ロシアにおける文書の出現とその時代背景
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「シオン賢者の議定書」の記事における「ロシアにおける文書の出現とその時代背景」の解説
1878年にニコライ・メゼンツォフ皇帝官房第三部長官が暗殺された。皇帝官房第三部第三課は外国人監視、国外情報収集を担当していた。さらに1880年2月にアレクサンドル2世皇帝が暗殺未遂される冬宮食堂爆破事件が起きた。そのため、ロリス=メリコフを長とする最高指揮委員会が設置され、8月にはメリコフは内務大臣に就任した。メリコフ大臣は皇帝官房第三部を廃止した。しかし1881年3月にアレクサンドル2世皇帝が暗殺されたため、メリコフの改革案は白紙化された。1881年、ロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)が設立された。 1895年、ロシア警察に『ユダヤ教の秘密』という文書が保管されており、そのなかでは、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊することを計画したと書かれていた。しかし、この文書は皇帝に提出はされなかった。 一説では、ロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが1897年から1899年のあいだに、現在も身元不明の作者に依頼してパリで作成したものとされる。または、1902年にロシア人の反ユダヤ主義者により捏造されたといわれる。 1902年4月7日、ミカエル・メンシコフがユダヤ賢者による世界支配が3千年間計画されてきたと報じた。メンシコフはある女性から、ニースのユダヤ人倉庫から盗まれた文書であるとして渡されたと言った。(この女性については後述する。) 歴史家のノーマン・コーンによると、議定書が最初に世に出たのはサンクトペテルブルクの新聞『軍旗(ルースコエ・ズナーミャ(ロシア語版)、ロシア語)』で1903年8月26日から9月7日(ユリウス暦)にかけて短縮版が連載され、編集長は反ユダヤ活動家のP.A.クルーシュヴァン(ロシア語版)だった。 1903年には議定書がロシアで一般に出版された。同年にはロシア政府がシオニズムを禁止している。 1905年1月に14万人の労働者によるデモに対して銃撃される血の日曜日事件が起き、2月にはモスクワ総督でロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。
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