伊藤忠商事時代とは? わかりやすく解説

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伊藤忠商事時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:43 UTC 版)

瀬島龍三」の記事における「伊藤忠商事時代」の解説

1956年昭和31年)、シベリア抑留から帰還したアメリカ日本の警察などに依嘱して、舞鶴港1週間にわたり拘禁尋問した[要出典]。設立直後自衛隊に入るよう原四郎から再三誘い受けたが、瀬島長女反対したため断念したまた、砺波中学校の同級生であり元郵政相片岡清一から、政界入り誘いもあった(共同通信社社会部編「沈黙ファイル」p.244)。 瀬島シベリアからの復員兵就職斡旋奔走し1958年伊藤忠商事入社する入社前に瀬島入社面接拒否しその代わり手紙送っている。面接拒否した理由は「そこまで落ちぶれたくないというプライドだった」と後に語っている。しかし契約内容嘱託採用給与係長待遇契約毎年更新という内容だったが、妻の清子はこれを喜び採用通知書を神棚飾った入社時伊藤忠商事社長小菅宇一郎だったが、ある日小菅呼び出され瀬島は「この会社には商売をする者は腐る程ます。だから瀬島さんは商売はしなくていい。この先日本世界大きく変わってゆく中で、あなたに商社としてどう進んでいけばいいのか?そういう観点から助言補佐をしてもらいたい」と伝えられた。元軍人ビジネス用語に不慣れだった瀬島は「こりゃ金利覚えないでいいな」との笑い話残している。 1960年伊藤忠商事航空機部長になる。入社3年目1961年昭和36年)には業務本部長抜擢され、翌1962年昭和37年)に取締役業務本部長半年後に常務となる。その後も、同社がかかわる様々な案件重要な役割果たし1968年昭和43年)に専務1972年昭和47年副社長1977年昭和52年副会長昇進し1978年昭和53年)には会長就任した1981年昭和56年)に相談役1987年昭和62年)に特別顧問に就く。この間防衛庁防衛研究所戦史叢書大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力1972年11月にはハーバード大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「一九三〇年代より大東亜戦争までの間、日本歩んだ途の回顧」という講演行った田中角栄とは田中1971年昭和46年)、第3次佐藤栄作内閣時代通産大臣だったとき知り合ったとされる児玉誉士夫源田実紹介され知り合ったといわれる実権のない伊藤忠会長だった1978年永野重雄日本商工会議所会頭請われ日本商工会議所特別顧問東京商工会議所会頭抜擢される。 瀬島それまで財界活動はしていなかったが、以後財界活動活発に行うようになり、永野参謀として太平洋経済協力委員会ASEAN民間経済会議などに出席した1981年昭和56年)、永野鈴木善幸首相宮澤喜一福田赳夫田中角栄らの推薦、あるいは永野中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第二次臨時行政調査会土光臨調委員に就く。土光敏夫会長のもとで参謀役として働き、「臨調官房長官」と称され中曽根政権1982年1987年)のブレーンとして、政財界影響力を持つようになったまた、大韓民国の軍事政権全斗煥盧泰愚等とは、両名士官学校同期翊鉉(クォン・イクヒョン、권익현) を通じて彼等若手将校時代から親しく金大中事件光州事件内外事情日韓関係悪化していた1980年代初頭時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相訪韓実現全斗煥大統領来日昭和天皇との会見実現の裏舞台で奔走し日韓関係改善動いたソウル五輪開催の際にも影響力行使し当時有力視されていた名古屋市招致本腰を入れないよう要請してたとする説が複数書籍唱えられている[要出典]。 1984年昭和59年)に勲一等瑞宝章受章。他にも亜細亜大学理事長財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会長財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職歴任した2000年平成12年)に伊藤忠商事特別顧問退任2007年平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱はとても良いことだと思っている。しかし具体的な政策出さない国民がついて行けない。ここで同台としての最後御奉公として、骨太なとなる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識経験集結して国民判り易く、そして国際的に日本の姿勢アピール出来るようなテーマ考えてみたらどうか」といった。同年5月30日瀬島は、同台経済懇話会会長として安倍首相に提出した提案書の中で、美しい国づくりの大テーマとして、近未来見据えた地球温暖化対策クリーンエネルギー増加豊かな良い護ることを提案したクリーンエネルギー提案書では、10年間で風力太陽光電力30%を達成するために、風力ソーラー統合発電機構をつくり、関係産業各社電力会社協力推進すること、太陽光ケーブル大々的利用重層利用地下発電も可能となる)、ソーラー関係機器商品開発奨励などを提案森と水資源に関する提案書では、特に定年迎えた元気なシルバー世代への啓発事業保水空気清浄の源となる里山増加育成湖沼ダム・湾などの新し装置技術活用した浄水事業連名提出した6月21日、妻の清子老衰90歳にて死去。それから3ヶ月足らず後の9月4日、妻を追うように老衰のため東京都調布市私邸において95歳にて死去死後従三位贈られた。同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事亜細亜学園主催による合同葬執り行われた。

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伊藤忠商事時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 16:10 UTC 版)

冨田光彦」の記事における「伊藤忠商事時代」の解説

1937年昭和12年2月滋賀県伊香郡木之本町(現・長浜市木之本町)に生まれた早稲田大学高等学院では宇治敏彦(後に中日新聞社専務)や小雅章(後にダイエー取締役)と同窓だった。早稲田大学第一政治経済学部卒業して伊藤忠商事入社すると、社員のままハワイ大学大学院ハーバード大学大学院留学した瀬島龍三の下で海外貿易総括部門勤務し1971年昭和46年)に伊藤忠商事退社した

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