キリンビール広島工場時代とは? わかりやすく解説

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キリンビール広島工場時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/25 18:52 UTC 版)

キリンビール広島工場」の記事における「キリンビール広島工場時代」の解説

1935年昭和10年)に、キリンビール九州進出計画していたが、横浜山手工場神崎工場(のちの尼崎工場、現在は別の場所に移転して神戸工場)、仙台工場(現在は別の場所に移転して継続)に次ぐ全国4番目の工場として、1936年昭和11年6月1日広島県安芸郡府中村1937年昭和12年)に府中村町制施行し府中町になった進出決定した理由として、福岡県他社工場が既に進出していた事、熊本県八代地区は、良質な確保できるが、南過ぎるので九州進出見送られた事。代わり市場として、当時軍都であった広島市呉市が共に約20万人人口持ち戦争進捗近いうちに周辺の人口70万人超える事が予想され終戦までに実際に100万人を超えた事で、有望な消費地近くにあったこと、太田川水系良質なが豊富である事。キリンビールとしては広島市への進出希望していたが、府中村広島市への編入見込があったことより府中村進出となった工場出来る前は農地だった土地に、1936年昭和11年11月20日地鎮祭行い同年12月1日から工事開始1937年昭和12年6月15日上棟式1938年昭和13年3月1日当初の予定より3ヶ月遅れで完工した。工場完成当時クリーム色塗られていた。 1938年昭和13年3月14日ビール醸造開始同年4月28日には、清涼飲料水工場完成同年5月にはビール瓶詰開始同年6月4日開業式行った関東大震災による被災から1926年大正15年)に復興した横浜工場以来10数年ぶりに建設された、開業当時広島工場は、当時としては東洋最大規模だった。 に関しては、ビール醸造に関して太田川水系使用その他のに関しては、当初府中温品矢賀、そして構内掘った井戸まかなっていたが、塩害干ばつなどより、1950年昭和25年5月15日から安芸水道利用開始した当時広島工場と共に横浜製壜工場に次ぐ製瓶工場として、山口県都濃郡富田町閉鎖時の市町村名新南陽市現在の周南市)に富田製壜工場開設された。製瓶工場についても、広島工場設けられる話もあったが、瓶の原料珪砂搬入には、臨海部が望ましい理由から、富田町設けられた。元々塩田だった土地に、1938年昭和13年4月竣工、翌5月より操業開始した広島工場開設同時期に広島本通商店街キリンビヤホール広島開設され1990年平成2年)頃まで存在。現在は、広島パルコ本館になっている第二次世界大戦中も、ビール醸造および清涼飲料水製造継続されたが、清涼飲料水1942年昭和17年1月1943年昭和18年2月および3月一時的な製造中止後、1944年昭和19年3月以降製造中止したビール減産および、材料ホップ確保困難になった事で味が淡泊になったと言われた。そして、1945年昭和20年4月軍部指令で、飛行機などの燃料として使われるアルコール生産指示受けたが、困難である事からトラック使われるアルコール製造指示変更され上で同年6月より、飲料用アルコール仕込み中止産業用アルコール生産転換した終戦により、実際に燃料として使われる事は無かったが、完成したアルコール試飲して味が良好だったため、『更正酒』として主に社員配布物々交換の品として活用された。また、1943年昭和18年)には、空爆対策として偽装塗装行った1945年昭和20年8月6日8時15分広島市への原子爆弾投下で、コンクリート造および鉄骨造建物に関しては窓・出入口・壁・屋根などの破損木造建物は、全壊半壊傾斜など、主に爆風による被害受けた火災被害に関して無かったことで、施設に関して比較的軽微被害済んだ。ただ、人的被害に関しては、従業員に関しては、死者5名・重軽傷若干名従業員家族の死者が55出た戦後は、神崎工場から運んできた酵母1945年昭和20年12月より仕込み再開1946年昭和21年6月からは進駐軍用のビール製造開始し進駐軍常駐始まった清涼飲料水工場オーストラリア部隊により接収サイダー製造開始された。1947年昭和22年8月復旧工事完了した接収は、1952年昭和27年7月28日まで続けられ返還されたが、継続利用要請よりさらに3ヶ月貸与された。 ビール自体需要減少製造制限より、戦後しばらくは副業として、ジアスターゼ製造製氷事業貸金庫事業などが行われた。 1949年昭和24年)には、原材料事情改善より増産認められ以後製造量は増えていった。 1950年昭和25年以降拡張増設工事本格化その後周辺土地買収による用地拡張機能拡張繰り返したビール製造量は1950年昭和25年上半期末に1万200kLだったのが、1953年昭和28年上半期末に1万9,800kL、1956年昭和31年下半期末に41,400kL、1961年昭和36年上半期末に7万2,200kL、1961年昭和36年下半期末に97,400kL、1964年昭和39年上半期末に126,000kL、1965年昭和40年上半期に141,000kLに増強された。 増強施設のために手狭になった敷地拡張するために、建設時買収を行わなかった西側土地を、一部2区画を除いて1961年昭和36年春に買収残り1962年昭和37年中に買収隣接する西側水路付け替えなどで、当時キリンビール工場の中で4番目の広さ工場になった。さらに、施設拡張と、その代わりになる空き瓶置き場確保のために、1965年昭和40年)に隣接農地4,260m2、翌1966年昭和41年)に隣接農地2,350m2、1977年昭和52年)には以前より賃貸していた東洋製罐敷地6,634m2および建物540m2を買収して拡張続けたまた、1954年昭和29年)には、キリン初のジュース『キリンジュース』(後の『キリンオレンジ』)が広島工場製造開始した。 創業当初は、瓶詰め専門工場だったが、1990年平成2年)頃に缶ビール施設追加されている。 1997年平成9年9月に、広島工場閉鎖発表理由として、施設旧式老朽化、1社員あたりの製造量が500kl程度で、全社平均半分強だった事。周辺の都市化に伴う、拡張余地がない事が閉鎖の理由とされた。翌1998年平成10年8月一部詰め部門除いて製造終了した工場開設当初製造能力は、1万3500kLで、閉鎖時の製造能力15kL開業時従業員数215人で、最終時従業員数は約250人。

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