セラと「ミッション・インディアン」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/22 01:58 UTC 版)
「フニペロ・セラ」の記事における「セラと「ミッション・インディアン」」の解説
セラは洗礼させたカフイラ族、セラーノ族、チェメフエビ族、ルイセノ族、クメヤーアイ族、キュペノ族など言語の違う多数のインディアンたちをひとまとめにし、伝道所へ拉致連行し、「ミッション・インディアン」として奴隷化した。 フランシスコ会のミッションは、洗礼するインディアンの数を維持するために、殺したインディアンたちの膨大な数を補って、ますます多くのインディアンたちを伝道エリアに追い込み、伝道所はさながらインディアンの人口レベルを保つための「死のるつぼ」と化した。これはカリフォルニアの至る所で見られたパターンだった。そしてこの死の伝道は南西部一帯にも及んでいった。例えば、初期の「アリゾナ・ミッション」での一つの調査では、現地のインディアンの子供たちの93パーセントが、10歳に達する前に死んだという驚異的な統計を示している。しかし、「外から補充する」という方法により、ミッション・インディアン自体の総人口は徹底的に「維持」されたのである。 「ミッション・インディアン」は様々な方法で死んでいった。最も一般的なものは、スペイン人が持ち込んだ疫病だった。伝道所の砦の狭苦しい環境と栄養失調は、疫病を野火のように広がらせ、伝道所の中でこの原因により4分の1が死んでいった。 伝道所で「ミッション・インディアン」にあてがわれた生活空間は、独身の捕虜1人につき約2m×60cmしかなく、夜になると男女に分けられた「談話室」に閉じ込められ施錠された。この部屋にある、地面に直接掘られた穴が彼らのための便所だった。これは、アフリカからの黒人奴隷の運搬船での状況よりは少しましな待遇だった。既婚のインディアンや彼らの子供の待遇については、ヴァーシリー・ゴローニンが1818年にこう報告している。 私は、長い列構造から成る幅2m以下のこれらの住居で、楽しみごとがあるとはとても考えられません。各々分割された個室の床から天井まで3mから4mまでしかなく、向かい合った小さな扉と小さな窓があるだけです。これを牛小屋だとか鳥小屋と呼んで何か差し支えがあるでしょうか? これらの小さな房が、それぞれ家族全員によって占められているのです。「清潔」だとか「整頓」といったことは問題外です。質素な百姓でさえ、普通はもっと快適な牛小屋を持っているものです。 このような状況下で、スペイン人が持ち込んだ疫病は野放しだった。梅毒、結核、麻疹、天然痘、腸チフス、インフルエンザの流行が、すべてのインディアンたちを襲った。ゴローニンが「驚異的で、ヨーロッパでは聞いたことがない」と記した、「ミッション・インディアン」に強制されたプランテーションでの労働では、その農作物の収穫高や家畜牛の大群、簡単に手に入る海産物の恩恵に関わらず、インディアンたちを栄養失調で苦しめた。ゴローニンによると、伝道所のミッション・インディアンに与えられる食物は以下のようなものだった。 トウモロコシ、豆とエンドウと大麦から作られる一種の薄い粥のみが彼らに与えられる食べ物だった。時折、彼らはわずかな牛肉を与えられたが、飢えたインディアンたちは魚を捕まえるよりほかなかった。 シャーバーン・クック(英語版)の分析によれば、平均して、プランテーションで働かされているミッション・インディアンのカロリー摂取量は、1日およそ1400カロリーだった。「サン・アントニオ」や「サン・ミゲル」のような伝道所では、1日当たり715または865カロリーの低さとなった。別に例を採ると、19世紀のアフリカ黒人奴隷のカロリー摂取量で最高予想値は、1日につき4000カロリー以上で、成人の男性農園奴隷の摂取量は1日ほぼ5400カロリーである。これは現代の標準では高く見えるが、農業労働者に要求されるカロリー値としては過剰ではない。この黒人奴隷のカロリー予想値の作成者は「単に人が奴隷のように働くのを可能にするため、必要なエネルギーは最低1日当たり、4206カロリー必要である」としている。セラの下で奴隷労働させられたミッション・インディアンたちは、同時期のミシシッピ州、アラバマ州またはジョージア州の平均的な黒人奴隷に与えられたカロリー摂取量の半分以下しか許されなかった。 伝道所の軍司令官ですら、インディアンたちの食物がはなはだしく不十分であると認め、「彼らの労働が非常に苛烈であり」、それが「朝から晩まで続くこと」、そして、「彼らの労働の困難さ」を報告している。カロリー摂取量は十分な食事条件の1つに過ぎず、もう一つの問題として、栄養価の問題があった。セラがミッション・インディアンたちに強いた食事内容には、ビタミンAとC、さらに高品質のタンパク質とリボフラビンが深刻に不足していた。結果として生じるひどい栄養失調は、不潔で窮屈な生活環境の中で、彼らを感染症に一層かかりやすくしたのである。 カリフォルニアのミッション・インディアンたちの骨学上の分析によれば、彼らの骨格は、白人による侵略以前のそれよりもかなり小さくなり、急激に質的降下を描いている。他地域のそれと比較して、ことにミッション・インディアンにおいてはそれが顕著だった。発達成長の遅れは、セラによる「ミッション」での食事の栄養的な不足、または劣悪な食事と伝染病の複合影響に起因していた。 