制作決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:42 UTC 版)
時期は不明だが、長谷川はフランスに滞在していた山本に「帰国したら一緒に映画を作りたい」という手紙と『笑う原爆』と題した脚本を送った。脚本は面白く、長谷川のライターとしての才能に感銘したが、電話帳二冊分くらい分厚く、製作費にも現実味がないと山本は断ったが、長谷川と助監督の相米慎二は帰国した山本の説得にあたり、ついに「破産するかもしれないが、賭けてみたい」と製作を決めた。山本としては「『太陽を盗んだ男』を日本で初めて外国に出せる現代劇にしたい」「1本目の『ベルサイユのばら』で果てせなかった夢を、2本目の本作でクオリティーの高い作品を作り、5年以内にハリウッドで映画を作りたい」という思いがあった。長谷川は「山本は最初は何者か知らなかった。彼は自分で作った会社を出てキティに身柄を預けていた。多賀社長をアシストする形だったんだけど、俺の方の企画がうまくいかない間に『ベルサイユのばら』を始めた。最初あいつに相談を受けたとき、また大ボラが始まったとしか思わなかったからね。パリにいるころから次は一緒にやろうと言ってきていたけど、どの程度の熱意があるのか分からなかったね」と、山本の話とはややニュアンスの違う話をしている。「企業内のプロデューサーは“それは無理だよ”ということから始まるけど、山本は“無理な方が面白いと”いうことから始まるから。俺もそのタイプだし、ああいうタイプのプロデューサーが出て欲しいと思う」などと話していた。バカバカしく分厚い台本には、多賀英典も腹をくくっていたという。製作費は3億7000万円で始まったが、スタート時から1億7000万円足りなかった。東宝が配給に決まったのは1978年暮れである。
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