元気です
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元気です
元気です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 17:10 UTC 版)
『元気です。』 | ||||
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よしだたくろう の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
CBS・ソニーレコード 第1スタジオ | |||
ジャンル | フォークソング | |||
レーベル | Odyssey/CBS Sony | |||
プロデュース | 吉田拓郎 | |||
チャート最高順位 | ||||
よしだたくろう アルバム 年表 | ||||
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『元気です。』収録のシングル | ||||
『元気です。』(げんきです。)は、1972年7月21日に吉田拓郎(当時はよしだたくろう)がリリースしたオリジナル・アルバムである[2][3]。吉田拓郎のアルバムとしては最高のセールスを記録している。
解説
あさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された1972年、学生運動が退潮し、次の時代への期待と不安が入り混じったこの年、吉田拓郎の最高傑作『元気です。』は生み出された[2]。アルバムリリースは第1次田中角栄内閣発足から二週間後のことだった[2]。
それまでフォークを取り上げなかった一般紙までも「フォークの吉田の初アルバム」と書きたてた[4]。拓郎がエレックレコードのようなマイナーレーベル時代に出したアルバムは、そういう世界ではまだ"ないもの"に等しかった[4]。
拓郎は、この年6月の四角佳子との結婚式でマスメディアからの取材を拒否し、さらにテレビ出演を拒否をし続けた時期で[5]、セールス・プロモーションは、ほとんど行われなかったが[5][6][7]、リリース直後から話題をさらい、1ヵ月で40万枚を売り上げ、アルバムを手にした若者たちは、この年の夏、取り憑かれたように聞き、没入した[2]。
シングルとは別ヴァージョンの「旅の宿」を収録。ヒットしたシングル曲を別アレンジヴァージョンでアルバムに入れるのは当時は異例だった[8]。
セールス
オリコン・シングルチャートで1位を獲得した「旅の宿」、モップスに作品提供した「たどりついたらいつも雨ふり」が収録されている。オリコン・アルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を獲得するなど、1972年の年間第2位及び1973年の年間第4位に輝いた。1986年にCD化された。1990年のCD選書のほか、2006年にも再リリースされている。
当時は歌手がテレビにバンバン出て、シングルを売って成り立つ音楽業界[5]。アルバムは売れない時代に[注釈 1]、テレビを出演拒否しながらも僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[5][9]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[5][10]。
同年7月1日に発売したシングル「旅の宿」が8月7日付けでオリコンチャート1位を獲得[11]。この週から5週間1位を続けるが、二週目の8月14日付けで『元気です。』がオリコンアルバムチャートで1位を獲得し[12]、以降連続14週(通算15週)トップを独走したため[13]、1972年の8月14日~9月4日まで、拓郎作品がシングル・アルバムの両チャート1位を独占する偉業であった[12]。
評価
- 元ザ・フォーク・クルセダーズの北山修(きたやま おさむ)は「拓郎とは同い年ですが、音楽界の中では〝次の世代〟というイメージが強い(中略)。音楽界は〝変化"のときを迎えつつありました。フォークルの『帰って来たヨッパライ』のような〝手作り〟の良さを持ったものから、計画的に物事を進めないといけないショー・ビジネスへの転換。フォークソング→ニューミュージック、複数の個性が集団の中で切磋琢磨し合う〝グループ〟→シンガー・ソングライターの〝個人〟の時代への変化などです。拓郎や井上陽水らの登場によって、『時代』は明らかに変わってゆくのです。拓郎のアルバム『元気です。』を聴いたとき、『あぁ時代は変わったんだな』と感じましたね」などと述べている[14]。
