事件後の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 13:31 UTC 版)
連合赤軍の崩壊 あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(印旛沼事件・山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた他のメンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。また、当時はベトナム戦争長期化に伴う反戦運動もあって連合赤軍に共感を覚える声もあったが、この事件とその後発覚したリンチ殺人事件で世論の支持を完全に失っていくのである。 犯人の釈放&再犯 1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際には、本事件の犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」によって釈放され、日本赤軍に合流した(坂口弘も日本赤軍から釈放要求されていたが、自らが法廷闘争を望み留まった)。その後坂東は、日本赤軍として1977年9月28日にはダッカ事件を引き起こし、日本政府に「身代金(600万ドル)の支払い」および「超法規的措置により囚人9名の釈放」要求し受け入れさせた。そして現在も行方不明で国際指名手配中である。 特殊部隊の創設 1972年5月30日にイスラエルでアラブ赤軍(後の日本赤軍)が起こしたテルアビブ空港乱射事件で犯人が自爆した。その影響を受けてか9月5日に西ドイツでミュンヘンオリンピック事件が発生し、犯人の自爆によって人質全員が殺害され日本国内にも衝撃を与えた。事件後に警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊を編成することとした。 ダッカ事件の際、日本政府は犯人の要求を受け入れた。だが直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けた。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。 ヘルメットの意匠 前述の通り、事件現場での隊長・副隊長のヘルメットの意匠は、指揮を円滑に進める為に当時は少し変わっていた。それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃し、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件後にはこれらの問題点からヘルメットによる明確な識別は撤廃され、現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能になっている。 事件後の人質 事件後報道合戦が過熱する中、入院した人質女性はマスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部に厳重に警護されていたが、精神科医の問診や警察の事情聴取の模様等が、特ダネとして新聞に次々とスクープされた。これは、病室のベッドの下に仕掛けられた盗聴器を使用して警察や他社を出し抜いていたものであり、電池の交換に来た記者が病院に侵入したところを取り押さえられたことで判明したが、大物記者らによる必死のもみ消し工作の甲斐あってか、表沙汰にはならなかった。 3月1日に開かれた短時間の記者会見で「退院したらまず何をしたいか」という問いに対し、「みんな(※家族や友人)と一緒に遊びたい」と発言した。気が動転している中でなされた女性の発言の一部がセンセーショナルに切り取られたうえ、女性が所持していたお守りを夫が勘違いで「犯人から貰ったもの」と別の記者会見で語ってしまっていたこともあって、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く報道された。この結果、女性は広く世間の批判を受けることとなる。 この会見後、女性のもとへの激励の手紙が激減し、逆に「(病院で食欲を尋ねられ、うどんを所望していたのに対して)うどんが食べたいとか、遊びたいとは何事だ」や「お前の為に警官が死んでいるのに何を考えているのか」等の文言やカミソリの刃を同封した脅迫の手紙が届くようになり、週刊誌は女性のプライベート情報や虚偽の内容を織り交ぜて『ウソ泣きxx(女性の名前)』や『偽善者』と書き立てた。 女性は後に「事件発生から最初の数日間はごった煮みたいなものを一日一食食べさせられたが、26日頃からはコーラ1本しかもらえなかった」や「2月29日の報道(朝日新聞の「スクープ」)を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と述べている。 女性は予め夫が目を通して問題が無かった手紙のみを渡されていたが、精神的に不安定になっていった。女性は衰弱しながらも3月11日にそれまでの報道を否定する記者会見(全国からの励ましへの感謝、殉職警官の遺族への「お詫び」の意向、監禁中は常に拘束と監視を受け生命の危機にさらされていた旨)を涙ながらに行った。それ以後、女性はマスコミとの接触を拒むようになった。 3月1日に東京で殉職警官の合同葬が行われた時、女性は病室から浅間山荘の方角に向けて黙祷を捧げながら涙を流していたという。また退院直後には山荘に直行し、殉職者の祭壇に跪き「申し訳ありません」と泣き崩れた。 犯人の一人である加藤倫教は事件後に出した著書で、「不安や恐怖心と懸命に戦い自分を保とうとしている様子だったが、やがて精神的なショックからか籠城の後半からはあまり食事も取らなくなりベッドルームで寝ていることが多くなった」と籠城中の女性の様子について綴っている。 その他の関係者のその後 ・佐々淳行は初代内閣安全保障室長に就任。退職後は危機管理の専門家・評論家として活動していた。特殊部隊創設に関し、西ドイツ(当時)のGSG-9の全面協力を得られたのは佐々の尽力がとても大きい。 ・亀井静香警察庁警備局公安第三課課長補佐は、2017年まで衆議院議員を務めていた。 ・國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。 ・佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。 ・BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた。 浅間山荘その後 事件後10年ほどは、浅間山荘は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていた。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっている。
※この「事件後の情勢」の解説は、「あさま山荘事件」の解説の一部です。
「事件後の情勢」を含む「あさま山荘事件」の記事については、「あさま山荘事件」の概要を参照ください。
事件後の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:52 UTC 版)
「パリ同時多発テロ事件」の記事における「事件後の情勢」の解説
11月30日からパリにおいて国連の地球温暖化対策に関する会議(COP21)が開かれることになっており、会議には日本、アメリカなど各国の首脳が出席する予定であることから、治安対策としてフランス政府当局は入国管理を厳重にする方針を明らかにするなど、フランス国内でのテロ活動に対する監視態勢を強化していたという。 この事件により、フランス政府は全国に非常事態宣言を出し、テロリストの侵入を抑制するために国境封鎖を決めたほか、市民に不要不急の外出を控えるように呼びかけた。また、1,500人以上の兵士を動員し警戒にあたらせた。 フランスのオランド大統領は14日、テレビを通じて演説し、「今回のテロは、IS(イスラミック・ステート、イスラム国)の軍事部門が実行した」と述べた。同日、ISは「ISフランス州」の名義で犯行声明を出した。それによると、実行犯8人がISから送り込まれていた。 フランスの地元メディアは、「戦後最悪のテロ」や「パリ中心部の戦争」と報じている。
※この「事件後の情勢」の解説は、「パリ同時多発テロ事件」の解説の一部です。
「事件後の情勢」を含む「パリ同時多発テロ事件」の記事については、「パリ同時多発テロ事件」の概要を参照ください。
- 事件後の情勢のページへのリンク