元気です。とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 趣味 > 短編小説作品名 > 元気です。の意味・解説 

元気です

作者中島みゆき

収載図書泣かないで・女歌
出版社新潮社
刊行年月1988.5

収載図書泣かないで・女歌
出版社新潮社
刊行年月1990.12
シリーズ名新潮文庫


元気です

作者佐藤正午

収載図書人参倶楽部
出版社集英社
刊行年月1991.4

収載図書人参倶楽部
出版社集英社
刊行年月1997.1
シリーズ名集英社文庫


元気です

作者増井

収載図書水仙の花
出版社文芸社
刊行年月1999.5


元気です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 17:10 UTC 版)

『元気です。』
よしだたくろうスタジオ・アルバム
リリース
録音 CBS・ソニーレコード
第1スタジオ
ジャンル フォークソング
レーベル Odyssey/CBS Sony
プロデュース 吉田拓郎
チャート最高順位
  • 週間1位オリコン[1]
  • 登場回数81回(オリコン)
  • 売上46.9万枚(オリコン)
  • 1972年度年間2位(オリコン)
  • 1973年度年間4位(オリコン)
よしだたくろう アルバム 年表
人間なんて
(1971年)
元気です。
(1972年)
たくろう オン・ステージ第二集
(1972年)
『元気です。』収録のシングル
テンプレートを表示

元気です。』(げんきです。)は、1972年7月21日に吉田拓郎(当時はよしだたくろう)がリリースしたオリジナル・アルバムである[2][3]。吉田拓郎のアルバムとしては最高のセールスを記録している。

解説

あさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された1972年、学生運動が退潮し、次の時代への期待と不安が入り混じったこの年、吉田拓郎の最高傑作『元気です。』は生み出された[2]。アルバムリリースは第1次田中角栄内閣発足から二週間後のことだった[2]

それまでフォークを取り上げなかった一般紙までも「フォークの吉田の初アルバム」と書きたてた[4]。拓郎がエレックレコードのようなマイナーレーベル時代に出したアルバムは、そういう世界ではまだ"ないもの"に等しかった[4]

拓郎は、この年6月の四角佳子との結婚式マスメディアからの取材を拒否し、さらにテレビ出演を拒否をし続けた時期で[5]セールス・プロモーションは、ほとんど行われなかったが[5][6][7]、リリース直後から話題をさらい、1ヵ月で40万枚を売り上げ、アルバムを手にした若者たちは、この年の夏、取り憑かれたように聞き、没入した[2]

シングルとは別ヴァージョンの「旅の宿」を収録。ヒットしたシングル曲を別アレンジヴァージョンでアルバムに入れるのは当時は異例だった[8]

セールス

オリコン・シングルチャートで1位を獲得した「旅の宿」、モップスに作品提供した「たどりついたらいつも雨ふり」が収録されている。オリコン・アルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を獲得するなど、1972年の年間第2位及び1973年の年間第4位に輝いた。1986年にCD化された。1990年のCD選書のほか、2006年にも再リリースされている。

当時は歌手がテレビにバンバン出て、シングルを売って成り立つ音楽業界[5]。アルバムは売れない時代に[注釈 1]、テレビを出演拒否しながらも僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[5][9]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[5][10]

同年7月1日に発売したシングル「旅の宿」が8月7日付けでオリコンチャート1位を獲得[11]。この週から5週間1位を続けるが、二週目の8月14日付けで『元気です。』がオリコンアルバムチャートで1位を獲得し[12]、以降連続14週(通算15週)トップを独走したため[13]、1972年の8月14日~9月4日まで、拓郎作品がシングル・アルバムの両チャート1位を独占する偉業であった[12]

