日本における漢文学(日本漢文学)
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「漢詩#日本の漢詩」も参照 もともと日本には文字が無かったとされているので、中国より漢字を受け入れた。そのとき、最初は中国語を習得することが最初の課題であった。朝廷の正史として編纂された『日本書紀』が、正統的な漢文で書かれたことも、そうした流れに日本社会があったことの例証である。散文のみならず、詩作も試みられ、『懐風藻』には、7世紀からの作品が収められている。 その後も、漢詩漢文は日本社会で作られ続けたが、広まりと高まりを見せたのは、9世紀の菅原道真の時期、15世紀の禅宗寺院を中心にした〈五山文学〉の時期、18世紀の儒学が武士たちに広まった菅茶山たちの時期である。 明治維新のころも、西洋の文物を輸入するときに、翻訳語として漢文に源流を持つ語彙が多く採用されたこともあって、漢詩が流行した時期もあった。この時期に活躍した漢詩人として、森槐南が有名である。しかし、大正後期以降になると急速に衰え、漢詩漢文の製作は、一部の趣味人の手わざとなってしまった。 1960年代になって、ドイツ文学者の富士川英郎や小説家の中村真一郎たちが、江戸時代の漢詩文の再評価をはじめたあたりから、日本の漢文学の伝統が見直されるようになり、1980年代から刊行された岩波書店の『新日本古典文学大系』のシリーズには、続編の明治篇も含めて、多くの漢文学に属する作品が収録されるようになり、研究も進んでいる。 また、義務教育での国語教育においても中国の古典が教えられており、書道では漢詩などが題材となることも多い。また、日本の元号は中国の古典を参考にして選定されるなど、程度の差こそあるが、現代でも多くの日本人が漢文学に触れている。
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