- みうらじゅんは「『元気です。』はたぶん僕の人生の中で一番よく聴いたアルバムです。前作の『人間なんて』は宝箱みたいなぐちゃぐちゃ感があったけど、このアルバムは一曲でも曲順違ったら『元気です。』にならないでしょ。プログレの組曲みたいな構成ですから(笑)。一曲目の『春だったね』から『せんこう花火』に続くところなんて俳句の世界でしょ。今はCDだから切れないけど、『たどり着いたらいつも雨降り』までのA面でガツンとポップスやって、B面一曲目の『高円寺』でまたブルージーなフォーク調にもどる。これがまた印象的です。この『高円寺』を聴いて僕の上京は決まったようなものです。この曲聴いたから東京出てきて高円寺に住んで、今も中央線沿線に至るわけです。これが『霞が関』って曲だったら霞が関に住んでいたかもしれない(笑)。でも、高円寺なんですよね。吉祥寺でも下北沢でもない。今はある意味オシャレな街になってますが、この曲以前は高円寺には何もなかったのですから。ジャケット写真もいいですよね。この世界観も一人で放浪しているフォークシンガーなんですね。ここによしだたくろうという人のイメージが確立されたのだと思います。『僕はやっぱり元気なのです』って手書きライナーノーツのような手紙、これがまた、いいんですよ。これはたくろうさんの字なのでしょうか。この時代のたくろうさんの書体に影響され、これがフォントになって、今でも僕の字体になってしまった。この手紙、まるで歌詞のように書かれています。それがわざわざ緑色の紙に印刷されてレコードのインナーに挟まれるというやり口はそれまでになかった。これってとても個人的な内容ですからね。それまではライナーノーツって評論家の人が曲についてのデータを書くというものだったので、革命的で新鮮でした。これまでのフォークの要素をメジャーに行って全部それを歌謡曲に取り込む、というような作業がこのアルバムなのかもしれないですね」等と論じている[15]。
- 江口寿史も同様にジャケット写真と手書きライナーノーツを褒めており[16][17]、ライナーノーツに書かれた「うんざりなのです」「自分の言葉をもつのです」といった拓郎の主張に感動したという[16]。江口は、2010年刊行のレコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、本アルバムを私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と述べ、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と評している[18]。
- スージー鈴木も「音楽雑誌で『70年代アルバムTOP50』という特集があると、はっぴいえんど『風街ろまん』や、シュガー・ベイブ『SONGS』、細野晴臣『トロピカル・ダンディー』ばかりが上位を占める。サザンオールスターズ『熱い胸さわぎ』やキャロルは入ってなかったりする。ある意味では吉田拓郎『元気です。』が1位でもいいんじゃないかと思います」と評している[19]。
影響
- 当時高円寺に住まいを置いた拓郎のご当地ソング「高円寺」が拓郎のブレイクにより[3][15][20][21]、多くのフォークシンガーが高円寺に居を置いていたこともあって[22]、"フォークのシンボル"的な町として語られるようになった[3][15][20][23]。それまで高円寺は、その周辺に住む人は別として、都民にとっては何のイメージもない浮かばない街[3]。当然、地方民にとっては知名度0の街だった[3]。「高円寺」の歌詞は「君は何処に住んでいたのですか 高円寺じゃないよね」と否定されるにも関わらず[3]、タイトルとして強烈で、かつて拓郎が住んだこの街の住人になることが、拓郎ファンにとって上京する際の大きな目的となった[3]。
- 拓郎らが起こしたフォークブームで、東芝を皮切りにビクター、キング、コロムビア、ポリドールなど、メジャー系レコード会社のすべてがフォークを売り出し、フォークレコードが氾濫することとなった[24][25]。