評価

  • みうらじゅんは「『元気です。』はたぶん僕の人生の中で一番よく聴いたアルバムです。前作の『人間なんて』は宝箱みたいなぐちゃぐちゃ感があったけど、このアルバムは一曲でも曲順違ったら『元気です。』にならないでしょ。プログレの組曲みたいな構成ですから(笑)。一曲目の『春だったね』から『せんこう花火』に続くところなんて俳句の世界でしょ。今はCDだから切れないけど、『たどり着いたらいつも雨降り』までのA面でガツンとポップスやって、B面一曲目の『高円寺』でまたブルージーフォーク調にもどる。これがまた印象的です。この『高円寺』を聴いて僕の上京は決まったようなものです。この曲聴いたから東京出てきて高円寺に住んで、今も中央線沿線に至るわけです。これが『霞が関』って曲だったら霞が関に住んでいたかもしれない(笑)。でも、高円寺なんですよね。吉祥寺でも下北沢でもない。今はある意味オシャレな街になってますが、この曲以前は高円寺には何もなかったのですから。ジャケット写真もいいですよね。この世界観も一人で放浪しているフォークシンガーなんですね。ここによしだたくろうという人のイメージが確立されたのだと思います。『僕はやっぱり元気なのです』って手書きライナーノーツのような手紙、これがまた、いいんですよ。これはたくろうさんの字なのでしょうか。この時代のたくろうさんの書体に影響され、これがフォントになって、今でも僕の字体になってしまった。この手紙、まるで歌詞のように書かれています。それがわざわざ緑色の紙に印刷されてレコードのインナーに挟まれるというやり口はそれまでになかった。これってとても個人的な内容ですからね。それまではライナーノーツって評論家の人が曲についてのデータを書くというものだったので、革命的で新鮮でした。これまでのフォークの要素をメジャーに行って全部それを歌謡曲に取り込む、というような作業がこのアルバムなのかもしれないですね」等と論じている[15]
  • 江口寿史も同様にジャケット写真と手書きライナーノーツを褒めており[16][17]、ライナーノーツに書かれた「うんざりなのです」「自分の言葉をもつのです」といった拓郎の主張に感動したという[16]。江口は、2010年刊行のレコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、本アルバムを私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と述べ、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と評している[18]

影響

  • 当時高円寺に住まいを置いた拓郎のご当地ソング「高円寺」が拓郎のブレイクにより[3][15][20][21]、多くのフォークシンガーが高円寺に居を置いていたこともあって[22]、"フォークのシンボル"的な町として語られるようになった[3][15][20][23]。それまで高円寺は、その周辺に住む人は別として、都民にとっては何のイメージもない浮かばない街[3]。当然、地方民にとっては知名度0の街だった[3]。「高円寺」の歌詞は「君は何処に住んでいたのですか 高円寺じゃないよね」と否定されるにも関わらず[3]、タイトルとして強烈で、かつて拓郎が住んだこの街の住人になることが、拓郎ファンにとって上京する際の大きな目的となった[3]
  • 拓郎らが起こしたフォークブームで、東芝を皮切りにビクターキングコロムビアポリドールなど、メジャー系レコード会社のすべてがフォークを売り出し、フォークレコードが氾濫することとなった[24][25]
  • 柴門ふみの最初の連載『P.S. 元気です、俊平』のタイトルは、本レコードと一緒に収められた、拓郎が当時のフォークファンから「商業主義」などと叩かれていたことに対するアンサーが書かれた直筆ライナーノーツに触発されての命名という[26]。柴門は「毎号買っていた音楽雑誌『新譜ジャーナル』に紹介されていて初めて拓郎さんを知ったのですが、それまでのフォークといえば、岡林信康さんなど反戦歌や社会的なメッセージを含んだ歌が主流でしたから、拓郎さんは童顔も相まって、他のフォークシンガーとは違う存在感を放ってたんです。私はそこに惹きつけられました。『元気です。』で一番心に響いたのは『たどり着いたらいつも雨降り』です。アルバムの中では特にポップな曲調ですが、反対に歌詞がやけにやさぐれています。そのぶっきらぼうな歌いっぷりが高校生ながら心に響きました。年齢を重ねても、折に触れてあの歌を聞いていると、大人になるに連れ、サビ終わりの"それでもやっぱり考えてしまう~"のフレーズが沁みるようになってきました。仕事が思うようにいかず行き詰ってしまうとき、あのメロディが浮かびます。人生なんて思い通りにならないんだ。腐っていたって仕方ない。そう励まされる歌です」などと述べている[2]
  • 江口寿史は「『元気です。』との出会いがなければ、今の僕はありません。あのレコードは、僕の人生を決定づけてしまいました。『元気です。』を何度も何度も聞きました。吉田拓郎になりたくて、髪型も服装もすべてを真似しました。拓郎さんの歌はメロディも平易で、スッと耳に入ってくる。自分でもできる気がしたんです。それで小遣いを貯めて名もないギターを5500円で買いました。何百回、何千回と拓郎さんの歌をコピーしました。ところがいくら練習しても拓郎さんに近づけない。あの独特な節回しはどうしても再現できないんです。人は結局、自分以外の人間にはなれないんだ。そう気付いたんです。いくら真似したって、憧れの人にはなれない。それならば、僕でなければできないものを見つけて、その道を突き進もう。そう決めました。それが僕にとっての漫画だったんです」などと述べている[2][16][17]

