ヤクルト復帰
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2006年に古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿、五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)でNPB/MLB通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。NPB/MLB合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。 2007年は前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団はなく、11月30日付で自由契約公示された。
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ヤクルト復帰
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2012年12月11日に東京ヤクルトスワローズと契約。7シーズンぶりに古巣復帰を果たした。背番号はプロ入り当初に着用していた48に決まった。 2013年2月23日の楽天戦とのオープン戦の後には「(楽天が自分を)手放して痛かったなと思ってほしい」とコメントした。開幕一軍入りを果たし、4月7日の横浜DeNAベイスターズ戦において、2回裏に三浦大輔から古巣復帰後初となるソロ本塁打を打ち、2006年10月10日以来となる神宮球場での本塁打を記録した。しかし、シーズンを通して75試合の出場に留まり、打率.246、3本塁打と往年の力を発揮することはできなかった。 2014年は2年連続で開幕一軍に登録。4月6日の阪神タイガース戦(神宮)3回裏に代打で起用されると、シーズン1号となる3点本塁打を打った。「7番・一塁手」としてスタメンに起用された6月14日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)では、2回表の第1打席から4打席連続で二塁打を打ったことによって、NPBタイ記録(史上11人目、4打席連続では7人目)の1試合4二塁打を達成した。しかし、前年よりさらに少ない39試合の出場にとどまり、10月1日に球団から戦力外通告を受ける。11月27日、福島ホープスの選手兼任監督に就任することが報道により明らかとなった。
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ヤクルト復帰
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2006年、1月20日に古田敦也が選手兼任監督に就任したヤクルトに年俸2億4000万円プラス出来高6000万円(推定)の2年契約で復帰。背番号は自身が過去につけていた16。シーズン通して外れることなく先発ローテーションを守り、11勝を挙げた。 2007年5月17日の中日戦(ナゴヤドーム)で、史上48人目となるNPB通算1500奪三振を達成。1413投球回での達成は、江夏豊の1423投球回を抜く日本プロ野球最速となった。2007年9月23日の阪神戦で、2564日ぶりの完封勝利を挙げる(通算7回目)。 2007年は安定感を欠き、9勝10敗、防御率4.16に終わった。11月12日に前年途中に取得していたFA権を行使する。ヤクルトから慰留を受けるが、新たな環境を求めて移籍を決意。理由としては「新しい友達を作りたかったから」だと「開運!なんでも鑑定団」の中で話していたこともある。
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ヤクルト復帰
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2018年に入ってもMLB市場の歴史的な停滞の影響で所属球団が決まらず、1月29日に3年総額10億円(推定)でヤクルトへの復帰で基本合意した。2月6日に会見を行い、「この球団を愛している、優勝させることしか考えていない」と述べた。背番号はヤクルト入団から2009年まで背負っていた「23」。 開幕戦の対DeNA戦(横浜スタジアム)に4番・中堅でスタメン出場し、1打席目に肘に死球を受けたが、5打席目で日本復帰後初安打初打点を記録。5月3日の対中日戦(明治神宮野球場)の第4打席でNPB通算打率記録の対象となる4000打数に到達。この時点の通算打率が.328となり、1977年から1987年までNPBでプレーしたレロン・リーの.320を抜きNPBの通算打率ランキングで1位になった。リー以外の選手が通算打率ランキングの1位になったのは、1989年の落合博満(当時中日)・2007年の小笠原道大(当時巨人)に続く3例目。6月14日の対西武戦(メットライフドーム)では1回表に史上9人目の初回先頭打者ランニング本塁打を打ち、36歳5か月での達成は木村勉(近鉄)の35歳8か月を62年ぶりに更新する最年長記録となった。6月19日の対ソフトバンク戦ではハーフスイングを空振りと判定された後に審判に暴言を吐いたとして日本では初めて退場処分を受けた。6月30日の対阪神戦で岩貞祐太から危険球を受けて交代し、その後試合を欠場して様子を見たが脳震盪の症状が発生したため登録抹消された。それでも6月は打率.388、4本塁打、22打点を記録し、小川泰弘とともに月間MVPに選ばれた。精神的支柱としてもチームを牽引する中で開幕当初は打撃のアジャストに苦しみ、4番以外にも1番、3番、5番と様々な打順をこなすなど起用も一定しなかったが、交流戦頃から2番打者に定着すると状態を上げ、坂口智隆・山田哲人・ウラディミール・バレンティン・雄平らと共にリーグ屈指の強力打線を形成した。最終的に打率.327、OPS.884、キャリアハイの67打点を記録し、前年96敗の最下位に沈んだチームの2位への躍進に大きく貢献した。