- 柴門ふみの最初の連載『P.S. 元気です、俊平』のタイトルは、本レコードと一緒に収められた、拓郎が当時のフォークファンから「商業主義」などと叩かれていたことに対するアンサーが書かれた直筆ライナーノーツに触発されての命名という[26]。柴門は「毎号買っていた音楽雑誌『新譜ジャーナル』に紹介されていて初めて拓郎さんを知ったのですが、それまでのフォークといえば、岡林信康さんなど反戦歌や社会的なメッセージを含んだ歌が主流でしたから、拓郎さんは童顔も相まって、他のフォークシンガーとは違う存在感を放ってたんです。私はそこに惹きつけられました。『元気です。』で一番心に響いたのは『たどり着いたらいつも雨降り』です。アルバムの中では特にポップな曲調ですが、反対に歌詞がやけにやさぐれています。そのぶっきらぼうな歌いっぷりが高校生ながら心に響きました。年齢を重ねても、折に触れてあの歌を聞いていると、大人になるに連れ、サビ終わりの"それでもやっぱり考えてしまう~"のフレーズが沁みるようになってきました。仕事が思うようにいかず行き詰ってしまうとき、あのメロディが浮かびます。人生なんて思い通りにならないんだ。腐っていたって仕方ない。そう励まされる歌です」などと述べている[2]。
- 江口寿史は「『元気です。』との出会いがなければ、今の僕はありません。あのレコードは、僕の人生を決定づけてしまいました。『元気です。』を何度も何度も聞きました。吉田拓郎になりたくて、髪型も服装もすべてを真似しました。拓郎さんの歌はメロディも平易で、スッと耳に入ってくる。自分でもできる気がしたんです。それで小遣いを貯めて名もないギターを5500円で買いました。何百回、何千回と拓郎さんの歌をコピーしました。ところがいくら練習しても拓郎さんに近づけない。あの独特な節回しはどうしても再現できないんです。人は結局、自分以外の人間にはなれないんだ。そう気付いたんです。いくら真似したって、憧れの人にはなれない。それならば、僕でなければできないものを見つけて、その道を突き進もう。そう決めました。それが僕にとっての漫画だったんです」などと述べている[2][16][17]。
収録曲
- 全作曲:吉田拓郎
- 春だったね (3分08秒)
- 作詞:田口淑子
- せんこう花火 (2分08秒)
- 作詞:古屋信子
- 加川良の手紙 (3分53秒)
- 作詞:加川良
- レコーディングする曲が足りなかった拓郎から切羽詰まって「余った曲ないか?」と電話を受けた加川だったが、余っている曲はなかった。しかし加川には当時の外国の歌によくあった「手紙の文面にそのままメロディを付けて曲にするというアイデアをやってみたい」という構想があり、書き留めていたもの(加川良と「田中さん」とのやりとりの手紙[28])をレコーディングスタジオに持って行くと、拓郎がその場でメロディを付けてささっと仕上げたという[29]。『元気です。』が大ヒットしたため、作詞者としてクレジットされている加川に多額の印税が入ったと言われている。また曲のタイトルにも自身の名前が入ったため、人から「あんたがあの歌の人?」とよく言われたという[30]。
- 親切 (4分25秒)
- 作詞:吉田拓郎
- 夏休み (3分02秒)
- 作詞:吉田拓郎
- 前年に発売されたライブ・アルバム『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』に収録されている楽曲を、スタジオレコーディングされたバージョン。
- 馬 (1分13秒)
- 作詞:吉田拓郎
- たどり着いたらいつも雨降り (2分50秒)
- 作詞:吉田拓郎
- 高円寺 (1分27秒)
- 作詞:吉田拓郎
- こっちを向いてくれ (3分26秒)
- 作詞:岡本おさみ
- まにあうかもしれない (2分24秒)
- 作詞:岡本おさみ
- リンゴ (1分50秒)
- 作詞:岡本おさみ
- また会おう (3分08秒)
- 作詞:岡本おさみ
- 拓郎自身「これぞ絶品」と告白[31]、歌っていても自己陶酔するという[31]。エレキギターはミニバンドの田辺和博(田辺かずひろ)(よしだたくろう オン・ステージ ともだち参照)[31]。
- 旅の宿 (2分31秒)
- 作詞:岡本おさみ
- アコースティック・ギターとハーモニカのみのアルバムバージョン
- 祭りのあと (4分18秒)
- 作詞:岡本おさみ
- ガラスの言葉 (3分03秒)
- 作詞:及川恒平
- 交流のあった及川に拓郎自身が作詞を頼んだ[2]。渡された歌詞を見て拓郎は「恒平の詞はわからん」と言ったという[2][31]。元々及川の詞はよく分からないが、タクロウらしくないという点で、メロディはイカしていると考えた上での発注[31]。歌詞にはちゃんと"ミルキーウェイ"(天の川)と書いていたのに拓郎は"ミルクウェイ"と歌っている[2]。及川がそれを指摘したが拓郎は「いいんだよ、これで」と言ったため、それ以上の追及はしなかったという[2]。拓郎は歌詞の字面が正しいか否かより、もっと深いところにある音の響きを優先させた。結果、この歌はより自然に心の中に沁み込む曲に仕上がった。「ガラスの言葉」は、まさに吉田拓郎という音楽家の粋が凝縮された歌なのである[2]。