収録曲

  1. 春だったね (3分08秒)
    作詞:田口淑子
  2. せんこう花火 (2分08秒)
    作詞:古屋信子
  3. 加川良の手紙 (3分53秒)
    作詞:加川良
    • レコーディングする曲が足りなかった拓郎から切羽詰まって「余った曲ないか?」と電話を受けた加川だったが、余っている曲はなかった。しかし加川には当時の外国の歌によくあった「手紙の文面にそのままメロディを付けて曲にするというアイデアをやってみたい」という構想があり、書き留めていたもの(加川良と「田中さん」とのやりとりの手紙[28])をレコーディングスタジオに持って行くと、拓郎がその場でメロディを付けてささっと仕上げたという[29]。『元気です。』が大ヒットしたため、作詞者としてクレジットされている加川に多額の印税が入ったと言われている。また曲のタイトルにも自身の名前が入ったため、人から「あんたがあの歌の人?」とよく言われたという[30]
  4. 親切 (4分25秒)
    作詞:吉田拓郎
  5. 夏休み (3分02秒)
    作詞:吉田拓郎
  6. (1分13秒)
    作詞:吉田拓郎
  7. たどり着いたらいつも雨降り (2分50秒)
    作詞:吉田拓郎
  8. 高円寺 (1分27秒)
    作詞:吉田拓郎
  9. こっちを向いてくれ (3分26秒)
    作詞:岡本おさみ
    • 作詞の岡本とはお互いの詩の接点を見出させたら曲にするという取り決めがあった[31]。本曲のテーマは男のエゴ[31]。結婚を決意した当時の拓郎の心境を岡本と詩をすり合わせた[31]
  10. まにあうかもしれない (2分24秒)
    作詞:岡本おさみ
  11. リンゴ (1分50秒)
    作詞:岡本おさみ
    • コンサートでは前から歌っていた収録曲では一番前に制作していた楽曲[31]。アルバム収録バージョン石川鷹彦のギターテクニックの披露会というべき趣き[31]
  12. また会おう (3分08秒)
    作詞:岡本おさみ
  13. 旅の宿 (2分31秒)
    作詞:岡本おさみ
  14. 祭りのあと (4分18秒)
    作詞:岡本おさみ
  15. ガラスの言葉 (3分03秒)
    作詞:及川恒平
    • 交流のあった及川に拓郎自身が作詞を頼んだ[2]。渡された歌詞を見て拓郎は「恒平の詞はわからん」と言ったという[2][31]。元々及川の詞はよく分からないが、タクロウらしくないという点で、メロディはイカしていると考えた上での発注[31]。歌詞にはちゃんと"ミルキーウェイ"(天の川)と書いていたのに拓郎は"ミルクウェイ"と歌っている[2]。及川がそれを指摘したが拓郎は「いいんだよ、これで」と言ったため、それ以上の追及はしなかったという[2]。拓郎は歌詞の字面が正しいか否かより、もっと深いところにある音の響きを優先させた。結果、この歌はより自然に心の中に沁み込む曲に仕上がった。「ガラスの言葉」は、まさに吉田拓郎という音楽家の粋が凝縮された歌なのである[2]

参加ミュージシャン

  • ギター、E.ギター、オルガン、ピアノ、フラット・マンドリン、ドブロ、E.ベース:石川鷹彦
  • ピアノ、オルガン、バンジョー、フラット・マンドリン:松任谷正隆
  • ドラムス:林立夫
  • E.ベース:後藤次利小原礼・井口よしのり
  • E.ベース、パーカッション、コーラス:内山修
  • バンジョー、コーラス: 常富喜雄
  • 12弦ギター、コーラス: 田口清
  • E.ギター:田辺和博
  • コーラス: 陣山俊一・前田仁
  • ギター、ハーモニカ、E.ベース、パーカッション、ヴォーカル:吉田拓郎

