論者
知識人
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知識人(ちしきじん、英: intellectual)は、 高い知識や教養を持つ人 のこと[1]。インテリや有識者(ゆうしきしゃ)とも呼ばれる。
概説
フランスでは、19世紀末のドレフュス事件の際、モーリス・バレスやフェルディナン・ブリュヌティエールによって用いられたのをきっかけに、知識人(仏: intellectuel)という語句が、広く知られるようになったと言われている。バレスやブリュヌティエールは反ドレフュス派であり、エミール・ゾラ、オクターヴ・ミルボー、アナトール・フランスなどドレフュス擁護の論陣を張った文人たちに対して、彼らが地政学や軍事的問題といった方面には疎いにもかかわらず無闇にドレフュスを擁護していると非難して、彼らに対して知識人という言葉を投げつけた。
したがって、このとき知識人とは軽蔑的意味をもっており、抽象的思考をするあまり現実感覚を見失って、ろくに知りもしない話題に安易に口を出すといったニュアンスを帯びていた。あるいは知識はあっても知恵はないという侮蔑、へりくだりをも意味していたのかもしれない。
これとはまったく逆の方向から知識人について論じたのがジュリアン・バンダである。バンダは著書『教養人の裏切り (Trahisons des clercs) 』(邦題『知識人の裏切り』)において、真理や正義といった普遍的価値の代弁者たるべき知識人が、政治的な議論に熱中するあまり、本質を見失っていると論じている。
しかし、その後この語句が広まるにつれ、否定的意味よりも肯定的意味が強調されるようになり、狭い専門性に閉じこもることなく、公共的議論に積極的に参入していく人たちについて用いられるようになっていった。
アメリカ合衆国の社会学者チャールズ・ライト・ミルズが著書『社会学的想像力』で行った大学人に対する批判もこのような知識人論の一種であると考えられる。すなわちミルズは、大学人たちが専門性に特化するあまり公共的議論に参加する能力を失いつつあることを警告し、この点ではジャーナリストのほうが知識人的であるとしたのである。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、知識人の大きな役割を社会参加に置き、フランス共産党に入党して(その後離党)、様々な政治的出来事に対して発言を行った。
今日このような意味での知識人の代表的存在といえるのがノーム・チョムスキーである。チョムスキーの発言は大きな政治的影響力をもつようになっている。しかし、チョムスキー自身は知識人の役割が一人歩きすることに対して警戒しており、いわゆる知識人の発言とされるものはほとんどの場合支配的イデオロギーを擁護する役割しか果たさないと述べている。
……知識人を自認する事によつて、専門の職能人としての怠慢をごまかし、その資格からの転落を防がうとしてゐる知識人が余りに多過ぎはしないでせうか。といふより、くどい様ですが、さういふ人々を知識人と呼ぶと定義すべき実情です。例は幾らでもあります。知識人が職業化した時、平和屋になり、テレビ・タレント化して行くのです。これもくどい様ですが、さうして知識人が職業化すれば、それが職業である以上、危機を食ひ物にする利己心に支配されざるを得ず、大義名分と利己心との混同といふ自己欺瞞に追ひ込まれて行くのは必然と言へませう — 「知識人とは何か」『福田恆存全集』6
脚注
参考文献
- 西部邁『知識人の生態』PHP新書、1996年 ISBN 9784569553658
- 茂木健一郎『思考の補助線』
- 竹内, 洋『メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社、2012年。ISBN 978-4120044052。
関連項目
外部リンク
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近代においても個人や集団が散発的に地球平面説を主張してきたが、注目に値する科学者で主張した者はいなかった。 イングランドの作家サミュエル・ロウボタン(1816年 – 1885年)は「Parallax」という変名を用いて1849年に『探究的天文学』(英: Zetetic Astronomy)というパンフレットを作成して地球平面説を主張し、長い排水管の中の水の湾曲度合いを調べる実験を多数行った結果を発表した。これに続いて「近代天文学の矛盾とその聖書に対する背馳」なる文書も出された。彼の支持者の一人ジョン・ハムデンは地球平面説を証明しようとする有名なベッドフォード水位実験でアルフレッド・ラッセル・ウォレスと賭けをして負けた。1877年にはハムデンは『新しい聖書宇宙地理学』(英: A New Manual of Biblical Cosmography)を作成した。また、ロウボタンは、船が水平線の下に消えていく現象は人間の眼との関係で視点の法則から説明できると称する研究も行った。 1883年には彼はイングランドおよびニューヨークで真理探究協会を設立し、ニューヨークへは『探究的天文学』の数千ものコピーを船で送った。この挑戦はニューヨークのデイリーグラフィック紙で報じられ、地球が自転していることを証明した者には1万ドルが支払われるとされた。 もともとイングランドのグリニッジの印刷業者だったウィリアム・カーペンターという男がロウボタンの支持者となり『暴かれた理論天文学 ― 地球が球体でないことの証明』(英: Theoretical Astronomy Examined and Exposed - Proving the Earth not a Globe)を1864年に『コモン・センス』(英: Common sense)の題で8部構成として出版した。彼は後にボルチモアに移住し、1885年に『地球が球体でないことの百の証明』(英: A hundred proofs the Earth is not a Globe)を出版した。