参加ミュージシャン
- ギター、E.ギター、オルガン、ピアノ、フラット・マンドリン、ドブロ、E.ベース:石川鷹彦
- ピアノ、オルガン、バンジョー、フラット・マンドリン:松任谷正隆
- ドラムス:林立夫
- E.ベース:後藤次利・小原礼・井口よしのり
- E.ベース、パーカッション、コーラス:内山修
- バンジョー、コーラス: 常富喜雄
- 12弦ギター、コーラス: 田口清
- E.ギター:田辺和博
- コーラス: 陣山俊一・前田仁
- ギター、ハーモニカ、E.ベース、パーカッション、ヴォーカル:吉田拓郎
備考
拓郎は1972年8月に受けた『guts』1972年10月号のインタビューで「『旅の重さ』の音楽担当を8月中に仕上げ、予定だが、テレビの仕事としてフジテレビ系の『ミュージックフェア』で30分フルにもらえるそうなのでやりがいがある、もう一つ、TBSのテレビドラマ『おはよう』に出演の話もあり、実現すれば憧れの若尾文子さんとラブシーンが演じられるかもしれない」と述べている[31]。詳細は不明。
関連作品
- よしだたくろう ベスト・セレクション
- 春の桜と優雅に語らう17の知恵 ‐ 春の曲を集めたコンピレーション・アルバム、「春だったね」収録。
- 夏歌2 - 夏がテーマの曲を集めたコンピレーション・アルバム、「夏休み」収録。
- 秋歌 - 秋がテーマの曲を集めたコンピレーション・アルバム、「祭りのあと」収録。
- FOLK SONGS 2 - アルバムの中でメロン記念日が「夏休み」をカバーしている。
脚注
注釈
- ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。
出典
- ^ 「オリコンチャートブック〈LP編(昭和45年‐平成1年)〉」ORICON BOOKS、1990年5月1日、309ページ。
- ^ a b c d e f g h i j k 「夏休みスペシャル 日本人の心を掴んだ人たち(Ⅲ) 1972年、若者の青春が変わった。『春だったね』から『夏休み』『旅の宿』まで 吉田拓郎「最高の名盤 『元気です。』を取り憑かれたように聞いた夏」『週刊現代』2020年8月8、15日号、講談社、172–175頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 金澤信幸「杉並区高円寺 高円寺2つの伝説。吉田拓郎「高円寺」とロック喫茶「ムーヴィン」 1972年7月21日『元気です。』発売」『フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985』講談社、2018年、99–107頁。ISBN 978-4-06-220700-3。
- ^ a b 関西フォーク70'sあたり、中村よお、幻堂出版、p68
- ^ a b c d e やっぱり吉田拓郎は凄すぎる - みのミュージック
- ^ 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲
- ^ 吉田拓郎「元気です」p2 - ダイヤモンド・オンライン
- ^ アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39)
- ^ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
- ^ ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p134
ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36、37
guts、表現技術出版、1973年1月、p31
「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days - ^ 1972年8月7日、吉田拓郎の「旅の宿」がオリコン・チャート1位を獲得
- ^ a b 「ミュージックヴァラエティ ポピュラー歌謡曲 EPベストセラーズ20」『週刊平凡』1972年8月24日号、平凡出版、77頁。
- ^ 吉田拓郎 | OTONANO powered by Sony Music Direct (Japan) Inc.