備考

拓郎は1972年8月に受けた『guts』1972年10月号のインタビューで「『旅の重さ』の音楽担当を8月中に仕上げ、予定だが、テレビの仕事としてフジテレビの『ミュージックフェア』で30分フルにもらえるそうなのでやりがいがある、もう一つ、TBSテレビドラマおはよう』に出演の話もあり、実現すれば憧れの若尾文子さんとラブシーンが演じられるかもしれない」と述べている[31]。詳細は不明。

関連作品

脚注

注釈

  1. ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。

出典

  1. ^ 「オリコンチャートブック〈LP編(昭和45年‐平成1年)〉」ORICON BOOKS、1990年5月1日、309ページ。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 「夏休みスペシャル 日本人の心を掴んだ人たち(Ⅲ) 1972年、若者の青春が変わった。『春だったね』から『夏休み』『旅の宿』まで 吉田拓郎「最高の名盤 『元気です。』を取り憑かれたように聞いた夏」『週刊現代』2020年8月8、15日号、講談社、172–175頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 金澤信幸「杉並区高円寺 高円寺2つの伝説。吉田拓郎「高円寺」とロック喫茶「ムーヴィン」 1972年7月21日『元気です。』発売」『フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985』講談社、2018年、99–107頁。ISBN 978-4-06-220700-3 
  4. ^ a b 関西フォーク70'sあたり、中村よお、幻堂出版、p68
  5. ^ a b c d e やっぱり吉田拓郎は凄すぎる - みのミュージック
  6. ^ 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲
  7. ^ 吉田拓郎「元気です」p2 - ダイヤモンド・オンライン
  8. ^ アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39)
  9. ^ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
  10. ^ ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p134
    ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
    アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36、37
    guts、表現技術出版、1973年1月、p31
    「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
    ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days
  11. ^ 1972年8月7日、吉田拓郎の「旅の宿」がオリコン・チャート1位を獲得
  12. ^ a b 「ミュージックヴァラエティ ポピュラー歌謡曲 EPベストセラーズ20」『週刊平凡』1972年8月24日号、平凡出版、77頁。 
  13. ^ 吉田拓郎 | OTONANO powered by Sony Music Direct (Japan) Inc.
  14. ^ 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<11> 「変化」を実感した拓郎の登場”. 産経ニュース (2023年10月12日). 2023年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
  15. ^ a b c 不定期連載 僕の髪が肩まで伸びて よしだたくろう! 第6回 『元気です。』その1(序章)
  16. ^ a b c “漫画家 江口寿史(2) ギターと吉田拓郎のレコード”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2019年4月9日). オリジナルの2025年3月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20250324000310/https://www.nikkei.com/article/DGKKZO43508740Z00C19A4BE0P00/ 2023年6月8日閲覧。 
  17. ^ a b 「ジャケットイラストは音楽への恩返し」江口寿史の最新イラスト集”. MEN'S NON-NO WEB. 集英社 (2020年6月4日). 2025年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月3日閲覧。
  18. ^ レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989』ミュージック・マガジン、2010年、41頁http://www.musicmagazine.jp/published/rcex-201011nb.html 
  19. ^ 永堀アツオ (2024年6月1日). “80年代はシティポップだけじゃない! 音楽評論家・田家秀樹&スージー鈴木が迷わず選ぶ「殿堂入りすべきアーティスト」”. 週プレNEWS. 集英社. 2024年6月22日閲覧。
  20. ^ a b 泉麻人「あのころの熱をもう一度 フォークの季節 歌われた東京の町 空飛ぶ中央線と葛飾のバッタ」『東京人都市出版、2011年9月号、58-63頁。 
  21. ^ 「高円寺」駅前で酒を飲み、音楽を演奏する人々…「唯一無二」の自由な雰囲気はどのように形成されていったのか”. 現代ビジネス. 講談社 (2025年3月15日). 2025年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月3日閲覧。
  22. ^ 「新・家の履歴書 南こうせつ」『週刊文春』2010年4月8日号、pp.94-97
  23. ^ 第155話 フォークソング - 「フォークソングと言えば《寺》です」 - ピートのふしぎなガレージ
  24. ^ 矢沢保 1980, p. 38.
  25. ^ ポピュラー音楽は誰が作るのか、生明俊雄勁草書房、p160
  26. ^ 越智俊至・飯田樹与・中山敬三 (2020年10月4日). “<考える広場>吉田拓郎が拓いた地平”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). オリジナルの2020年10月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221004034506/https://www.tokyo-np.co.jp/article/206251 2022年10月27日閲覧。 
  27. ^ グルーヴァーズ / 春だったね'97”. CDジャーナル. 2019年7月13日閲覧。
  28. ^ 「坂崎幸之助・吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」内での吉田拓郎の発言より
  29. ^ 加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション
  30. ^ 吉田拓郎読本、CDジャーナルムック、音楽出版社、p44-46
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m SONG BOOK of NEW TAKURO 吉田拓郎新曲ソング・ブック ごく簡単な解説(たくろう)」『guts』1972年10月号、集英社、27–29頁。 
  32. ^ 桑原聡 (2022年9月3日). “モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら (135) 拓郎よ、フォーエバー”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). オリジナルの2022年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220903022810/https://www.sankei.com/article/20220903-5S7XI2NM4VNCBLXSHDC6WYRLMY/ 2022年9月5日閲覧。 