伝道所によるプランテーション以外では、ミッション・インディアンたちはスペイン軍の野営地で強制労働を課せられた。1人のフランス人が19世紀前半に伝道所や軍での生活を調べた後に、宣教師たちとインディアンたちの関係についてこう述べている。「これは名義上異なっているだけの、奴隷所有者と奴隷だ。」。捕虜となったミッション・インディアンたちは、牢獄のような伝道所で性行為を控えるようになった。これに対しスペイン人聖職者たちは子作りを強要した。それでも拒んだインディアンの男女については、生殖器を強制検査した。それでも拒んだあるインディアン女性は50回も鞭に打たれ、「子供と思うように」と木製の人形を無理やり抱かされた。 死期が来たと悟ったインディアンは、兵士たちによって「服従と沈黙を強めるため」に鞭で打たれながら礼拝堂まで連行され、ミサに出席することを強要される。彼らは抵抗した場合に備え、銃剣を持った兵士によって囲まれるが、この兵士たちは日常的にインディアン女性を強姦している「禁欲的な」聖職者達である。新改宗者(スペイン人が呼ぶところの「洗礼を受けたインディアン」)が集まるのに遅れたら、「大きな革紐の重い鞭が、彼らの裸の背中に打ち込まれた」。 セラはカリフォルニアでも、メキシコで行ったのと同様に、サンフアン・キャピストラーノでの儀式などで、石で自分の胸を叩いたり、自分を鞭打ったり、あるいは裸の胸に火の付いた蝋燭や燃えた炭を当てたりした。セラの振る舞いに、捕虜となったインディアンたちの中には恐怖で逃げ出す者もいた。また「伝道の旅」の途上で飢えたインディアンの捕虜たちが食料を失敬することもあった。セラはこういったインディアンの振る舞いに怒り狂った。セラはインディアン奴隷たちを即座に絞首刑にしようと息巻き、これを押さえるのに苦労したパロウ神父はこう述べている。 セラ閣下は、激怒しました。彼は、「こんな人種には報いが必要だ!」と、ナイフを掴んで叫びました。 セラの下で奴隷化されたミッション・インディアンにも、軍の監視付きだが、わずかな間の里帰りが許されていた。ある外国人訪問者がこう書き残している。 このほんの短期間は、彼らという存在の、最も幸せな時間です。私は彼らが、大きな歓声を上げながら、大勢で故郷に帰っていくのを見ました。旅に出られない病人たちは、少なくとも彼らの幸せな同国人が舟に乗り込む海岸まで一緒に行って、彼らの村のある遠い山の頂上を見つめて、何日も悲しみにくれながら一緒にそこに座っています。なにも食べず、彼らは数日間ずっとこのままでいます。そして、彼らの失われた家々の光景が、この「新しいキリスト教徒」たちに強く影響を及ぼします。帰郷許可に乗じて、このなかの何人かは逃げ出すでしょう。兵士の脅しもそれを止められませんでした。 セラの下から逃げ出したインディアンたちが捕えられると、彼らは重い丸太と鉄の手枷に縛り付けられ、100回の鞭打ちを受けた。子供であっても容赦はされなかった。普段でも、ちょっとした「罪」で宣教師たちはインディアンに鞭打ちを15回加えた。ある旅行者はこう書き記している。 彼らは全員、生革のロープで縛られました。何人かは傷から出血していました。そして、何人かの子供たちは、彼らの母と一緒に縛り付けられていました。逃亡した男の何人か棒に結びつけられて繋がれ、革の鞭で打たれた。1人の酋長は野原へ連れ出され、ちょうど死んだばかりのまだ温かい子牛の腹を裂いた中に縫い込まれました。彼は一日中杭に縛りつけておかれました。彼はすぐに死にましたが、彼らは彼の死体をそのまま放っておきました。 1773年、軍指揮官ペドロ・ファージェスとの問題があって、セラは副王アントニオ・マリア・デ・ブカレリ・イ・ウルスアとヌエバ・カリフォルニア総督からファージェスを外す交渉を行うために、メキシコシティに行くことを強いられた。メキシコの首都ではブカレリ副王の命によって、セラは32項からなる「レプレゼンタシオン」を書き上げた。ブカレリはファージェスを告発した32項目のうち30項目を取り上げ、1774年にファージェスを解任し、セラはカリフォルニアに戻って、再びインディアンに対する残虐行為に従事した。 1778年、セラはカリフォルニアにおける忠誠について堅信礼の秘跡を管理する特免を与えられた。その特権を1年間行使した後、フェリペ・デ・ネヴェ総督がローマ教皇の声明を提示できるまでは秘跡の管理を停止するよう指示した。セラは2年間近くその特権を止められていたが、マホルガ副王がセラ神父にはその権利があるとする指示を出した。 セラの人生で残りの3年間、サンディエゴからサンフランシスコまでの伝道所を訪れて歩いた距離は600マイル (960km) を超え、洗礼を受けたものの堅信礼を行っていった。セラは不自由な脚と胸の病にひどく苦しんだが、治療をしようとはしなかった。セラは5,309人の堅信礼を行ったが、その者達は少数の例外を除いて1770年から14年間に強制改宗させられたインディアンだった。インディアンたちがセラの堅信礼に逆らえば、即座にスペイン軍によって殺された。 1784年8月28日、フニペロ・セラ神父はサンカルロス・ボロメオ伝道所で70年の人生を閉じた。セラはその祭壇の下に埋葬されている。 カリフォルニア州は1931年、アメリカ合衆国議会議事堂の国立彫像ホール・コレクションにセラの銅像を寄贈した。
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