ロシアにおける渤海研究
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「渤海 (国)」の記事における「ロシアにおける渤海研究」の解説
ロシアの学界から渤海に関する正式見解が出されたのは、アレクセイ・オクラドニコフの『シベリアの古代文化』(加藤九祚、加藤晋平訳、講談社、1974年)においてであり、そこでは「渤海を極東地方諸種族の歴史における彼ら自身の最初の階級社会、つまり、最初の国家」であり、その民族と国家は靺鞨人であるとした。そして靺鞨人は、元来起源を異にし言語も異にするさまざまな種族の集合体であったが、数千年を経て渤海人として単一民族を形成したとした。アレクセイ・オクラドニコフは、ソビエトの極東考古学調査隊を率いて沿海州一体の発掘調査をおこない、渤海文化は高句麗と共通性が多いことは確認されるが、渤海の主体民族は高句麗ではなく『新唐書』渤海伝の記事通り粟末靺鞨であると結論付けた。 정석배(英語: JUNG Sukbae、韓国伝統文化大学(英語版)は、ロシアの沿海州には渤海の城跡、寺跡、住居跡、古墳などの遺跡が多数分布しており、1950年代から渤海遺跡の発掘調査が行われており、ロシアは歴史史料と考古学史料の両方を使用して渤海を研究することができる客観的条件が形成されており、ロシアは渤海の歴史と文化について歴史的な側面と考古学的な側面の両方で多くの学問的業績を積み上げてきたと評している。また정석배は、大祚栄の出自に関して、ロシア渤海学界は異口同音に靺鞨、特に粟末靺鞨が渤海を建国したと主張しているが、中国の研究者の研究結果を少なからず参考にしているのが実情であり、韓国の研究者の研究業績をロシア語に翻訳して、ロシア渤海学界に紹介する必要があると指摘している。 Z. N. Matveev(英語: Z. N. Matveev、ロシア語: З. Н. Матвеев)とエ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学、英語: E. V. Shavkunov、ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)以前のロシアの渤海研究は、例えばパルラディやウラジーミル・アルセーニエフなどは「極東民族の初期国家権力(渤海)は、高句麗と中国の影響を受けて形成された」「極東民族の間に中世国家が形成されたのは、靺鞨族が社会経済的に発展したためではない、隣人の文明国から外部的に影響を受けたためである」などの意見を持っていたが、この意見は、後にロシアの渤海研究者の批判を受けることになる。エ・ヴェ・シャフクノフは、乞四比羽と乞乞仲象を靺鞨の将軍と表記して、「二人の将軍は東牟山に拠って、中国に侵略された靺鞨の土地を回復するための闘争の力を蓄積し始め、避難を逃れた高句麗人と靺鞨が彼らに大きな助けを与えた」「渤海は靺鞨族が建国した」と直接的に言及し、「極東民族の間に中世国家が形成されたのは、靺鞨族が社会・経済的に発展したためではなく、近隣の文明国から外部的な影響を受けたため」とする学説を批判して、「靺鞨族が高度に発達した近隣の高句麗と中国と中央アジアの民族と、比較的早くから政治・経済的関係を結ぶことにより、それらの間に原始共産制が解体され、階級関係が形成され、固有の主権国家が建設され、靺鞨・渤海の物質・精神文化が出現する一連の過程が急速に進展した」と主張した。 ロシアの渤海研究者はすべて靺鞨人が渤海を建国したと把握しており、これらの伝統はイアキンフから始まり、Z. N. Matveevを経て(Z. N. Matveevは、渤海人の祖先は粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨であり、粟末靺鞨が渤海を建国したと主張している)、その基本的な考え方は、エ・ヴェ・シャフクノフとアレクサンド・イブリエフ(英語: Alexander IVLIEV、ロシア語: А. Л. Ивлиев、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所)にも継承されている。イアキンフは『新唐書』に収録された渤海関連記録をいくつか翻訳紹介したが、ロシア語で紹介した渤海の翻訳は「渤海王国の創始者は、粟末靺鞨人だった。...」から始まる。イアキンフの渤海関連の翻訳内容は以下である。 渤海王国の創始者は、唐王朝の歴史によると、粟末靺鞨人、高句麗の被支配者、名前は乞乞仲象であった。668年に高句麗が滅亡することによって、彼は自分の民と一緒に挹婁の東牟山を占めた。(中略)中国の朝廷は、彼を震国公の地位として君主と認めた。彼の息子の祚栄は王国を設立し、震国王という称号を使用した。彼の領土は5000里に達した。(中略)713年、中国の朝廷は彼に渤海郡王の称号を与えた。