バグダード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 07:35 UTC 版)
歴史
イスラーム以前
バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる[5]。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する[6]。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる[7][注釈 1]。
サーサーン朝時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。一説によると、都市名のバグダードは古代ペルシア語で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる[7][注釈 2]。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の農産物の集積地として食糧事情に恵まれ、東西の隊商ルートと南北の河川ルートの交わる交易の結節点となりうる地の利を持っていた[7]。この地方が当時、新興宗教であったイスラム教を信奉するアラブ人たちによって占領されたのは、634年のことである。
アッバース朝カリフの都
バグダードは、762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められた計画都市で、南フランスから中国国境に至る広大なイスラーム帝国の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された[7][注釈 3]。当時のバグダードはキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた[5][8]。イスラームの年代記によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って綿油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる[9][注釈 4]。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万ディルハムの費用を投じて766年に完成した[7][9]。
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また東ローマ帝国やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となったホラーサーン軍団[注釈 5] とその子孫の駐屯地として繁栄した[10]。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城(ムダッワラ)という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する宮殿やモスクが建てられ、それぞれのドームは高貴な色とされた緑色のタイルで覆われた。周囲には、諸官庁、カリフ一族の館、親衛隊駐屯所などが並び、
- 南西の「クーファ門」(アラビア半島からメッカへ)
- 北西の「シリア門」(シリアから地中海を経て東ローマ帝国へ)
- 北東の「ホラーサーン門」(イランのホラーサーンから絹の道により中央アジア・中国へ)
- 南東の「バスラ門」(バスラから海の道によりインド洋を経て東南アジア世界へ)
の4つの門を有していた[7]。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった [11]。
城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、商人や職人などの一般市民は城外に居住するよう定められた。円城の都は、直交する2条の道路により4つの扇形の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした[8]。市民は城外にいくつかの区に分かれて居住し、各区はそれぞれ壁で区切られ、夜間にはその出入口が閉鎖された[12]。それぞれの区には最高責任者がおり、通常、アラビア人、ペルシア人、ホラズム人など出身地ごとに集住して一区を形成することが多かった[12]。
第3代カリフのマフディー(マンスールの子、在位775年 - 785年)の代にはティグリス川東岸にも軍隊が置かれ、それにともなって商人や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという[5][注釈 6]。また、アッバース朝の歴代宰相(ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている[7]。
アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームの名が与えられた新都バグダードは、当時、唐の長安と並ぶ世界最大の都市であった[注釈 7]。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位786年 - 809年)の時代には150万人におよんだとみられる[13]。バグダード市民はとりわけコーランの教えを遵守するよう求めた。バグダードの街には6万の礼拝所と3万の公衆浴場があったといわれる。大説話集『千夜一夜物語』収載の多くの物語の舞台にもなっており[注釈 8]、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている[注釈 9]。
アッバース朝は駅伝制(バリード)によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、中近東における代表的な商業都市であるというばかりではなく、中国、東南アジア、インドからサハラ以南のアフリカや欧州までを含む国際交易網の中心として、また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた[13][注釈 10]。
バグダードはまた、イスラーム世界の学問の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、唐で国外不出とされた紙の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちにはダマスカスにも設けたといわれている[14]。中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた[13][注釈 11]。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人アブー・ヌワース、歌手イブラーヒーム・アルマウスィリーとイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した[15][注釈 12]。また、数多くのギリシア語文献が収集されてアラビア語に翻訳された。とくにハールーンの「知恵の宝庫(ヒザーナ・アルヒクマ)をもとに、9世紀前半に第7代カリフマアムーンによってバグダードに建設された「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」では、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究された[注釈 13]。以後、バグダードは、東方におけるギリシア学術研究の中心地となった[16]。ギリシアの学術に興味をもったマアムーンは、バグダードに天文台を建設した[16]。こうしてアッバース朝下のバグダードではギリシャ・ペルシャ・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。
