ヤクルト投手時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 06:48 UTC 版)
1996年から左の先発要員として一軍に定着。谷間の先発からショートリリーフまでこなす便利屋的存在だった。 1998年以降は中継ぎに専念し素質が開花。 1998年からは、クローザーの高津臣吾につなぐまでの絶対的なセットアッパーとして、勝ち試合の7回から8回にかけての1~2イニングを中心に登板を重ねた。マウンド度胸が強かったことから、左の強打者と対戦することも多く、読売ジャイアンツの4番打者だった松井秀喜とは数々の名勝負を繰り広げた。 2001年の日本シリーズ進出にも大きく貢献した。 2002年に左肩を故障。それまでの武器であった速球で140km台後半のスピードが出なくなったことから、変化球中心の技巧派投手に転じるとともに、投球フォームをオーバースローからスリー・クォーター気味に変更した。 2003年に一軍に復帰すると、ワンポイントリリーフとしてある程度の成績を残した。 2004年以降は成績が下降。 2005年のシーズン終了後に戦力外通告を受けた。 戦力外を通告された後も現役続行を希望したため、2005年の12球団合同トライアウトに参加。さらに、左腕投手の不足に悩まされていた横浜ベイスターズの入団テストを受けた。しかし、いずれも採用に至らなかったことから現役を引退した。なお、同年末にTBSテレビで放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』では、山本への密着取材を通じて現役引退を決意するまでの経緯を紹介していた。
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