日本の漢詩
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「漢文学」も参照 漢詩は中国文学の中で生まれたが、中華文明の伝来に伴い日本でも作られるようになった。 751年には日本におけるごく初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂された。9世紀には、814年『凌雲集』818年『文華秀麗集』827年『経国集』と三つの勅撰集が編まれた。その後905年に『古今和歌集』が編纂されるまで、和歌は日本文学の中で漢詩と対等な位置を得られなかった。平安時代の物語などでは、「詩」と単に書けば漢詩を意味し「からうた」という訓まれた。その後も漢詩文の影響は強く『和漢朗詠集』にも数多く作品が収められている白居易は特に好まれた。平安期の代表詩人には、空海、島田忠臣、菅原道真らがいる。 その後、鎌倉室町期には、禅林に「五山文学」が花開いた。代表詩人には義堂周信、絶海中津があり、一休宗純には『狂雲集』がある。 日本漢詩の頂点は、江戸期から明治初期にかけての時期であり、朱子学を背景に「文人」と呼ばれる詩人たちを多く輩出した。江戸前期の石川丈山、元政(日政)らの後、江戸中期には荻生徂徠の門人たちが派手な唐詩風で活躍し、江戸後期には菅茶山らの落ち着いた宋詩風が愛された。また、頼山陽の詩は今日も広く詩吟として愛吟されている。幕末には島津久光や伊達宗賢などが名人として知られている。20世紀以降は急速に衰退したが、大正天皇や夏目漱石、森鷗外、中島敦ら漢学教育を受けた文化人は漢詩をたしなんだ。 現在でも自作の漢詩集を著している陳舜臣等、漢詩創作の愛好家は存在しており、月刊誌大法輪では読者の投稿した漢詩が毎号掲載されている。また、自らは創らないのものの、書道の世界では、漢詩は読むもの、見るものとして基礎的な教養の一部となっている。また、学校教育でも、漢詩にふれることが多い。 ただし、明治期以降に日本で創作された漢詩は中国語での発音を考慮していないため、韻律が本場中国の基準からすると破格であり(中国語発音で漢詩を吟じると響きがよくない)、漢詩として評価されないものが多いと言われる。これは、江戸期以前、漢詩を学ぶということは、当然に漢字毎の音韻を学び、漢詩の平仄にあった作詩をすることであったのに対して(中国語音ではなくとも、日本語音でも、本来の漢詩のリズムを味わうことができるよう、工夫されたものが字音仮名遣いである)、明治期以降の日本の漢文学習では、日常の使用と無関係になった音韻の学習が軽視され、訓読が重視されたことが原因である。しかしながら夏目漱石の漢文は中国語で吟じられても美しいとされ、それを録音したCDが販売された事もある。
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