新聞『日本』との関わり
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新聞『日本』には帝大在学中から漢詩・和歌を投稿しており、大学院中退後の1901年に入社した。新聞『日本』の漢詩欄の選者で、長善館の門人だった桂湖村の勧めによる。月給は帝大出身者としては薄給の25円だった。新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり短歌撰者を務めた。当時は寒川鼠骨と上野に同居しており、子規「仰臥漫録」によると家賃は2円50銭だったという。子規の没後は根岸短歌会にも出席するようになった。1903年には退社して台湾日日新報社へ移るが、日本新聞社との縁は切れず、帰国後の1906年にの陸羯南の娘と結婚している。後年に羯南の著作や詩を収めた文集『羯南文録』(大日社、1938年)を編んでいる。
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