商業のさかんであったバグダードの市場(スーク)には世界中の商品が集まった。中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などである。世界で初めて小切手が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶアーケードに設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は773年におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。これにより、果物市場、織物市場、両替商街、書店街、羊肉屋街などの多様な市場が現れ、それぞれのスークには親方ないし監督者がいて、諸事の管理監督にあたった[12]。カルフ地区にはやがてシーア派を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や綿織物、ガラス・金属工芸、刀剣、紙などが産品として著名であり、とくに織物は各地に輸出されている[7]。
ワクフといわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、モスクや医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって国富が増大した。特に医療面では世界初の総合病院が設けられている。イスラームの医学は、のちの西洋医学に大きな影響をあたえた。
ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子(アミーンとマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全には復旧されなかった[5][10]。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。
9世紀のムウタスィムによる一時的なサーマッラーへの遷都(836年)後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の813年と第12代カリフムスタイーン治下の865年に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。892年、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた[6]。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から10世紀初頭にかけてといわれている[7]。しかし、946年には十二イマーム派を奉ずるブワイフ朝のアフマドがバグダード入りしてカリフよりアミール・アルウマラーに任命されて政治の実権を奪い[注釈 14]、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える軍人相互の抗争、民衆暴動の頻発[10]、洪水の頻発などによって次第に荒廃しはじめた[17]。
アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退
1055年、中央アジア出身の王朝セルジューク朝がバグダードを占領した。セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、ブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐し、第26代カリフのカーイム(1031年 - 1075年)より「スルタン」(「権力」)の称号[注釈 15] を受け、バグダードのカリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝の宰相ニザームルムルクは、シーア派勢力の拡大に対抗してスンナ派のウラマー(法学者)を養成する必要から、1067年、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠したマドラサ(ニザーミーヤ学院)を建設した[注釈 16]。
しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいにカイロにうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、イクター制の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった[18]。
1258年、モンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した(バグダードの戦い)。チンギス・カンの孫にあたるモンゴルの将フレグは最後のカリフムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる[6]。豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。1234年完成のムスタンスィリーヤ学院や12世紀の城門のひとつバーブ・アルワスターニーなどを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の遺構はごく少数しか遺存していない[9]。
14世紀にモンゴルより独立したジャライル朝は、ミルジャン・モスク(1358年)や現在イスラーム博物館となっているハーン・マルジャーンなどの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も完全にマムルーク朝の都カイロにうつり、メソポタミア地方における一地方都市へと転落していった。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者イブン=バットゥータがバグダードを訪れている[19]。こののち、バグダードは、14世紀末と15世紀初め、2度にわたってティムールの略奪を受け、15世紀なかばには廃墟同然になってしまった[17]。
アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、16世紀から17世紀にかけては、トルコのオスマン朝のスルタンとペルシアのサファヴィー朝のシャーとのあいだで争奪の対象となった。すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている[6]。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。
17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守アフメット・パシャおよびハサン・パシャは、行政機構の内部にシルカシア人マムルークの奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した[6]。
イラク王国の首都に
1798年、イギリスの商館がバグダードに建設され、1802年にはその駐在官が領事としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた[6]。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、ヨーロッパ大陸においては従来小国分立の状態にあったドイツとイタリアに統一国家(ドイツ帝国、イタリア王国)が成立し、とくに新興ドイツは中近東への進出をめざした。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は大海軍の建造に着手する一方、1899年にオスマン帝国からバグダード鉄道の敷設権を獲得して、ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に資本を投下することにより西アジア地域への勢力拡大をはかった(3B政策)。しかし、この政策はイギリスの3C政策のみならずロシアの南下政策との対立を招いた。
1914年に起こった第一次世界大戦は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の1915年、「アラブ反乱」をあおってアラブの名門ハーシム家のフサイン・イブン・アリーにマクマホン書簡を手渡した(フサイン=マクマホン協定)[20]。1917年、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。
