日本における湿板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:36 UTC 版)
「日本写真史」も参照 日本にも、当時としては早く、江戸幕末期の安政年間(1854年-1860年)初めには輸入された。 ダゲレオタイプも成功はしていたが実験段階に留まっており、日本に写真を定着させたのは湿板である。 上野彦馬は長崎の舎密試験所でヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから、下岡蓮杖は横浜でアメリカ合衆国人からそれぞれ湿板の手法を学び、いずれも1862年に写真館を開業、日本最初の営業写真家となった。上野彦馬は明治政府の命令で西南戦争を撮影した。これは湿板写真によるもので、これにより上野は日本最初の戦場カメラマンともなった。この従軍撮影も手伝った上野の弟子で、熊本で写真館を開業していた富重利平は1872年に熊本城天守を撮影しており、西南戦争で焼失した天守を第二次世界大戦後に再建する時に貴重な資料となった。 最初はボディーレンズともに輸入であったが、日本の木工技術は優秀であり、やがてカメラボディーは日本国内で製造されるようになった。明治中期まで用いられたが、撮影直前にガラス板を濡らして乾く前に現像する必要があるため、1871年に写真乾板が発明されるとともに市場からほぼ姿を消した。 現代の日本では、東京の六本木にある「本間寛 湿板写真館」や西日暮里にある「LIGJHT&PLACE(ライトアンドプレイス)湿板寫眞館」が湿板による肖像写真撮影を請け負っている。ライトアンドプレイスでは露光のため被写体の人物が6秒間静止する必要があるが、レトロ感のほか、焼き増しや複製が効かないことに却って記念的な価値を見出して、全国から撮影依頼があるという。
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