アルジェリア独立戦争
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「ムールード・フェラウン」の記事における「アルジェリア独立戦争」の解説
『大地と血』が出版された翌1954年の11月1日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が蜂起し、アルジェリア独立戦争が勃発した。アルジェリアだけでなくフランスでも作家として高い評価を得たフェラウンは両文化の架け橋の役割を期待されたが、植民地当局に加担することを拒んだために、以後、アルジェリアの独立に反対し、「フランスのアルジェリア」を主張するフランスの軍人や入植者(コロン)の一部から挑発や迫害、殺害脅迫すら受けるようになった。 フェラウンは1955年から日記を付け始めた。この日記は彼が死去した1962年にロブレスの序文が付され、地中海叢書として刊行されるが、2000年に刊行された英訳の副題が「フランス=アルジェリア戦争に関する省察」とされたように、フランス語作家でありながら、同時に現地住民でもある複雑な立場から戦時下の状況を記録し、植民地主義の問題について検討しており、英語版の書評ではポストコロニアル理論の研究における本書の重要性が強調されている。 フェラウンは植民地当局への加担を拒む代わりに、アルジェリア北東部オーレス(フランス語版)山地で調査を行った民族学者・人類学者で、民族解放戦線の地下組織の指導者ヤセフ・サーディ(フランス語版)との話し合いに臨んだジェルメーヌ・ティヨンが創設した社会教育センターの視学官の仕事を引き受けた。これはフランス領アルジェリア総督ジャック・スーステル(フランス語版)のもと、初等教育、職業準備教育のほか、無料診療、行政支援なども提供する施設であり、フランス国民教育省に属し、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の支援を受けていた。 1962年3月15日、アルジェ近郊のエル・ビアル(フランス語版)のシャトー・ロワイヤル社会教育センターに所長およびフェラウンら視学官5人が集まっているとき、フランス極右民族主義の武装地下組織「秘密軍事組織(OAS)」の一派「デルタ特別部隊(Commando Delta)」がセンターを襲撃し、6人を外に連れ出して銃殺した(シャトー・ロワイヤルの暗殺、Assassinat de Château-Royal)。アルジェリア共和国暫定政権(フランス)と民族解放戦線(アルジェリア)がアルジェリアの独立を承認するエヴィアン協定に調印する3日前のことであった。深い衝撃を受けたティヨンは、「ムールード・フェラウンは偉大な民族の作家であり、誇り高くしかも謙虚な人間であったが、彼のことを思うとき、真っ先に浮かぶ言葉は「優しさ」である」と語り、OASの残虐行為を厳しく非難した。
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アルジェリア独立戦争
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「ムールード・マムリ」の記事における「アルジェリア独立戦争」の解説
1952年に処女作『忘れられた丘』をフランスのプロン(フランス語版)社から発表した。故郷のカビリー地方を舞台に、植民地主義と第二次大戦によって民族の伝統的価値が失われて行く過程を描いた小説であり、フェミナ賞、ゴンクール賞、アンテラリエ賞、ルノードー賞とフランスの権威ある文学賞の候補作になり、アルジェリアのフランス語新聞『レコー・ダルジェ(L'Écho d'Alger、アルジェの響き)』の文学賞「四陪審員賞(Prix des Quatre Jurys)」に選出されたが、受賞を拒否した。 フランス語で書いた小説をフランスの大手出版社から発表し、しかもフランスで評価されたことに対して、すでに1920年代からアルジェリアの独立を主張していたメッサリ・ハジ(フランス語版)が率いるアルジェリア人民党(フランス語版)(PPA)および民主的自由の勝利のための運動(フランス語版)(MTLD)を中心に民族主義者から「裏切り者」、地域主義者、同化主義者と批判された。 1954年にアルジェリア独立戦争が勃発すると、民族解放戦線(FLN)を支持し、偽名で国外の団体に宛てた請願書などを執筆した(たとえば、日本でも1958年に民族解放戦線の極東代表部が東京に設置され、1961年に日本北アフリカ協会が設立された)。しばらく友人のもとに身を隠していたが、逮捕されるおそれがあったため、1957年にモロッコに亡命した。亡命後1959年までフェスのリセ・ムーレイ=イドリースで教鞭を執り、また、独立戦争を題材にした戯曲『フェーン』(「フェーン」はスイスやオーストリアで晩冬から早春にかけて見られる、高温で乾燥した突風)を執筆したが、いったん原稿を破棄し、独立後に書き上げて1967年にようやくアルジェリア国立劇場で上演された。だが、この作品もまた物議を醸し、1982年になってようやくパリで刊行されることになった。
