伊藤忠商事時代
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1956年(昭和31年)、シベリア抑留から帰還した。アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した[要出典]。設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。また、砺波中学校の同級生であり元郵政相の片岡清一から、政界入りの誘いもあった(共同通信社社会部編「沈黙のファイル」p.244)。 瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。入社前に瀬島は入社面接を拒否し、その代わりに手紙を送っている。面接を拒否した理由は「そこまで落ちぶれたくないというプライドだった」と後に語っている。しかし契約内容は嘱託採用、給与は係長待遇、契約は毎年更新という内容だったが、妻の清子はこれを喜び、採用通知書を神棚に飾った。 入社時の伊藤忠商事の社長は小菅宇一郎だったが、ある日小菅に呼び出された瀬島は「この会社には商売をする者は腐る程います。だから瀬島さんは商売はしなくていい。この先、日本も世界も大きく変わってゆく中で、あなたには商社としてどう進んでいけばいいのか?そういう観点から助言や補佐をしてもらいたい」と伝えられた。元軍人でビジネス用語に不慣れだった瀬島は「こりゃ金利を覚えないでいいな」との笑い話を残している。 1960年、伊藤忠商事航空機部長になる。入社3年目の1961年(昭和36年)には業務本部長に抜擢され、翌1962年(昭和37年)に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年(昭和43年)に専務、1972年(昭和47年)副社長、1977年(昭和52年)副会長と昇進し、1978年(昭和53年)には会長に就任した。 1981年(昭和56年)に相談役、1987年(昭和62年)に特別顧問に就く。この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「一九三〇年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」という講演を行った。 田中角栄とは田中が1971年(昭和46年)、第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だったとき知り合ったとされる。児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったといわれる。実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢される。 瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行うようになり、永野の参謀として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。 1981年(昭和56年)、永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫、田中角栄らの推薦、あるいは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く。土光敏夫会長のもとで参謀役として働き、「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉(クォン・イクヒョン、권익현) を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。 ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする説が複数の書籍で唱えられている[要出典]。 1984年(昭和59年)に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年(平成12年)に伊藤忠商事特別顧問を退任。 2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱はとても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」といった。同年5月30日、瀬島は、同台経済懇話会会長として安倍首相に提出した提案書の中で、美しい国づくりの大テーマとして、近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構をつくり、関係産業各社と電力会社の協力を推進すること、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)、ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を連名で提出した。 6月21日、妻の清子が老衰で90歳にて死去。それから3ヶ月足らず後の9月4日、妻を追うように老衰のため東京都調布市の私邸において95歳にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。
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伊藤忠商事時代
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1937年(昭和12年)2月に滋賀県伊香郡木之本町(現・長浜市木之本町)に生まれた。早稲田大学高等学院では宇治敏彦(後に中日新聞社専務)や小榑雅章(後にダイエー取締役)と同窓だった。早稲田大学第一政治経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社すると、社員のままハワイ大学大学院やハーバード大学大学院に留学した。瀬島龍三の下で海外貿易の総括部門に勤務し、1971年(昭和46年)に伊藤忠商事を退社した。
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