巨人とのクライマックスシリーズファーストステージでは10月2日に左太腿裏を負傷した影響でベンチ入りしたものの出場はなく、チームは連敗を喫し敗退した。 2019年も開幕から主に2番・中堅で出場。4月6日の対中日戦(神宮球場)では延長12回二死の場面で代打出場し、小熊凌祐からサヨナラソロ本塁打を放った。代打での本塁打は自身初で、ヤクルトでのサヨナラ本塁打は2005年8月26日の対横浜戦以来である。4月25日の対巨人戦では菅野智之から青木・山田・バレンティンで3者連続本塁打を記録、1か月後の5月26日対中日戦でも同じ3人で再度3者連続本塁打を記録した。前者は平成最後、後者は令和初の3者連続本塁打となった。5月8日の対阪神戦では岩田稔から単独最多となる通算6度目の危険球を受け、9月1日の対中日戦で史上22人目の通算100死球を記録した。また5月17日の対DeNA戦でNPB通算100本塁打、5月22日の対阪神戦で史上126人目のNPB通算1500安打を達成した。1156試合での1500安打達成は史上最速である。最終的に134試合に出場し、チームトップの打率.297、16本塁打、58打点を記録した。 2020年は新監督である高津臣吾の指名でキャプテンに就任した。バレンティンの移籍に伴い中堅手から左翼手にコンバートされ、開幕戦の6月19日対中日戦(神宮球場)に3番・左翼で出場し、4回に1号本塁打を放った。7月11日の対巨人戦(ほっともっとフィールド)では球団通算8000号本塁打(7999号と8001号も青木が記録した)、9月20日の対広島戦(神宮球場)では初回に中村祐太から濱田太貴・青木・山田で25年ぶりとなる初回先頭打者からの3者連続本塁打を記録するなど、バレンティンの移籍、山田哲人・雄平の不調により長打力不足に陥ったチームを村上宗隆と共に牽引した。最終的に3年連続チームトップの打率.317、リーグ3位の長打率、村上に次ぐリーグ2位の出塁率とOPSを記録。長打率とOPSはキャリアハイの数字であり、これまで以上に強打を見せつけるシーズンとなった。シーズンオフに新たに3年契約で推定10億で契約を結んだ。 2021年は開幕4戦目にコロナウイルス陽性と診断された西田明央の濃厚接触者と判定されて2週間離脱。1月の自主トレ期間もコロナウイルス陽性となった村上の濃厚接触者になったこともあり、調整に狂いが生じて復帰後は大不振に陥った。しかし、5月26日の北海道日本ハムファイターズ戦で日本人選手史上4人目となるNPB/MLB通算2500本安打を達成したことを皮切りに、交流戦では好調な打撃を見せて自身の代わりに2番を務めていた中村悠平に代わって2番に戻り、塩見泰隆と共に上位打線を担った。その後は好不調を繰り返したことで序盤の不振を完全に覆すことができずにシーズン打率.258に留まり、不振の影響で通算打率が.319に下がったため、歴代通算打率記録1位の座から陥落した。チームは2015年以来のリーグ優勝を果たしたが、当時はMLBでプレーしていたため、ヤクルト及びNPBにおけるリーグ優勝経験は自身初となった。巨人とのクライマックスシリーズファイナルステージはヤクルト3勝(アドバンテージ1勝を含む)で迎えた第3戦で7回裏に値千金の2点適時打を放ち、試合は引き分けとなったが、規定により、ヤクルトが日本シリーズに進出した。オリックス・バファローズとの日本シリーズでは第2戦にて8回表に適時打を放ち勝利に貢献。ヤクルトが4勝2敗でシリーズを制し、悲願の「ヤクルトでの日本一」を果たした。
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ヤクルト復帰
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11月10日に古巣のヤクルトが宮出の獲得を発表し、3シーズンぶりにスワローズ復帰となった。背番号は49となった。 2011年は28試合のみの出場だが打率は.300を残した。 2012年10月6日、この年限りでの現役引退を発表した。10月7日のシーズン最終戦となる対広島戦(神宮)で途中出場し、セカンドフライに打ち取られている。11月1日、任意引退公示。
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ヤクルト復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:48 UTC 版)
2018年12月26日、ヤクルトへの移籍が決まり、2019年1月30日に公示される。背番号は前回在籍時と同じ53。 2019年、開幕から4登板目となる4月5日の中日戦で移籍後初勝利。4月は救援登板のみで5勝を挙げ、3・4月の月間MVP候補にも上がった。5月28日に、史上7人目となるNPB通算800試合登板を達成した。また8月8日には、史上4人目となる日米通算900試合登板も達成した。ファームでの再調整のため登録抹消となることもあったが、一軍で45試合に登板し防御率2.98、5勝4ホールド。契約更改では倍増の4000万円でサインし、日米通算1000試合登板を目指していると語った。 2020年、開幕直前でコンディション不良により、一軍から離れる。その後一度も一軍に合流することはなく、8月に同年限りの現役引退を決断する。10月15日の引退会見を経て、25日の対中日戦(明治神宮球場)で8回表に引退登板。先頭打者を初球で打ち取り有終の美を飾る。なお、現役最後の対戦打者となったモイセ・シエラは偶然にも2012年ブルージェイズ傘下3Aラスベガス在籍時のチームメイトだった。試合後のセレモニーでは高津監督や家族からの花束贈呈後チームメイトから胴上げされた。その後の場内一周の際には過去優勝決定試合後に古田敦也らも見せたライトフェンスよじ登りパフォーマンスを見せた。23年の現役生活に幕を閉じ、1997年度ドラフト指名のプロ野球選手の中では最後の現役引退となった。
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