その時から祚栄は、靺鞨の称号を捨てて、渤海国王と呼ぶようになった。彼の息子大武芸は自分の年号を使用した。 — Н. Я. Бичурин、Собрание cведенийо народах, обитавших вСредней Азии в древние времена 『朝鮮日報』やロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所や歴史著述家の윤희진や盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)や宋基豪(ソウル大学、朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho)によると、ロシアの学界では大祚栄は靺鞨人であり、渤海は靺鞨系国家と考えられており、アレクセイ・オクラドニコフ、エ・ヴェ・シャフクノフ、アレクサンド・イブリエフ、KRADIN Nikolay Nikolaevich(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)、Kim Aleksandr Alekseevich(ロシア語: Ким Александр Алексеевич)などが靺鞨説を支持している。 ロシアの渤海学界は、渤海は靺鞨が社会・経済的に発展して成立した独立主権国家であり、極東ロシアの少数民族の歴史であると主張しており、エ・ヴェ・シャフクノフから具体化されたこのような意見は、ロシア渤海学界で一度も否定・批判されることなく擁護されており、これが渤海の帰属問題についてのロシア渤海学界の公式的な立場と把握することができる。エ・ヴェ・シャフクノフは、「沿海州の歴史は、私たちの偉大な多民族、祖国の歴史の切り離せない部分であり、その祖先が既に7世紀から8世紀に自分自身の、当時としては高度な文化を持つ国家を建国したのは、ソビエト極東少数民族の歴史だ。靺鞨族による国家建設には、地域種族の政治的・経済的・文化的・民族的発展が先行した」と述べており、ナナイ、ウデヘ、オロチ族、満州人、ニヴフのロシア極東地域の少数民族の歴史とこれに先行した渤海の靺鞨の歴史は切り離せない関係にあると把握し、沿海州の渤海の歴史をロシア極東地域の少数民族の歴史であると主張している。エ・ヴェ・シャフクノフは以下のように述べている。 後に渤海と名前を変えた靺鞨の震国は、存在した最初の日から、独立主権国家であり、その支配者たちは、独自の対内外政策を行ったが、中国の皇帝でさえもこれを考慮せざるを得なかった。中国の皇帝は数回にわたり渤海の軍隊と海軍艦隊の力を知ることとなり、渤海人たちはその軍隊の力を借りて山東半島の登州のような唐の一級海軍基地を果敢に攻撃した。すぐに、中国の皇帝は、渤海と友好的な関係を設定することが唐帝国の最良の対外政策の行為であることを悟り、これは極東及び中央アジアの複数の国と中国において渤海の地位をさらに上げた。中国を訪問した渤海の使者が、他の国の使者の中で最も名誉ある地位を占めたことは理由があるのだった。 — Э. В. Шавкунов、Государство Бохайи памятники его культуры в Приморье, Ленинград エ・ヴェ・シャフクノフを代表とするロシアの渤海学界は、渤海は、靺鞨人、高句麗人、契丹人、室韋人、突厥人、ウイグル人、アイヌ人、ソグド人が渤海の住民を構成していた多民族国家であり、そのなかでも粟末靺鞨が最も多くを占めており、その次が高句麗、その次にそれ以外の複数の民族が混在していたという視点を持っており、安史の乱、堅昆による回鶻滅亡などにより、渤海に多くの民族が流入したと指摘しており、渤海で信仰されていた宗教は、仏教は渤海支配層で信仰され、シャーマニズムは渤海平民の間で信仰されたと考察し、仏教、景教、シャーマニズムなど、一つの国家体制のなかで複数の宗教が共存していることは、渤海が複数の民族で構成された多民族国家であることを示していると指摘している。 エ・ヴェ・シャフクノフは、渤海はツングース系民族である靺鞨人が住民の基本を成したが、靺鞨人以外にも高句麗人、ウイグル人、契丹人、室韋人、ソグド人などの民族で構成される多民族国家であり、渤海は朝鮮史や中国史には属さない独立した靺鞨史と主張しており、エ・ヴェ・シャフクノフは、「渤海は靺鞨が社会・経済的に発展した国だ」と明らかに規定しており、靺鞨の社会・経済的発展について以下のような意見を提示した。 ツングース系民族である靺鞨族が唐、高句麗、東突厥と結んだ政治的・経済的交流は、彼らの社会の原始共産制の解体と初期階級関係の形成を大きく促進させた。唐が靺鞨と同盟関係にあった高句麗を攻撃し、その後に靺鞨族自体を攻撃することで、結果的に靺鞨が強力な軍事・政治的同盟体を成して、ついに中国東北地方・沿海州・北朝鮮地域を包括する統一国家である渤海を建国するに至った。 — Э. В. Шавкунов、 Гоcударcтво Бохай(698-926 гг.) и племена Дальнего Воcтока Роccии 靺鞨人が渤海を建国したという意見は、ロシアの渤海研究者で大勢を成しており、Yu.G.ニキーチン(英語: Yu. G. Nikitin、ロシア語: Ю.Г. Никитин、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)、V.I.ボルディン(英語: Vladislav. BOLDIN、ロシア語: В.И. Болдин、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)、E.I.ゲルマン(英語: E. I. Gelman、ロシア語: Е. И. Гельман、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)など、現在のロシアの渤海研究を主導している研究者は基本的に同じ考えを持っており、渤海専攻ではないニコライ・クラージン(英語版)も「渤海国は伝統的にツングース-満州族に該当する靺鞨人が建国した」と述べており、E.I.ゲルマンは以下のように述べている。 粟末靺鞨を中心に結集した種族が形成された渤海国は、その繁栄期に広大な領土を占めている。 — Е. И. Гельман、Взаимодействие центра и периферии в Бохае ロシアの渤海研究者の渤海建国者の大祚栄に関する視点は、基本的に靺鞨、そのなかでも粟末靺鞨に要約され、この伝統は、イアキンフに始まり、Z. N. Matveevとエ・ヴェ・シャフクノフを経て、今日のアレクサンド・イブリエフにまで継承されており、この見解は、Yu.G.ニキーチン、V.I.ボルディン、E.I.ゲルマンなどの現在のロシアの渤海研究者たちにそのまま転移されている状況である。 宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)や정석배(朝鮮語: JUNG Sukbae、韓国伝統文化大学(英語版)によると、ロシアの渤海学界は渤海が靺鞨系の独立主権国家であったことについてはほとんど満場一致とすることができる程度に統一された意見を示しており、Z. N. Matveevは、渤海は軍隊と艦隊を保有し、唐の山東を攻撃しており、渤海王が中国皇帝から称号を受けていることをもって独立主権国家ではないとする主張は、中国皇帝は、いくつかの民族、特に遊牧民にも称号を与えており、これは自身の領土に彼らが侵入することを防ぐためであり、また、渤海は中国や日本と外交交渉を行っており、渤海が中国や日本に使臣を派遣するのは完全に独自の行動であり、尚且つ中国と日本も渤海に使臣を派遣し、契丹が唐に脅威を与えたとき、唐は渤海に軍事援助を求めていることなどを根拠に渤海は完全な独立主権国家だと位置づけた。 今日のロシアの渤海研究は、ほとんどアレクサンド・イブリエフが主導しており、アレクサンド・イブリエフの研究は、ロシアの渤海研究者にほとんど無批判的に受け入れられており、アレクサンド・イブリエフは文献史料と中国の学者たちの論著を引用しながら渤海が「最初の靺鞨国」「668年に滅亡した高句麗に勤めていた渤海建国者の父である粟末靺鞨人の乞乞仲象は営州に移住していた。その当時、そこには高句麗の征服を避けて中国で隠れ処を探して暮らしていた少なくない粟末靺鞨人が暮らしていた」「唐の高句麗征服は、靺鞨の居住地の南部と中部地域を荒廃させ、彼らの種族共同体の居住システムを崩壊させた。そしてすぐに牡丹江流域で大祚栄を首長とする粟末靺鞨が衰退した種族共同体の靺鞨を結集する核となり、そして最初の靺鞨国が形成された」と述べており、「渤海は歴史上における最初の靺鞨国」であり、渤海と唐の関係において、渤海と唐のあいだにみえる従属性は実質的なものではなく、名目的なものであり、渤海は独立主権国家であったと主張しており、渤海と唐の関係について以下のような意見を提示した。 忽汗州都督府という名称は、渤海の首都を通って流れる牡丹江の古の名称忽汗に相当する。大祚栄が統治する州の一つを承認することで唐は、渤海を隣接する新羅のような国として認めつつ、新しい靺鞨国を唐の世界秩序に編入するようにした。(中略)大祚栄の渤海という名称は、すぐに靺鞨国の新しい名前になり、後には民族名になった。(中略)中国の歴史学者たちの論著でよく発見されるような、渤海を唐帝国の領土 - 行政単位、あるいは唐の「民族自治区」のような、唐と靺鞨国の封建的依存関係を誇張してはならない。 — А. Л. Ивлиев、Очерк истории Бохая
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