- ^ 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。“話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<11> 「変化」を実感した拓郎の登場”. 産経ニュース (2023年10月12日). 2023年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
- ^ a b c 不定期連載 僕の髪が肩まで伸びて よしだたくろう! 第6回 『元気です。』その1(序章)
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- ^ a b “「ジャケットイラストは音楽への恩返し」江口寿史の最新イラスト集”. MEN'S NON-NO WEB. 集英社 (2020年6月4日). 2025年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月3日閲覧。
- ^ 『レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989』ミュージック・マガジン、2010年、41頁 。
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- ^ a b 泉麻人「あのころの熱をもう一度 フォークの季節 歌われた東京の町 空飛ぶ中央線と葛飾のバッタ」『東京人』都市出版、2011年9月号、58-63頁。
- ^ “「高円寺」駅前で酒を飲み、音楽を演奏する人々…「唯一無二」の自由な雰囲気はどのように形成されていったのか”. 現代ビジネス. 講談社 (2025年3月15日). 2025年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月3日閲覧。
- ^ 「新・家の履歴書 南こうせつ」『週刊文春』2010年4月8日号、pp.94-97
- ^ 第155話 フォークソング - 「フォークソングと言えば《寺》です」 - ピートのふしぎなガレージ
- ^ 矢沢保 1980, p. 38.
- ^ ポピュラー音楽は誰が作るのか、生明俊雄、勁草書房、p160
- ^ 越智俊至・飯田樹与・中山敬三 (2020年10月4日). “<考える広場>吉田拓郎が拓いた地平”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). オリジナルの2020年10月4日時点におけるアーカイブ。 2022年10月27日閲覧。
- ^ “グルーヴァーズ / 春だったね'97”. CDジャーナル. 2019年7月13日閲覧。
- ^ 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」内での吉田拓郎の発言より
- ^ 加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション
- ^ 吉田拓郎読本、CDジャーナルムック、音楽出版社、p44-46
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「SONG BOOK of NEW TAKURO 吉田拓郎新曲ソング・ブック ごく簡単な解説(たくろう)」『guts』1972年10月号、集英社、27–29頁。
- ^ 桑原聡 (2022年9月3日). “モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら (135) 拓郎よ、フォーエバー”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). オリジナルの2022年9月3日時点におけるアーカイブ。 2022年9月5日閲覧。
関連項目
元気です
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/10 06:43 UTC 版)
「元気です」 | ||||
---|---|---|---|---|
吉田拓郎 の シングル | ||||
初出アルバム『アジアの片隅で』 | ||||
B面 | 証明 | |||
リリース | ||||
規格 |
シングル・レコード / 7K-4 8cmCD (再発盤) | |||
ジャンル | ニューミュージック | |||
時間 | ||||
レーベル | FORLIFE | |||
