ロシアについての著作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:39 UTC 版)
「イワン・イリイン」の記事における「ロシアについての著作」の解説
亡命生活にあってイリインはロシアについて、当時のソビエト共産主義のロシアによって判断されるべきではないとした上で、将来キリスト・ファシズム(英語版)によって自らを解放するであろう未来のロシアを期待する、と主張した。1918年に出版したヘーゲル哲学についての学術論文を皮切りに、イリインは、ロシアの歴史的使命に関連する政治・社会・霊性についての多くの本を著した。彼の取り組んだ問題のひとつに、以下のようなものがある:「結局のところ、何がロシアを革命の悲劇へと導いたのか?」。イリインはこれについて、こう結論づけた:「ロシア人の『弱く、傷ついた自尊心』である」。 帝政ロシアでは結果として、国家と人民のあいだに相互不信と疑心暗鬼がもたらされた。権力者と貴族は権力を濫用しつづけ、ロシア人民の紐帯は破壊された。イリインは、いかなる国家も、国民が一定の権利と義務を有する一員として存在する集団として確立されなねばならないと考えた。したがって彼は、社会的な不平等を、どの国にあっても必要な状態と捉えていた。しかしながら、これは、教育を受けた上流階級は無教養な下の階級の人間に対して精神的指導をおこなうという特別な義務を負う、という意味である。この構図は帝政ロシアの社会では見られなかったことである。 イリインによれば、革命のいまひとつの原因は、ロシアの大衆による、私有財産に対する誤った認識であるとした。彼は、私有財産と広大な領地は、勤勉な労働によってではなく、権力と役人の汚職を通じて得られるものだと多くのロシア人が信じていた、と記している。これはすなわち、財産は不正行為と結び付けられて認識されていたのである。 1949年、イリインは、新ロシアの国家建設について、全体主義と「形式的」民主主義を退けつつ「第三の道」によって行うことを主張する目的で、以下のように記した: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}この創造的な事業を前にして、国外政党の「形式的」民主主義を求める声は、甘く、軽薄で、無責任なままである。 イリインにとって、ロシアからウクライナを引き剥がす意見を口にするものは、即ちロシアの仇敵であった。イリインはウクライナ独立論について、「細胞が体のどの部分であるか選べるのと同様に、個人も国籍を選ぶことができる」と反論している。
※この「ロシアについての著作」の解説は、「イワン・イリイン」の解説の一部です。
「ロシアについての著作」を含む「イワン・イリイン」の記事については、「イワン・イリイン」の概要を参照ください。
- ロシアについての著作のページへのリンク