制作物とは? わかりやすく解説

制作物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 17:20 UTC 版)

コンラート・ゾイゼンホーフェル」の記事における「制作物」の解説

当時は既にマスケット銃戦闘使われる時になっており、弾丸貫き、鎧は時代遅れとなりつつあった。その上でプレートアーマー制作するにあたっては、装甲厚さ重量バランス問題となった。 そこで彼は、ヘルメット前側を1mm厚く後頭部側を1mm薄くする等、鎧として強度保ちつつ軽量化を図る工夫をした。また軽量化のため、材料にはよりも強度のある鋼を用いた。 鋼を鎧として使うには、強度を増すために焼き戻しが必要であるが、炭素含有量熱処理温度によって性能大きく変化するため、適切な温度見極める必要がある温度計が無い時代温度変化判断するのは難し事だが、焼入れ時には鋼が赤熱している様子焼き戻し時には表面青く変化する様子見て判断した刀鍛冶鋳掛け等の作業中には温度計使用困難なため、現在でも上記の様な方法取られるまた、精錬技術発達していない当時材料となるには不純物であるスラグ含まれ炭素混ざり方も不均質だった。そのような材料からでも、彼は均質不純物取り除かれた鎧を作っていた事が、電子顕微鏡確認されている。この鋼の鍛え方の技術開発については、発注者である皇帝発見したと、木版画挿絵伝記白王伝の中に記しているが、どのように発見したかはわかっていない。 これらの工夫当時としては画期的であり、各地から名工呼ばれた彼の作った鎧は贈り物としても扱われいくつか各地保管展示されている。 ジョスト競技の鎧(1510年-1515年) — ウィーンホーフブルク宮殿。 — マクシミリアン1世廃れていたトーナメントという競技会復活させ、宮廷一大イベント発展させた(カール5世ヘンリー8世熱中した王として知られている)。皇帝人気競技ジョスト安全に行われる様、ルール整備したりした。この頃には改良されヘルメット用いられ、首が折れないヘルメット胴体固定したり、折れた槍破片入らない視界の狭い物が使われた。これらの華麗な姿を、日誌『フライダル』( Freydal, 1512年1515年)の中に木版画として残している。 この頃高級な鎧の表面には有名な画家習作が、しばしば金銀細工エッチング等で装飾として施され、このプレートアーマー表面にも装飾模様施されている。 当時は、まだ絵画権力象徴として王侯貴族所有されており、鎧にこのような装飾を施す事も、やはり権力象徴一部であった考えられる。 鎧が作られ1515年ウィーン二重結婚によってハプスブルク家ハンガリー王家の若きアンナとの婚約成立しており、このサーリットに描かれバラの輪はこの婚約記念している(下記外部リンク参照)。 マクシミリアン1世フリューテッドアーマー カール5世子供の頃作られたパレードアーマー(1512年-1514年) — ウィーンホーフブルク宮殿。 — カール5世マクシミリアン1世の孫でフィリップ美公フアナ女王の子ゴシック様式マクシミリアン式の甲冑製作してきたコンラートだが(ゴシック様式の例 File:Kampfgruppe.jpg)、晩年に手がけたこの鎧はドイツ初期ルネサンス様式先駆とでも呼べるような甲冑であったラヨシュ2世9歳の頃に作られプレートアーマー1515年) — インスブルックアンブラス城。 — ラヨシュ2世マクシミリアン1世の孫マリアの夫。マリアの兄はカール5世スペイン・ハプスブルク家の祖)とフェルディナント1世オーストリア・ハプスブルク家の祖)。 ヘンリー8世のパレードアーマー(1511年-1514年) — リーズ王立博物館。 — ホーンド・ヘルメット(羊の様な巻き角とむき出しの歯、金色メガネ等が特徴的)が現存ヘンリー8世フェルナンド2世イサベル1世の5人兄弟末娘キャサリンの夫で、キャサリンには姉にマクシミリアン1世息子フィリップ美公の妻フアナ女王、兄にはマクシミリアン1世の娘マルグリット最初の夫フアン王子がいた。この結婚によってマクシミリアン1世の側に立ったヘンリー8世は、ギヌガットの戦いでフランス軍勝利し軍隊整備トマス・ウルジー実施活躍した一人チャールズ・ブランドン知られている)、1514年にこの鎧を贈られる。 しかしその後、この鎧の胴体部分1649年破壊されてしまう。中世時代には戦争馬上槍試合フェーデ敗北した騎士甲冑戦利品として奪われ多く新しい鎧の材料となったちなみに前年1648年10月24日にはハプスブルク家弱体化目指すウエストファリア条約結ばれ1649年にはクロムウェルチャールズ1世倒し共和制成立クロムウェル祖先の弟にヘンリー8世側近トマス・クロムウェルがいる)。王や騎士による剣と戦い日々に幕が降りる贈られヘルメットにはテューダー家テューダー・ローズ思わせる花が描かれているものの、無精髭の様な凹み、鼻に滴る鼻水、他のホーンド・ヘルメットに見られる勇ましさ無く何らかの意図持って制作された事がうかがえる。この外交上の贈り物の後、ヘンリー8世生まれ故郷グリニッジドイツ職人による鎧工房建てた(1515年、後にヤコブ・ハルダー(Jacob Halder)が著名な鍛冶として知られる)。この鎧と同じ物がもう一揃い作られカール5世贈られた(こちらは全て現存)。 マッテウス・ランク・フォン・ヴェーレンブルクのフィールドアーマー(1511年) — ウィーンホーフブルク宮殿。 — マッテウス・ランク(Matthäus Lang von Wellenburg)はアウクスブルク出身で、フリードリヒ3世の下で頭角現しマクシミリアン1世には最も信頼され人物グルク司教となった後、カルタヘナ司教ザルツブルク大司教務めカール5世の下では国際交渉の場でも活躍する大臣だった。しかし宗教改革考え方教区内で進む中、彼の古い信仰への固執人々には不評で、1525年にはドイツ農民戦争起こってしまう。彼はホーエンザルツブルク城で、シュヴァーベン同盟軍が到着するまで長期間立てこもるになった。後にアルバーノ司教枢機卿となる。 作られた鎧は一部着脱可能で、馬上槍試合や、馬から降りてのメンアットアームズの様な戦いにも対応できた。