戦後の1921年には現在のイラクの領域にイギリス委任統治領メソポタミアが成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。1932年には委任統治が終了し、ハーシム家のファイサル1世(フサインの三男)を君主とするイラク王国が成立した[注釈 17]。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった1900年の段階では14万人だったバグダードの人口は、1950年には50万人に達している。
現代
第二次世界大戦直後の1946年、イラク王国はアラブ連盟に加盟したが、やがて世界は「冷たい戦争」とよばれる東西対立の時代にはいった。1955年、パキスタン、イラン、イラク、トルコ、イギリスの五ヶ国は中東条約機構(METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これはソ連封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、1958年7月14日、バグダードで反英米共和政派による革命(7月14日革命)が起こった。この政変により、国王一家や摂政が殺害され、アブドルカリーム・カーシムを首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌1959年にバグダード条約機構を脱退した。
その後、1963年のバアス党のクーデタ、1968年の同党による一党独裁、1979年のサッダーム・フセイン政権の成立、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争[注釈 18]、1990年のクウェート侵攻とそれにつづく1991年までの湾岸戦争、2003年のイラク戦争など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。
なお、バグダード郊外のサドルシティはイスラム主義が影響力を持っており、カーシム時代に「革命市」(مدينة ألثورة "Al-Thawra")としてイラク共産党の大臣Naziha al-Dulaimiが建設したこともあってかつてから反体制派が強いところであり、1963年のバアス党のクーデタの際にはレジスタンス運動が起こり[21]、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。
2003年のイラク戦争では米軍が空爆をおこない最終的に陸軍を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された[注釈 19]。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的民主主義への反発などから抗争が続いている。
2009年1月よりアメリカ合衆国大統領を務めるバラク・オバマは2011年中のイラクからの完全撤退を公約し、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了、その後公約通り2011年12月18日に全部隊のイラクからの撤退を完了した[22]。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模なテロや爆破がつづいている。
注釈
- ^ 中世ヨーロッパでは長いあいだバグダードは王都バビロンと同一であると誤認されていたが、イスラーム以前のバグダードは定期市がひらかれる一集落にすぎなかった。
- ^ 「羊の家」をあらわすアラム語が語源であるという異説もあって、一定しない。
- ^ 初代のサッファーフは、いわゆる「アッバース革命」の成功によりクーファで即位した。サッファーフは、クーファから北方のハーシミーヤ、さらにはバグダード西方のアンバールに都を遷した。第2代カリフのマンスールはサッファーフの兄にあたり、いったんはハーシミーヤに復都したものの、その地は、マラリアを媒介する蚊が多く、また、多数のシーア派住民が住むクーファに近く政情不安が懸念されたので新都の建設が求められた。
- ^ 円城都市にはメディア王国の首都エクバタナ(現在のハマダーン)やサーサーン朝の都市グール(現在のフィールザーバード)など古代オリエント以来の伝統がある
- ^ アラブ大遠征以降、軍団内でのアラビア半島出身者のアラブ人兵士の重要性が減じ、かわってホラーサーン地方出身者の軍人やその他の側近軍団、9世紀以降はトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)が軍の主力をになうようになった。
- ^ 舟橋はのちに上流と下流にも1つずつつくられた。これは、河中に杭を立てて舟をつなぎあわせ、その上に板を敷いてつくられていた。
- ^ 「マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)」はマンスールによる命名。天国を意味する「ダール・アッ=サラーム(平安の館)」が意識されたものといわれるが、実際には従来よりの呼称バグダードが多用された。なお、中国では宋代以降「白達」と表記され、イタリア語ではバルダッコ(Baldacco)の名で知られた。
- ^ 『千夜一夜物語』は単にお伽噺のみならず、史実にもとづいた物語を数多く含んでいるとみられている。しかし、後世換骨奪胎してつくられた話やハールーンに仮託された話も多く、その場合はハールーンを主人公とし、バグダードを舞台としておりながらも実際の細部の地理などについては不正確なことも多い。
- ^ 好色な場面はハールーンが登場人物となることが多いところからバグダード起源の説話が多く、悪漢の登場する説話はカイロ起源のものが多いと考えられている。
- ^ イスラーム商人の活動領域はきわめて広大であり、北はロシアやスカンジナビア半島、南はインド洋やアフリカ大陸東岸、東は南シナ海沿岸、西は大西洋沿岸にすらおよんでいた。前嶋(1955)p.86
- ^ サンスクリットの動物寓話『パンチャタントラ』は、マンスールの書記に抜擢されたイブン・アルムカッファーによってペルシア語訳から『カリーラとディムナ』としてアラビア語に訳された。13世紀にはそのヘブライ語訳からラテン語、さらに独仏英の諸語に、アラビア語からは直接ギリシア語・スペイン語に訳された。
- ^ 「創造されたコーラン」説を唱え、アッバース朝下の諸民族の特徴を描写した文でも知られる、9世紀アラブの文人ジャーヒズもバグダードで活躍した人物である。
- ^ 詩人でもあったマアムーンは翻訳者に訳した本と同じ重さの黄金をあたえたという。
- ^ アッバース朝の22代カリフ、ムスタクフィー(944年 - 946年)はアフマドをアミール・アルウマラー(最高のアミール職)に任じてムイッズ・アッダウラ(王権を強化する者)という称号をあたえるとともに、軍事・行政および財政に関する全権限をアフマドに移譲した。
- ^ こののち、「スルタン」はスンナ派イスラーム国家の君主号として定着して広く用いられる。
- ^ ニザーミーヤ学院は、バグダードのみならずニーシャープールやイスファハーン、レイにも建てられた。この学院がイスラーム世界のマドラサ教育の先がけとなった。
- ^ ハーシム家のイラク王国は、サウード家のサウジアラビアとは対立した。
- ^ 1988年に停戦が実現し、1990年イラン側の和平条件を全面的に受け入れることを表明した。
- ^ しかし、「大量破壊兵器」なるものが存在しなかったことはアメリカ合衆国連邦議会によってのちに証明された。
- ^ 「月平均降雨日数」とは、日降水量0.25mm以上の月平均日数を指している。
- ^ フレグの七男テグデルはムスタンスィリーヤ学院への寄進をおこなっている。
- ^ 正統カリフ時代第4代カリフのアリー(預言者ムハンマドの従弟で女婿、シーア派の初代イマーム)は、現バグダード市南部のカルフにあったモスクで暗殺されたと伝承される。バグダードの南160キロメートルのナジャフにはアリーの墓廟があり、ナジャフとバグダードのおよそ中間に位置するカルバラーもシーア派の聖地となっている。
- ^ アジアカップウィナーズカップ1999-2000準優勝ティーム。決勝戦では日本の清水エスパルスに敗れた。
出典
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