて行われた。これ以降、例年開催されている。ただし当時の花火はまだ真円には開かず、また入りも単色に限られていた。 明治時代に入ると、南米のチリから莫大な埋蔵量を有した天然の硝酸ナトリウムであるチリ硝石の輸入を始める。硝酸ナトリウムは黒色火薬の原料の1つである硝酸カリウムの代わりとして用いることができ、また無煙火薬以降の近代的な火薬の工業生産に必須の硝酸の原料として、ハーバー・ボッシュ法によって窒素の固定化法が確立されるまで重要視された。この安価な硝石の輸入によって長く用いられてきた土硝法による白川郷などでの国内における硝石生産は姿を消した。また、ヨーロッパから新しい科学知識が導入されることで花火も長足の進歩を遂げ、1874年ごろには打ち上げ花火が丸く開くようになり、1877年には花火に色が付けられるようになった。 また、富国強兵政策によりヨーロッパから盛んに近代的な火薬技術を導入するようになる。日本独自の火薬技術も発展し、日本海軍に制式採用された下瀬火薬は、その強力な破壊力から日露戦争では大活躍した。
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