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アルジェリア独立戦争
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「ジャン=ピエール・ファイユ」の記事における「アルジェリア独立戦争」の解説
1955年の米国からの帰国後にフランス社会党(労働インターナショナル・フランス支部、SFIO)に入党。同年のマンデス=フランス内閣総辞職後も彼こそがアルジェリア独立戦争を終結させることができると期待したからであったが、翌1956年に成立したギー・モレ政権のアルジェリア政策に反対して離党。1960年の統一社会党の結成に参加し、以後数年にわたって、一党員として活動に参加。アルジェリア戦争中は人民救済会(Secours populaire français)の会員として、パリおよび郊外の貧民街に住むアルジェリア人家族を訪問・支援した。また、1970年代までフランス共産党の活動にも関わっていたが、入党はしなかった。
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アルジェリア独立戦争
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「アシア・ジェバール」の記事における「アルジェリア独立戦争」の解説
ジェバールが渡仏した直後の1954年11月1日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が率いる一斉蜂起によりアルジェリア独立戦争が勃発し、1956年5月、民族解放戦線の呼びかけに応じてアルジェリア・イスラム教徒学生総同盟(UGEMA)が講義・試験のボイコットによる「解放のための闘争」を開始した。学業を中断してFLNの民族解放軍(フランス語版)に入隊する学生もいた。彼らは「自由なくして学位に意味はない」、「学位を一つ余分に取ったからといって立派な死体になれるわけではない。我々の民族が果敢に闘っているときに、学業を続けて学位を次々と取ったところで、それが何になるのか」と訴えた。アルジェリア・イスラム教徒学生総同盟は翌1957年の10月に「新国家建設」という「新たな使命」を担う者として、民族解放戦線から独立した活動を開始するためにボイコットを中止することになるが、この運動を支持したジェバールは、高等師範学校の試験を受けず、したがって学位を取得しなかった。 1958年に民族解放戦線の活動家アフメド・ウルド=ルイス(Ahmed Ould-Rouis)と結婚し、チュニス(チュニジア)に亡命した。彼とは1975年に離婚し、1981年にフランス語アルジェリア文学の作家マレク・アルーア(フランス語版)と再婚、2005年に離婚した。ウルド=ルイスはヴァリド・ガルン(Walid Garn)の筆名で活躍した作家で、ジェバールが1969年に発表した戯曲『赤い、夜明け』の執筆に協力し、アルーアはジェバールが1982年に制作した映画『ゼルダ、あるいは忘却の歌』の脚本を書いている。また、ジェバールとウルド=ルイスは、1965年に5歳の男児(モハメド・ガルン(フランス語版))を孤児院から引き取り、養子にした。アルジェリア戦争中に生まれたモハメドの実の母は、彼が2000年に裁判を起こしたときに初めてフランス軍に拷問・暴行されたことを明らかにした。ジェバールには息子のほか、ジャリラ・イマライェーヌ=ジェンナヌ(Jalila Imalhayène-Djennane)という娘がいる。 夫とともにチュニスに逃れたジェバールは地下活動に入り、国境近くでアルジェリア難民と連絡を取って彼らに取材し、併せて現地の歴史・文化についても調査を行った。この調査は彼女の後の研究の基盤となる。さらにアルジェリア共産党(フランス語版)系の『エル・ムジャヒド(フランス語版)』紙に寄稿していた独立運動家で精神科医のフランツ・ファノンに連絡を取り、取材した内容を記事にして同紙に寄稿した。
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