彼の主張はこうである: 「1、2フィートも位置が下がることなく数百マイルもの距離を海に向かって流れていく川が存在する — 特に、ナイル川は1000マイルも流れるが1フィートしか下がらない。この範囲で一定の高さが保たれているということは大地が凸状であることと両立しない。それゆえ、これは地球が球形でないことの手ごろな証明である。」 「もし地球が球形なら、小さな球形のモデルが海に行く際のまさに最高の―なぜならばもっとも正しいのだから―ナビゲーターになるであろう。しかし地球儀を持って航海する人などいない: そんなおもちゃをガイドにした船乗りは間違いなく船を難破させてしまうであろう! これが地球が球形でないことの証明である。 同世代の南部の牧師・聖職者の中で最も多くの人に対して説教したとされる元奴隷の黒人説教師ジョン・ジャスパーは友人の大工の意見に対して自身の最も有名な説教を引用して「麗しの太陽は動き、地球は四角い」と。この説教は250回も使われた。 1887年にニューヨーク州ブロックポートでM.C. Flandersが球体説を擁護する二人の科学的な紳士に対して三晩にわたって地球平面説の場合を主張した。審判として選ばれた5人の村人は最終的に満場一致で地球平面説を支持した。この事件は『ブロックポートの民主主義者』(英: Brockport Democrat)に報告されている。 元治安判事のメーン州の「プロフェッサー」ジョゼフ・W・ホルデンはニューイングランド州で無数の講義を行い、シカゴ万国博覧会で地球平面説の講義を行った。彼の名声はノースカロライナ州に鳴り響き、同州のステイトヴィルのセミ・ウィークリー・ランドマークで1900年に彼の死が報じられた: 「我々は地球平面説を奉じるとともに我々の一員の逝去の報を聞き及んで深く悼むものである。」 ロウボタンの死後、エリザベス・ブロントが1893年にイングランドで世界真理探究協会を設立し、『Earth not a Globe Review』という雑誌を創刊して2ペンスで売ったが、『Earth』という雑誌もありこちらは1901年から1904年まで続いた。彼女は自然世界に関しても聖書が疑いのない権威であると考えており、地球が球体だと信じている者はクリスチャンではないと主張した。世界真理探究協会の著名なメンバーには、三位一体聖書協会のメンバーでもあるEthelbert William Bullinger 、ダブリン大学トリニティ・カレッジの自然科学の上級議長でもある大司教エドワード・ホートンらがいた。彼女はロウボタンの実験を繰り返し、いくつかの興味深い反証実験を生み出したが、第一次世界大戦後には関心が薄れていった。この運動によりデイヴィッド・ワルドー・スコット『確固とした大地』(羅:Terra Firma)などの地球平面説を主張するいくつかの書籍が発表された。 ジョシュア・スローカムは世界一周旅行中の1898年にダーバンで地球平面論者の一団と出会った。一人の聖職者を含む三人のボーア人が彼にパンフレットを贈ったが、それには地球平面説の証明が記されていた。トランスヴァール共和国の大統領ポール・クリューガーも同じ考えを広めていた: 「You don't mean round the world, it is impossible! You mean in the world. Impossible!」 クリスチャン・カトリック使徒教会(英語版)の宗教都市であったイリノイ州ザイオン (イリノイ州)(英語版)を1906年から支配したウィルバー・グレン・ボリヴァ(英語版)は、1915年から地球平面説を説教で主張し始め、ウィスコンシン州のウィネベーゴ湖の12マイルの長さの湖岸線を水位より3フィート上から撮った写真を用いて地球平面説を証明した。1928年に飛行船イタリアが北極旅行中に遭難した際、彼は世界中の新聞に飛行船が世界の端を越えてしまうと警告した。また、5000ドルの懸賞をかけて彼の課した独自の条件のもとで地球が平面でないことの証明を募集した。ザイオンでは地球球体説を教えることが禁じられ、WCBDテレビで地球平面説が流布された。1942年、ボリヴァは死ぬ直前に教会で行った数々の不正を告白し、教会は崩壊に追い込まれた。 大本の出口王仁三郎は終生、天動説と地球平坦説を信じ、地球が丸いなどという学者は阿呆だと唱えていた。愛善苑はこの存在観を受け継いでいる。 ナイジェリアのサラフィー・ジハード主義組織ボコ・ハラムの創設者モハメド・ユスフは地球は平たいという自身の信念を表明している。
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「論者」の例文・使い方・用例・文例
- 討論者は相手方の議論にやり込められてしまった
- 2人の討論者の見解の大きな隔たり
- キリスト再臨論者の集会
- 彼の振る舞いは物活論者らしくない。
- その修正論者がそのような行動をとるのは道理に適っている。
- 将軍は主導的な連邦脱退論者だった。
- 分離論者たちは新党を結成した。
- その哲学者は唯心論者とみなされている。
- 彼はねちっこい口論者だ。
- 民主党員のほうが共和党員よりも保護貿易論者が多い傾向がある。
- 急進的な婦人参政権拡張論者のグループ
- その決定論者は、人間は自由意志を有していないと主張した。
- 彼は汎神論者だと非難された。
- 両親は有神論者だが、私は神の存在を信じない。
- 伝統的な有神論者の中には理神論者を無神論者とみなす者もいる。
- その島の原住民はもともとは多神論者だった。
- すべての観念論者が唯心論者ではない。
- 中世の唯名論者と実在論者
- 無神論者が司教の説明をあざけった。
- 彼は自分が無神論者だと告白した。
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