作詞・作曲 | 吉田拓郎 | |||
チャート最高順位 | ||||
吉田拓郎 シングル 年表 | ||||
| ||||
「元気です」(げんきです)は、吉田拓郎が1980年11月5日にリリースした20枚目のシングル。発売元はフォーライフ・レコード(現・フォーライフミュージックエンタテイメント)。
概要
宮崎美子が主演したTBS系ポーラテレビ小説『元気です!』の主題歌[2][3]。
歌詞は4番まであり、それぞれ「春」「夏」「秋」「冬」のストーリーで構成されている[3][5][6]。広島カープ元監督・達川光男も思い出の一曲として挙げている[6]。
カップリング曲の「証明」は、1980年7月27日に行った日本武道館公演のライブ音源を収録されたもの。長い間アルバム未収録だったが、2011年に発売されたベスト・アルバム『ONLY YOU 〜since coming For Life〜 + Single Collection』にはじめて収録された。
収録曲
- 全作詞・作曲:吉田拓郎
Side:A
Side:B
- 証明(3分48秒)
収録ディスク
アルバム
- 元気です
- 『アジアの片隅で』(1980年)
- 『ONLY YOU 〜since coming For Life〜』(1981年)
- 『吉田拓郎ベスト60』(1985年)
- 『LIFE』(1995年)
- 『吉田拓郎 THE BEST PENNY LANE』(1999年)
- 『ONLY YOU 〜since coming For Life〜 + Single Collection』(2011年)
- 『From T』(2018年)
- 証明
- 『ONLY YOU 〜since coming For Life〜 + Single Collection』(2011年)
カバー
- 証明
脚注
- ^ 『オリコン・シングル・チャートブック(完全版):1968 - 2010』オリコン・エンタテインメント、2012年2月、367頁。ISBN 978-4-87131-088-8。
- ^ “元気です!”. テレビドラマデータベース. 2018年6月23日閲覧。
- ^ a b “吉田拓郎の歌詞が好き”. ザ・カセットテープ・ミュージック. BS12 トゥエルビ (2018年10月7日). 2019年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月27日閲覧。
- ^ 吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.
- ^ 吉川毅 (2019年5月9日). “「大弦小弦」『はい、元気です』。小学生の頃、朝礼の出欠確認で…”. 沖縄タイムス+プラス. 沖縄タイムス社. 2019年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月27日閲覧。
- ^ a b “吉田拓郎の引退に元広島カープ・達川光男氏「彼こそが広島の誇り」”. NEWSポストセブン. 小学館 (2022年7月21日). 2022年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月26日閲覧。
元気です!
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 14:55 UTC 版)
元気です! | |
---|---|
ジャンル | テレビドラマ |
脚本 | 畑嶺明 |
演出 |
近藤邦勝 田沢正稔 東条毅 八木康夫 |
出演者 |
宮崎美子 石田純一 伴淳三郎 伊藤敏八 |
音楽 | すぎやまこういち |
オープニング | 吉田拓郎『元気です』 |
時代設定 | 1874年 - |
製作 | |
プロデューサー | 山泉脩 |
制作 | TBS |
放送 | |
放送国・地域 | ![]() |
放送期間 | 1980年10月6日 - 1981年4月3日 |
放送時間 | 月曜 - 金曜12:40 - 13:00 |
放送枠 | ポーラテレビ小説 |
回数 | 130回 |
『元気です!』(げんきです)は、1980年10月6日から1981年4月3日まで、TBSの『ポーラテレビ小説』枠にて放送されたテレビドラマ[1]。
あらすじ
明治7年、廃藩置県や征韓論を背景に土佐の不平士族が岩倉具視を襲撃した。暗殺に失敗した一味は逃走し負傷者を医者の家に運んだ。精庵医師に手当を強要し夫婦共々、殺害する。この家の息子、信吾は反撃し一味の一人を射殺した。信吾と妹あやは逃亡を決意する。この家の使用人で聾唖の海之助の故郷、土佐に向かう一行。土佐に着くや信吾は官憲に捕らえられる。失意のあやであったが漁師の中森茂造はあやを励ますのだった。