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制作物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/16 10:02 UTC 版)

アントン・ペッフェンハウゼル」の記事における「制作物」の解説

同時代職人イェルク・ゾルクのデザイン帳によると、ペッフェンハウゼル初期の製作は1550年となっている。 — イェルク・ゾルク(Jörg Sorg, 1522-1603)はアウクスブルクエッチング職人デジデリウス彼の母方のおじにあたる。高級な甲冑表面エッチングによる模様装飾する職人で、ペッフェンハウゼルの作品も手がけている。 カール5世葬送用の兜(1559年) — 司教区博物館 ヨハン・ヴィルヘルムの鎧(1565年) — メトロポリタン美術館 コンポジット・アーマー(1570年) — スタテン島博物館 ジョスト競技用コンポジット・アーマー(1575-1575年) — ヒギンス・アーモリー博物館 ルドルフ2世ジョスト競技用の鎧(1575年) — ウィーン博物館カールスプラッツ フル・アーマー(1580年) — ウォレス・コレクション 騎乗徒歩兼用の鎧(1585年) — ドレスデン美術館 クリスティアン1世トーナメント競技用の鎧(1588年) — ドレスデン美術館 クリスティアン1世の兜(1586-1591年) — フィラデルフィア美術館 パレード用の鎧と馬の鎧(1591年) — ドレスデン美術館 クリスティアン1世12領の鎧(1591年) — メトロポリタン美術館ロイヤル・アーモリーズ博物館デトロイト美術館ゲルマン国立博物館夫人であるゾフィー表面花模様異な12領の鎧を、夫へのクリスマスプレゼントとして発注した。夫はその年の9月他界したが、ペッフェンハウゼルはその12領を約束通り納品した作品金細工映えるよう、表面黒染めされた。 子供用の鎧(1592年以前, 1594年) — ドレスデン美術館 セバスティアン1世プレート・アーマーマドリード王宮王立武具博物館 ペッフェンハウゼルはパトロン持たず各地諸侯から直接注文受けて製作していた。また、他の甲冑師作った物を買い取り海外へ輸出する貿易商としても知られていた。制作した甲冑には自らを示すイニシャルかたどったマーク入れたり、マークの無い物には書類をつけ、今で言うブランド化行っていた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/22 00:32 UTC 版)

リブ (インド神話)」の記事における「制作物」の解説

世界周回する車(アシュヴィン双神に) 二頭栗毛の馬(インドラに) 牝牛ヴィシュヴァ・ルーパー(ブリハス・パティに) この他ヴィシュヴァカルマン作った杯を四つ作り変えた。これを認めたヴィシュヴァカルマン女神達の間に身を隠したとされる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 09:32 UTC 版)

吉田源十郎」の記事における「制作物」の解説

柘榴之図乾漆硯箱」 - 1925年東京国立近代美術館。 「麦の」 - 1928年第9回帝展入選「海」 - 1929年第10回帝展出品作。 「之圖漆皮衝立」 - 1930年第11回帝展特選。 「皮蒔繪二曲屏」 - 1931年第12回帝展出品作。 「トマトの図」 - 1933年第14回帝展特選。 「南天」 - 1936年東京国立近代美術館。 「蒔絵」 - 1942年第6回文展出品作第2回日本芸術院賞。 「小瑠璃手箱」 - 1953年。 「花の」 - 1955年第11回日展出品作国立ロシア美術館。 「漆南天」。

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