関連項目


元気です

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/10 06:43 UTC 版)

「元気です」
吉田拓郎シングル
初出アルバム『アジアの片隅で
B面 証明
リリース
規格 シングル・レコード / 7K-4
8cmCD (再発盤)
ジャンル ニューミュージック
時間
レーベル FORLIFE
作詞・作曲 吉田拓郎
チャート最高順位
  • 週間37位オリコン[1]
  • 登場回数12回(オリコン)
  • 売上5.6万枚(オリコン)
吉田拓郎 シングル 年表
いつか夜の雨が
1980年
元気です
(1980年)
サマーピープル
1981年
テンプレートを表示

元気です」(げんきです)は、吉田拓郎1980年11月5日にリリースした20枚目のシングル。発売元はフォーライフ・レコード(現・フォーライフミュージックエンタテイメント)。

概要

宮崎美子が主演したTBSポーラテレビ小説元気です!』の主題歌[2][3]

アルバム『アジアの片隅で』と同時発売された[4]

歌詞は4番まであり、それぞれ「春」「夏」「秋」「冬」のストーリーで構成されている[3][5][6]広島カープ監督達川光男も思い出の一曲として挙げている[6]

カップリング曲の「証明」は、1980年7月27日に行った日本武道館公演のライブ音源を収録されたもの。長い間アルバム未収録だったが、2011年に発売されたベスト・アルバムONLY YOU 〜since coming For Life〜 + Single Collection』にはじめて収録された。

収録曲

Side:A

  1. 元気です(5分38秒)
    編曲:青山徹大村雅朗

Side:B

  1. 証明(3分48秒)

収録ディスク

アルバム

元気です
証明
  • 『ONLY YOU 〜since coming For Life〜 + Single Collection』(2011年)

カバー

証明

脚注

  1. ^ 『オリコン・シングル・チャートブック(完全版):1968 - 2010』オリコン・エンタテインメント、2012年2月、367頁。ISBN 978-4-87131-088-8
  2. ^ 元気です!”. テレビドラマデータベース. 2018年6月23日閲覧。
  3. ^ a b 吉田拓郎の歌詞が好き”. ザ・カセットテープ・ミュージック. BS12 トゥエルビ (2018年10月7日). 2019年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月27日閲覧。
  4. ^ 吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.
  5. ^ 吉川毅 (2019年5月9日). “「大弦小弦」『はい、元気です』。小学生の頃、朝礼の出欠確認で…”. 沖縄タイムス+プラス. 沖縄タイムス社. 2019年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月27日閲覧。
  6. ^ a b 吉田拓郎の引退に元広島カープ・達川光男氏「彼こそが広島の誇り」”. NEWSポストセブン. 小学館 (2022年7月21日). 2022年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月26日閲覧。

元気です!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 14:55 UTC 版)