茂造には良作という息子がいて、たまに村に戻ってくるが彼には秘密がありそうだった。茂造の鰹節作りを手伝うあや、良作はそんなあやを愛するようになり、二人はやがて結ばれる。良作は仕事に精を出すが彼は政治運動に加担しているらしかった。茂造は病に倒れ帰らぬ人になる。
平穏な暮らしもつかの間、警察の追及は良作のもとに伸びてくる。あやたちは山奥の紙漉きの小屋に逃れる。仕事のかたわら子供たちに読み書きを教え始める。だが良作は東京から追ってきた刑事に見つかってしまい山中に逃れるが絶命する。一人になったあやは尼寺の蓮照を頼り色々と相談するが、その人こそあやの実の母親だった。
出演
- 井沢あや - 宮崎美子
- 井沢信吾 - 石田純一
- 井沢精庵 - 仲谷昇
- 井沢杉 - 柳川慶子
- 大村海之助 - 伊藤敏八
- 中森茂造 - 伴淳三郎
- 中森良作 - 小倉一郎
- 中森千恵 - 吉田忍
- 中森源太 - 三輪禎夫
- 中森苗 - 柿崎澄子
- 長浜十郎 - 山谷初男
- 長浜ハナ - 五十嵐めぐみ
- 長浜梅 - 星清子
- 長浜嘉平 - 塩屋智章
- 島田寅次郎 - 小野武彦
- キク - 原知佐子
- 水上蓮照 - 河内桃子
- 伊野山仙 - 今井和子
- 伊野山勘三 - 垂水悟郎
- 伊野山くみ - 原日出子
- とめ - 菅井きん
- 寺本善治 - 草野大悟
- いくの - 亀井光代
- 弥一 - 熊谷誠二
- 精造 - 青柳武志
- 大河内長吉 - 織本順吉
スタッフ
その他
- 宮崎美子は1980年1月、熊本大学在学中に「週刊朝日」の表紙(篠山紀信撮影)に登場。次に篠山からCM出演依頼があり春休み期間中にサイパンで撮影を行った。それがミノルタのCMであり大反響となった。プロのモデルとは違った素朴な雰囲気やぽっちゃり体形が新鮮なインパクトを与えた。斉藤哲夫のCM曲は宮崎のジャケ写を使い、ミノルタの「X-7」はベストセラーとなった。新人女優を起用するのが恒例となっていたポーラテレビ小説は宮崎に注目、彼女を口説き落とすためディレクターが熊本に何度も足を運んだ[注 1]。一連の交渉はミノルタに話を通さず行われたため、あとになってミノルタからクレームがついたという。宮崎のドラマデビューは大きな注目を集めマスコミ取材200社、スポーツ紙にも取り上げられるなど異例づくめであった。ドラマと連動する形で写真集(富士見書房)が発売された。
- 音楽はすぎやまこういちが担当。NHK交響楽団から徳永二男、堀正文を迎えクラシカルな弦楽曲で統一した。ドラマ音楽としては異例なレコード発売となった。主題歌は吉田拓郎がドラマのために新曲を書き下ろした。
- 主演を宮﨑と争う形となったものの結果として敗れ、宮崎のライバル的な役柄で出演した原日出子は、翌1981年に連続テレビ小説「本日も晴天なり」の主演に抜擢されブレイクする。
参照文献
- 「週刊TVガイド」(1980年、東京ニュース通信社)
- 「テレビジョンドラマ」(1983年創刊号、放送映画出版)
脚注
注釈
- ^ 「テレビジョンドラマ」1983年、村上瑛二郎インタビューより。
出典
- ^ “元気です!”. テレビドラマデータベース. 2022年2月27日閲覧。
TBS系列 ポーラテレビ小説 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
マリーの桜
|
元気です!
|
発車オーライ
|
「元気です。」の例文・使い方・用例・文例
- 私は今すっかり元気です。
- 彼女は長いフライトで少し疲れたようですが、元気です。
- さっきまでは泣いてたけど、今は元気です。
- 毎日元気です。
- 花子は今日も元気です。
- みんなとても元気です。
- 仕事が多忙ですが、元気です。
- 花子は疲れた様子もなく、元気です。
- おかげさまで私は元気です。
- 一週間の中で土曜日が一番元気です。
- 土曜が一番元気です。
- 彼は私より健康で元気です。
- 私はとても元気です。
- 私の息子はとても元気です。
- 私の母は元気です。
- 私はすこぶる元気です。
- 私は休日はいつも元気です。
- その猫は昔は元気がありませんでしたが、今はとても元気です。
- 私は今日も元気です。
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