ヤクルト・スワローズ時代
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「荒木大輔」の記事における「ヤクルト・スワローズ時代」の解説
ヤクルトスワローズ入団後も高校時代を上回る空前絶後の人気となり、荒木を囲むファンの混乱を避けるため、神宮球場のクラブハウスと球場を結ぶ専用の移動用地下道が使用された。これは「荒木トンネル」と呼ばれ、その後もヤクルトの選手が球場に向かうときに使用することがある。なお、このトンネルは荒木が入団した時点で既に存在したもので、荒木のために作られたとする説は間違いである。 1985年後半から先発ローテーション入り。1986年には開幕投手を務める。ファン投票第1位で選出された同年のオールスターゲームでは第1戦に先発登板し、打者10人に対し1安打失点0に抑えた。1987年から関根潤三監督が就任し、荒木は開幕投手のほか10勝を挙げるなどヤクルトの主軸投手として活躍する。 1988年シーズン中盤に肘痛を発症。8月27日、アメリカでフランク・ジョーブ執刀の下で側副靱帯再建手術を受ける。しかし、リハビリを急いだため移植した腱をまた切ってしまい、翌年に再手術。1991年には椎間板ヘルニアの治療も受けた。 そして1992年9月24日の広島カープ22回戦で7回二死走者一塁の場面で登板し、1988年7月6日対大洋戦以来となる1541日ぶりの一軍登板を果たした。27日の阪神戦で中継ぎ登板した後、10月3日の中日戦に先発し7回を無失点に抑え、88年5月6日以来4年ぶりの勝利を挙げると、優勝決定試合となった10月10日の阪神戦に先発し、5回1失点で2勝目を挙げた。シーズン終盤に復帰して2勝を挙げチームの14年ぶりリーグ優勝に救世主的な役割を果たしたことが評価され10月15日、セ・リーグ会長特別賞の受賞が決定。西武ライオンズとの日本シリーズでも登板を果たし、第二戦、第六戦に先発した。 1993年は開幕から先発ローテーションに加わり5月9日の対巨人6回戦では7年ぶりの完封勝利を挙げた。シーズンでは規定投球回には届かなかったものの101回を投げて防御率3.92、8勝(4敗)の成績を残す。西武ライオンズとの日本シリーズでは初戦で先発勝利を挙げ、チームも日本一となる。 1994年は力の衰えが如実に出てしまいシーズン後半からローテーションを外れる。1995年は一軍登板が無くチームの戦力構想から外れる。
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ヤクルト・スワローズ時代
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「小早川毅彦」の記事における「ヤクルト・スワローズ時代」の解説
1996年オフに戦力外通告を受け、球団から解説者としての再就職や指導者転向打診されたが、現役続行を希望し自由契約となり、ヤクルトに移籍。 1997年4月4日の開幕戦の対巨人戦(東京ドームで)、監督の野村克也から「お前は大学で1年から4番、プロで新人王、だから移籍一年目も必ずやれる」と5番スタメン抜擢。当時3年連続開幕戦完封勝利をあげていた巨人の開幕投手・斎藤雅樹から3打席連続本塁打を放つ。事前にミーティングで「斎藤がカウント3-1から左打者に投げてくるのは九分九厘、外角から入ってくる変化球」というデータを示されており、3本のうち2本はこれを狙ったものであった。この年シーズン最終戦でも本塁打を放ち、開幕と閉幕で本塁打を記録。野村再生工場の下で復活を果たしリーグ優勝に貢献した。1997年の日本シリーズ第1戦では初めて指名打者で出場(6番)も西武ライオンズ先発の西口文也に2三振と併殺打とゴロだった。 1999年10月6日に球団から戦力外通告を受け、引退した。
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ヤクルト・スワローズ時代(1度目)
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「チャーリー・マニエル」の記事における「ヤクルト・スワローズ時代(1度目)」の解説
1976年1月27日、正式にヤクルトへ入団。84試合に出場し打率.243、11本塁打、32打点にとどまる。 1977年には打率.316、42本塁打、97打点と活躍し、チームの球団創設以来初の2位躍進に貢献。9月15日の対大洋戦で42号本塁打を打って巨人の王貞治と並び、あわやマニエルがこの年の本塁打王かと騒がれた。 1978年には打率.312、39本塁打、103打点をあげて若松勉、大杉勝男とともに強力クリーンアップを形成し、ヤクルトのリーグ初優勝・日本一に貢献。しかし、機動力・守備力を重視する広岡達朗監督の評価は低かった。その年のオフ12月22日に守備面での不安に加え、ヤクルトに左腕投手が不足していた事情もあり、永尾泰憲と共に神部年男、佐藤竹秀、寺田吉孝との交換トレードで近鉄バファローズに移籍した。とはいえ、ヤクルト在籍期間中、マニエルが移籍する前の日本球界でかつて起きていた「助っ人排斥論」を蹴散らし、日米間の野球関係悪化を免れることとなった。
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ヤクルト・スワローズ時代(2度目)
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「チャーリー・マニエル」の記事における「ヤクルト・スワローズ時代(2度目)」の解説
近鉄を自由契約となったマニエルに対し、ヤクルトは1981年1月14日にマニエルの代理人ハワード・ゴルブと電話で交渉し、2年契約で年俸5千万円(推定)で合意し、1978年以来3年ぶりにヤクルトへの復帰が決まった。この時広岡は既に退団しており、監督は武上四郎に交代していた。ヤクルト初優勝の立役者であり、近鉄でも連覇に貢献したマニエルへの期待は大きかったが、大杉勝男は1月末にユマ・キャンプに現れたマニエルを見て、走り込み不足ですっかり下半身が弱くなっており、キャンプで徹底して鍛え直さなければ使い物にならないだろうと危惧していた。ところが首脳陣はマニエルに厳しいトレーニングを課そうとせず、またマニエルの側も過去の実績を過信していた節があって、十分な準備をしないままシーズンに入ったと述べている。 シーズンに入り大杉の懸念は的中、マニエルは開幕から打撃不振にあえぎ、ようやく第1号本塁打が出たのは開幕から15試合目の4月24日(対阪神)であった。6月上旬には一時的に調子が上向き、6月3日から7日まで5試合連続本塁打(第5号-第9号)を放ったものの、その後は再び不振に陥り、7月23日の前半戦終了までの間にわずか3本しか本塁打を打つことができなかった。さらには後半戦開始直後の8月2日の大洋戦で盗塁を試みた際に左脇腹を強打して長期離脱を余儀なくされた。9月末には戦線復帰したものの、最終的には本塁打12本、打点36という不成績に終わった。マニエルは2年契約であったが、ヤクルトはこの年限りでの契約打ち切りを通告。マニエルは抵抗したものの、1982年1月22日に自由契約が決定して退団し、帰国した。
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