制作決定まで
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『ザ・カブキ』は、佐々木忠次がベジャール及び20世紀バレエ団(1960年創立)を日本に招聘する活動を積み重ねる中で委嘱された。 佐々木が東京バレエ団を創立したのは1964年のことで、その頃にはすでにベジャールは独自の振付による『春の祭典』(1959年)『ボレロ』(1961年)などの作品により注目されていた。 海外のオペラなどの来日公演を企画するインプレサリオ(興行主)でもあった佐々木は、1965年頃から20世紀バレエ団の招聘に向けて粘り強く交渉を続け、1967年に初来日を実現させた。 その後も1978年、1982年に同バレエ団を招聘し、その間には映画『愛と哀しみのボレロ』への出演でも知られる20世紀バレエ団のジョルジュ・ドンをソリストとして招き、自らが主宰する東京バレエ団とのコラボレーションによるベジャール版『ボレロ』の公演も実現させている。 これらの公演を通して佐々木とベジャールは親交を深め、1983年7月には東京バレエ団のダンサーにベジャールが振付を指導するまでになっていたが、佐々木が事あるごとに依頼し続けていた「東京バレエ団ためのオリジナル作品」については、なかなか承諾が得られずにいた。 ところが、1983年11月29日に佐々木がベジャールが住むブリュッセルを訪れた折に、ベジャールは東京バレエ団のために作品を作ることを承諾した。ベジャールが自作の名場面をまとめた作品『エロス・タナトス』が念頭にあった佐々木は、「ストーリーのない、日本の歌舞伎の名場面集」のような作品を希望したが、ベジャールは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』のバレエ化を提案し、佐々木もこれを了承した。このときに『ザ・カブキ』というタイトルが決定した。なお、ベジャールは『フォーティ・セブン・サムライズ』という副題をつけることを望んだが、最終的にこれは実現しなかった。 ベジャールは、愛好する三島由紀夫の小説に基づくオペラ『金閣寺』を聴いて感銘を受けたことから、その音楽を担当した黛敏郎に『ザ・カブキ』のバレエ音楽を依頼することにした。また、美術・衣裳については1981年からベジャールに協力していたブリュッセル在住のポルトガル人美術家、ヌーノ・コルテ=レアル(Nuno Côrte-Real )に決まった。 12月14日の朝日新聞夕刊には『ザ・カブキ』の制作決定を伝える記事が掲載された。なお。記事中には実際には使われなかった副題が見られるほか、実際よりも半年早い初演が予定されていたことが分かる。 モーリス・ベジャール 「カブキ」振り付け 東京バレエ団で再来秋上演 現代最高の振付家として国際的に定評のあるモーリス・ベジャールが、歌舞伎をテーマにした作品を、東京バレエ団のために振り付ける。タイトルは「ザ・カブキ」と銘打ち、これに"仮名手本忠臣蔵より"の副題が添えられる予定で、黛敏郎が作曲、85年春から練習に入り、同年秋に上演される。ベルギーの20世紀バレエ団で上演することを目的につくられるベジャールの作品は、他の国のバレエ団では上演を許可されないケースも多く、とくにオリジナル作品を20世紀バレエ団以外で振り付けるのは今回がはじめて。それだけにこの計画は、欧州の舞踊界で大きな反響を呼ぶものとみられる。東京バレエ団では、当初、85年に欧州で3ヶ月にわたる長期講演旅行を予定しその準備を進めてきたが、ベジャールの話が急に決まったため、とりあえず海外公演を1年延期し、新作をレパートリーの中に取り入れたうえ、86年に欧州でも発表する。 — 「朝日新聞」12月14日付夕刊、『朝日新聞縮刷版1983年12月号』、532頁より引用
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