元気です!
ジャンル テレビドラマ
脚本 畑嶺明
演出 近藤邦勝
田沢正稔
東条毅
八木康夫
出演者 宮崎美子
石田純一
伴淳三郎
伊藤敏八
音楽 すぎやまこういち
オープニング 吉田拓郎元気です
時代設定 1874年 -
製作
プロデューサー 山泉脩
制作 TBS
放送
放送国・地域 日本
放送期間1980年10月6日 - 1981年4月3日
放送時間月曜 - 金曜12:40 - 13:00
放送枠ポーラテレビ小説
回数130回
テンプレートを表示

元気です!』(げんきです)は、1980年10月6日から1981年4月3日まで、TBSの『ポーラテレビ小説』枠にて放送されたテレビドラマ[1]

あらすじ

明治7年、廃藩置県征韓論を背景に土佐の不平士族が岩倉具視を襲撃した。暗殺に失敗した一味は逃走し負傷者を医者の家に運んだ。精庵医師に手当を強要し夫婦共々、殺害する。この家の息子、信吾は反撃し一味の一人を射殺した。信吾と妹あやは逃亡を決意する。この家の使用人で聾唖の海之助の故郷、土佐に向かう一行。土佐に着くや信吾は官憲に捕らえられる。失意のあやであったが漁師の中森茂造はあやを励ますのだった。

茂造には良作という息子がいて、たまに村に戻ってくるが彼には秘密がありそうだった。茂造の鰹節作りを手伝うあや、良作はそんなあやを愛するようになり、二人はやがて結ばれる。良作は仕事に精を出すが彼は政治運動に加担しているらしかった。茂造は病に倒れ帰らぬ人になる。

平穏な暮らしもつかの間、警察の追及は良作のもとに伸びてくる。あやたちは山奥の紙漉きの小屋に逃れる。仕事のかたわら子供たちに読み書きを教え始める。だが良作は東京から追ってきた刑事に見つかってしまい山中に逃れるが絶命する。一人になったあやは尼寺の蓮照を頼り色々と相談するが、その人こそあやの実の母親だった。

出演

スタッフ

その他

  • 宮崎美子は1980年1月、熊本大学在学中に「週刊朝日」の表紙(篠山紀信撮影)に登場。次に篠山からCM出演依頼があり春休み期間中にサイパンで撮影を行った。それがミノルタのCMであり大反響となった。プロのモデルとは違った素朴な雰囲気やぽっちゃり体形が新鮮なインパクトを与えた。斉藤哲夫のCM曲は宮崎のジャケ写を使い、ミノルタの「X-7」はベストセラーとなった。新人女優を起用するのが恒例となっていたポーラテレビ小説は宮崎に注目、彼女を口説き落とすためディレクターが熊本に何度も足を運んだ[注 1]。一連の交渉はミノルタに話を通さず行われたため、あとになってミノルタからクレームがついたという。宮崎のドラマデビューは大きな注目を集めマスコミ取材200社、スポーツ紙にも取り上げられるなど異例づくめであった。ドラマと連動する形で写真集(富士見書房)が発売された。
  • 音楽はすぎやまこういちが担当。NHK交響楽団から徳永二男、堀正文を迎えクラシカルな弦楽曲で統一した。ドラマ音楽としては異例なレコード発売となった。主題歌は吉田拓郎がドラマのために新曲を書き下ろした。
  • 主演を宮﨑と争う形となったものの結果として敗れ、宮崎のライバル的な役柄で出演した原日出子は、翌1981年に連続テレビ小説本日も晴天なり」の主演に抜擢されブレイクする。

参照文献

  • 「週刊TVガイド」(1980年、東京ニュース通信社)
  • 「テレビジョンドラマ」(1983年創刊号、放送映画出版)

脚注

注釈

  1. ^ 「テレビジョンドラマ」1983年、村上瑛二郎インタビューより。

出典

  1. ^ 元気です!”. テレビドラマデータベース. 2022年2月27日閲覧。
TBS系列 ポーラテレビ小説
前番組 番組名 次番組
マリーの桜
元気です!
発車オーライ

「元気です。」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元気です。」の関連用語

元気です。のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元気です。のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの元気です。 (改訂履歴)、元気です (改訂履歴)、元気です! (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS