貨幣改鋳とは? わかりやすく解説

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貨幣改鋳

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 09:15 UTC 版)

貨幣改鋳(かへいかいちゅう、money recasting )とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させることである。経済政策の1つとして行われることもある。


  1. ^ 金含有量15グラムの慶長小判(純度86パーセント) × 2 = 金30グラム” ⇒ “金含有量10.2グラムの元禄小判(純度56パーセント) × 3 = 金30.6グラム
  2. ^ a b 『折たく柴の記』。
  3. ^ インドの各地にローマの貨幣が輸出されたことが『エリュトゥラー海案内記』に記載されており、大プリニウスもローマの上流階級が東方の奢侈品を購入するために、国内の金銀が失われていると記している。
  4. ^ 新井白石著『貨幣儀』より。
  5. ^ 杉山伸也著 『日本経済史 近世 - 現代』。
  6. ^ 三上(1996)『江戸の貨幣物語』181 - 182頁
  7. ^ 『日本貨幣物語』105頁
  8. ^ 『日本の貨幣の歴史』199頁
  9. ^ 新井白石の『本朝宝貨通用事略』によれば慶長6年(1601年)から宝永5年(1708年)の間に金貨368万両余り・銀貨90万貫ほどが、小葉田淳の『日本鉱山史の研究』・『金銀貿易史の研究』では17世紀初めの銀輸出量は年に5万貫(200トン)、『鎖国』(岩生成一著)では年3万5000から4万4000貫(130から165トン)が日本から海外に流出したとされる。これは、新井白石の算定ではそれぞれの鋳造量の4分の1と4分の3に、岩橋勝の推計では1601年から1695年までに鋳造量の11%(約1500万両のうち160万両)と83%(120万貫のうち約100万貫)にあたるという(「徳川時代の貨幣数量」)。
  10. ^ 若田部昌澄著『もうダマされないための経済学講義』、安達誠司著『脱デフレの歴史分析「政策レジーム」転換でたどる近代日本』
  11. ^ 新保博著『近世の物価と経済発展』、西川俊作著『日本経済の成長史』。
  12. ^ ピーター・バーンスタイン著『ゴールド 金と人間の文明史』 98 - 99頁。
  13. ^ 東野治之著『貨幣の日本史』。
  14. ^ 『お金の改革論』153 - 154頁。
  15. ^ a b 『三貨図彙』。
  16. ^ 羽田正見『貨幣通考』。
  17. ^ ヨハンネス・ラウレス『スコラ学派の貨幣論』(有斐閣)。
  18. ^ 日本はオランダ側に対して「慶長小判1枚 = 銀68匁」というレートで小判による交易をしていたが、オランダの植民地バタヴィアにおける相場は「小判1枚 = 30ギルダー」・「銀68匁 = 23ギルダー」だったためオランダ側は6ギルダーあまりの利益があった。しかし、金含有量を3分の2にした元禄小判をそれまでと同様の銀68匁のレートで通用させたため、オランダ側にとっては損になった。
  19. ^ 東野治之著『貨幣の日本史』175 - 177頁。
  20. ^ 幕府は銀地金の流出を食い止めるため、1609年灰吹銀の輸出を禁止し、貿易には丁銀を使うよう命じている。
  21. ^ 『お金の改革論』161 - 162頁。
  22. ^ 『日本貨幣物語』24頁
  23. ^ 寛文期(4代将軍徳川家綱治世下)に、金・銀座の者たちが貨幣改鋳を幕府に建議しているが、老中の土屋数直の反対により実現しなかった。
  24. ^ 滝沢武雄は、元禄金銀の総鋳造量は慶長金銀より少なく、引替えに出されなかった慶長金銀が退蔵されたなら、貨幣の流通量の増加によるインフレーションはこの場合考慮する必要はなく、また元禄年間の米価の推移を見ると物価の上昇したことは確かだが、爆発的騰貴とは言えないとしている(『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館 189 - 220頁)。
  25. ^ 『勘定奉行荻原重秀の生涯』集英社新書、119 - 125頁
  26. ^ 10年で新金銀が普及したならば、貨幣の品位低下による金建ての物価は10年で50%、銀建ての物価は10年で25%の上昇となる。
  27. ^ 『勘定奉行荻原重秀の生涯』集英社新書、125 - 127頁
  28. ^ 『江戸の貨幣物語』176 - 181頁, 190頁
  29. ^ 『江戸の貨幣物語』181 - 182頁
  30. ^ 藤田覚「元禄期幕府財政の新史料」。
  31. ^ 『図説 日本の歴史11.江戸の開幕』123 - 124頁。
  32. ^ 『日本貨幣物語』106 - 110頁。
  33. ^ 『図説 日本の歴史12.変動する幕政』74 - 77頁。
  34. ^ 発行の理由は、「元禄金の品位が悪く、通用に不自由なので、慶長小判と同じ品位に直すが、貨幣の数量を減らさないために大きさは小さく吹き直す」としている(『御触書寛保集成』一七八五)。
  35. ^ 宝永6年5月1日(1709年6月8日)の将軍宣下式、江戸城修築、同年11月の東叡山寛永寺綱吉廟建設、浄光院葬儀、中御門天皇即位儀式、東山上皇葬儀など。
  36. ^ 国立国会図書館所蔵(史料番号六十八番)
  37. ^ 『近世銀座の研究』187 - 188頁
  38. ^ a b 田谷『近世銀座の研究』194 - 196頁, 213 - 218頁
  39. ^ 田谷博吉の研究によると元禄・宝永を通して約12万貫。『近世銀座の研究』193 - 197頁
  40. ^ 江戸では、宝永6 - 7年に元禄金1両=二ツ宝銀58 - 60匁だったが、正徳元年には金1両=銀64 - 65匁、翌2年には76 - 81匁に銀のレートが低落。大坂では、正徳2年には乾字金1両=四ツ宝銀80匁余となっている。
  41. ^ 『改貨議』(正徳3年6月(1713年7月ごろ))より。
  42. ^ 辻達也著 『享保改革の研究』
  43. ^ 『日本史小百科「貨幣」』270 - 271頁
  44. ^ 徳川実紀』『江戸町触集成』第五五一五号。
  45. ^ 正徳4年5月(1714年6月ごろ)に金1両=銀82 - 83匁、享保2年(1717年)春夏に金1両=69.75匁、秋冬に64.20匁だった相場が、正徳金銀の通用令が出された享保3年(1718年)には春夏の金1両=58.76匁から秋冬には52.10匁に高騰する。
  46. ^ 『徳川実紀』。当日、大岡により発せられた町触には、通貨不足の状況を解決するため、貨幣の質を落とす改鋳を実施したと明言されている。
  47. ^ このように、交換の際に割増をつけることを「増歩(ましぶ)」という。
  48. ^ 「憲教類典」『東京市史稿』産業篇一四 - 856頁。
  49. ^ しかし、旧貨幣が全て回収されなかったため延享元年(1744年)には「古金1両=新金1・65両、古銀10貫=新銀15貫」の割合通用を再度認めることになる(「撰要永久録」『東京市史稿』産業篇一六 - 498頁)。
  50. ^ 大石慎三郎『大岡越前守忠相』、勝亦貴之「元文の貨幣改鋳と『松平乗邑体制』の成立」
  51. ^ 「両替年代記」「元文金銀引替一件」「銀切賃ニ付両替店員処罰」『東京市史稿』産業篇第十四
  52. ^ 「吾職秘録」『日本財政経済史料二』財政経済学会、1922年。
  53. ^ 『吉宗と享保改革』(大石慎三郎著)、『新版 貨幣博物館』。
  54. ^ 文政の改鋳では金貨4820万両、銀22万5000貫が鋳造された。
  55. ^ 文政元年(1818年)に約3000万両だった貨幣流通量は、安政5年(1858年)には5300万両に増加している。
  56. ^ 作道洋太郎 「幕藩体制と通貨問題」。
  57. ^ 『江戸期銭貨概要』日本銀行調査局。
  58. ^ 『日本の貨幣』212頁。
  59. ^ 『江戸の貨幣物語』102 - 103頁
  60. ^ 藩札は基本的に兌換紙幣であり、発行する際には札と交換するための現金(現銀)が必要となる。
  61. ^ 山室恭子著 『江戸の小判ゲーム』159 - 161頁。
  62. ^ 村井淳史著『勘定奉行荻原重秀の生涯』127 - 131頁。
  63. ^ ジョン・メイナード・ケインズ著 『お金の改革論』 17 - 18頁。
  64. ^ 「撰要永久録」『東京市史稿』産業篇一一 - 899・900頁。
  65. ^ 「撰要永久録」『東京市史稿』産業篇一三 - 292頁。
  66. ^ 『江戸町触集成』一二 - 一二二八二号。
  67. ^ 『江戸町触集成』一三 - 一三二〇七号。
  68. ^ 『江戸町触集成』四 - 六四一九号。
  69. ^ 『江戸町触集集成』一二 - 一二〇五五号。
  70. ^ ヨーロッパで最初に紙幣が発行されたのは1661年スウェーデン
  71. ^ 増田悦佐著 『危機と金(ゴールド)』 4頁。
  72. ^ 片面に鷲の印章、反対面に月桂冠を戴いた皇帝の肖像が刻印されている。
  73. ^ 元老院による銅貨の鋳造所は首都ローマに置かれた。
  74. ^ 金貨と銀貨の発行権は皇帝が握っていたが、銅貨の鋳造権は元老院にあった。
  75. ^ エドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史』11章。
  76. ^ 初代皇帝アウグストゥス当時の交換レートは「1アウレウス金貨 = 25デナリウス銀貨 = 100セステルティウス銅貨 = 400アス銅貨。
  77. ^ 3世紀に銀の不足が問題となったが、M・ロストフツェフは、これは鉱脈の枯渇ではなく、鉱山の掘り手となる労働力の不足が原因であったとしている(『ローマ帝国 社会経済史』上巻)。
  78. ^ 4世紀初めの市場に流通していたデナリウス銀貨は、銀の含有量が6000枚で合計1リーブラ(327グラム)しかない粗悪なものだった。
  79. ^ 1982年に行われた700周年記念行事では、検査にエリザベス2世と蔵相が出席した。
  80. ^ 貨幣の銀の純度が4分の1にまで低下。
  81. ^ 1600年代前半に銀が南米から大量に輸入されたことでヨーロッパでは銀の価格が低下した一方、インドでは銀が高価格だった。そのため、イングランド国内では多くの者が金を銀と交換した後に、銀をアジアに持ち込んで多額の利益を得ていた。
  82. ^ ジャン2世はポワティエの戦いで、イングランド軍に捕らえられ、捕虜となっている。


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