sad
「sad」の意味
「sad」は、悲しい、憂鬱な、哀れなといった意味を持つ形容詞である。感情や状況に対して使われることが多く、人や物事が悲しい状態にあることを表す。また、悲しい出来事や状況を説明する際にも使用される。「sad」の発音・読み方
「sad」の発音は、IPA表記では/sæd/となり、カタカナでは「サド」と表記される。日本人が発音する際のカタカナ英語の読み方は「サッド」である。この単語は発音によって意味や品詞が変わる単語ではないため、特別な注意は必要ない。「sad」の定義を英語で解説
英語での「sad」の定義は、"feeling or showing sorrow; unhappy"(悲しみを感じたり、示したりする;不幸せな)である。この定義からも分かるように、悲しい感情や状況を表す形容詞として使われる。「sad」の類語
「sad」の類語には、以下のような言葉がある。 1. unhappy: 不幸せな、悲しい 2. sorrowful: 悲しむ、悲痛な 3. miserable: 惨めな、不幸せな 4. gloomy: 憂鬱な、陰気な 5. melancholy: 憂鬱な、悲しい これらの類語も、悲しい感情や状況を表す形容詞として使われることが多い。「sad」に関連する用語・表現
「sad」に関連する用語や表現には、以下のようなものがある。 1. sadness: 悲しみ、憂鬱 2. to feel sad: 悲しい気持ちになる 3. to make someone sad: 誰かを悲しませる 4. sad news: 悲しいニュース、悲報 5. a sad story: 悲しい話、悲劇 これらの用語や表現は、悲しみや憂鬱を表す際に使用されることが多い。「sad」の例文
1. She looked sad.(彼女は悲しそうに見えた。) 2. It's a sad day for all of us.(私たち全員にとって悲しい日である。) 3. The sad news brought tears to her eyes.(悲しいニュースが彼女の目に涙を誘った。) 4. His sad expression made me feel sympathy for him.(彼の悲しい表情が私に彼への同情を感じさせた。) 5. The movie had a sad ending.(その映画は悲しい結末だった。) 6. The sad truth is that we can't change the past.(悲しいことに過去は変えられない。) 7. She felt sad for the homeless animals.(彼女は家のない動物たちに悲しみを感じた。) 8. The sad reality is that many people are still suffering.(悲しい現実は、多くの人々がまだ苦しんでいることだ。) 9. The weather is so sad today.(今日の天気はとても憂鬱だ。) 10. His sad story touched everyone's heart.(彼の悲しい話は皆の心に触れた。)エス‐エー‐ディー【SAD】
読み方:えすえーでぃー
エス‐エー‐ディー【SAD】
制限視野回折
セカロン酸D
分子式: | C32H30O14 |
その他の名称: | セカロニン酸D、Secalonic acid D、セカロン酸D、SAD、(3S,4R,4aR,3'S,4'R,4'aR)-2,2',3,3',4,4',9,9'-Octahydro-1,1',4,4',8,8'-hexahydroxy-3,3'-dimethyl-9,9'-dioxo-7,7'-bi[4aH-xanthene]-4a,4'a-dicarboxylic acid dimethyl ester、(3S,3'S,4'R,4'aR)-2,2',3,3',4,4',9,9'-Octahydro-1,1',4β,4',8,8'-hexahydroxy-3α,3'-dimethyl-9,9'-dioxo(7,7'-bi-4aH-xanthene)-4aβ,4'a-dicarboxylic acid dimethyl ester |
体系名: | (3S,3'S,4'R,4'aR)-2,2',3,3',4,4',9,9'-オクタヒドロ-1,1',4β,4',8,8'-ヘキサヒドロキシ-3α,3'-ジメチル-9,9'-ジオキソ(7,7'-ビ-4aH-キサンテン)-4aβ,4'a-ジカルボン酸ジメチル、(3S,4R,4aR,3'S,4'R,4'aR)-2,2',3,3',4,4',9,9'-オクタヒドロ-1,1',4,4',8,8'-ヘキサヒドロキシ-3,3'-ジメチル-9,9'-ジオキソ-7,7'-ビ[4aH-キサンテン]-4a,4'a-ジカルボン酸ジメチル |
季節性感情障害
Sad
SAD…
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/27 03:39 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年4月)
|
「SAD…」 | ||||
---|---|---|---|---|
森重樹一 の シングル | ||||
初出アルバム『Heart of Gold』 | ||||
B面 | ガタガタ言わずに | |||
リリース | ||||
ジャンル | ロック | |||
レーベル | 日本コロムビア | |||
作詞・作曲 | 森重樹一 | |||
森重樹一 シングル 年表 | ||||
|
||||
「SAD…」(サッド…)は、森重樹一の3枚目のシングル。
概要
- 森重樹一 with EXILES名義でのリリース。レコーディングには神田和幸や白浜球が参加。
- 2ndアルバム「Heart of Gold」ではアレンジの違うアルバムバージョンが収録されている。
収録曲
# | タイトル | 作詞 | 作曲 | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「SAD…」 | 森重樹一 | 森重樹一 | |
2. | 「ガタガタ言わずに」 | 森重樹一 | 森重樹一 | |
3. | 「SAD… (original instrumental)」 | 森重樹一 | 森重樹一 | |
合計時間:
|
脚注
外部リンク
SAD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/19 16:12 UTC 版)
sad, Sad , SADとは、英語で「悲しい、残念な」という意味の形容詞
- 社交不安障害 (social anxiety disorder)
- 分離不安障害 (separation anxiety disorder)
- 季節性情動障害 (seasonal affective disorder)
- スロバキアバス交通(スロバキア語 : Slovenská autobusová doprava)の略称。
- 特別行動部(Special Activities Division)の略称。
- ソシエダ・アノニマ・デポルティーバ(S.A.D.、Sociedad anónima deportiva)の略称。スペインにおける株式会社の形態。
- S.A.D. - ジャニーズJr.内にかつてあったグループ。
詳細は「ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)#S.A.D.」を参照
UDラス・パルマス
(SAD… から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 08:50 UTC 版)
UDラス・パルマス | ||||
---|---|---|---|---|
原語表記 | Unión Deportiva Las Palmas, S.A.D. | |||
愛称 | La Union Deportiva Los Canariones Pío-pío |
|||
クラブカラー | 黄色 青 |
|||
創設年 | 1949年 | |||
所属リーグ | ラリーガ | |||
所属ディビジョン | 1部(2024-25) | |||
昨季リーグ順位 | 16位(2023-24) | |||
ホームタウン | ![]() |
|||
ホームスタジアム | エスタディオ・グラン・カナリア |
|||
収容人数 | 32,400[1] | |||
代表者 | ![]() |
|||
監督 | ![]() |
|||
公式サイト | 公式サイト | |||
|
||||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
UDラス・パルマス(Unión Deportiva Las Palmas, S. A. D.) は、スペイン・カナリア諸島のラス・パルマス・デ・グラン・カナリアに本拠地を置くサッカークラブ。2023-24シーズンからプリメーラ・ディビシオンに在籍している。32,400人収容のエスタディオ・グラン・カナリアをホームスタジアムとしている。同じくカナリア諸島に本拠地を置くCDテネリフェとの対戦はカナリア諸島ダービーとして知られる。
歴史
スペインサッカー連盟に登録されたのは1949年6月6日であるが、公式に設立されたのは8月22日である。カナリア諸島にあるCDグラン・カナリア(Club Deportivo Gran Canaria)、アトレティコCF(Atlético Club de Fútbol)、レアル・クルブ・ビクトリア(Real Club Victoria)、アレナス・クルブ(Arenas Club)、マリーノFC(Marino Fútbol Club)が合併して新クラブが誕生。クラブ名称を決めるための会合が開かれ、どの前身クラブの名称も含まないことで合意した。デポルティーボ・カナリアス(Deportivo Canarias)という案もあったが、グラン・カナリア島単独よりもカナリア諸島全体に言及しているとして廃棄された。5クラブの合併による繋がりを表し、ラス・パルマスを本拠地とすることから、最終的にUDラス・パルマス(Unión Deportiva Las Palmas)が選ばれた。この連合クラブは、カナリア諸島の優秀な選手を諸島に引き留め、本土でクラブを探さなくてもよいように設立された。最初の練習は1949年9月16日に行われた[2]。1949-50シーズンにテルセーラ・ディビシオン(当時3部相当)に初参戦し、2位となってセグンダ・ディビシオン(2部)昇格。1950-51シーズンはセグンダで3位となり、プリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を決めた。今日まで、リーガ・エスパニョーラ初参戦から2シーズン連続で昇格してプリメーラ昇格を決めたのはラス・パルマスだけである。トップリーグ初挑戦の1951-52シーズン終了後にセグンダ降格となったが、1953-54シーズン終了後に再びプリメーラ昇格を果たし、今度はプリメーラに6シーズン在籍した。
1963-64シーズンにはセグンダで優勝してプリメーラに昇格し、1960年代後半から1970年代後半にかけてはクラブ史上最も成功を収めた期間となった。ビセンテ・ダウデル監督が率いた1967-68シーズンにはレアル・マドリードとFCバルセロナに次ぐ3位となり、母国開催となったUEFA欧州選手権1968にはラス・パルマスから4人の選手が出場して優勝を経験。1968-69シーズンにはレアル・マドリードに次ぐ2位となってさらなる躍進を遂げ、リーグ戦ではレアル・マドリード以外には敗れなかった。1969-70シーズンにはインターシティーズ・フェアーズカップに出場したが、1回戦でヘルタ・ベルリン(ドイツ)に2試合合計0-1で敗れた。1971年3月9日には、ラス・パルマスの現役選手であった28歳のフアン・グエデスが突然死去した。1971-72シーズンには、フランス人のピエール・シニバルディ監督がクラブをリーグ戦5位に導き、翌シーズンのUEFAカップ出場権を獲得。1972-73シーズンのUEFAカップではトリノFC(イタリア)とŠKスロヴァン・ブラチスラヴァ(チェコスロバキア)を下し、FCトゥウェンテ(オランダ)に敗れた。1974-75シーズン末には、グエデスとともにプレーしたディフェンダーのトノーノが肝臓の伝染病で死去した。1977-78シーズンはクラブ史に残るシーズンとなった。ミゲル・ムニョス監督が采配を振るい、アルゼンチン人のミゲル・アンヘル・ブリンディーシ、ダニエル・カルネバーリ、カルロス・モレーテ、キケ・ウォルフなどが在籍したチームは、欧州カップ戦(UEFAカップ)に3度目の出場を果たし、1回戦でFKスロボダ・トゥズラ(ユーゴスラビア)を倒したが、結果的に優勝するイプスウィッチ・タウンFC(イングランド)に2回戦で敗れた[3]。同シーズンのコパ・デル・レイではクラブ史上初めて決勝に進出したが、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われた決勝ではFCバルセロナに1-3で敗れた[4]。
1990年代から2000年代にかけてはセグンダ・ディビシオン(2部)とセグンダ・ディビシオンB(現3部相当、1977年創設)が主戦場となった。2000年にプリメーラに昇格し、2シーズンの間トップリーグに在籍した。2001年10月3日にホームで行われたレアル・マドリード戦では、下部組織出身のルベン・カストロの2得点などで強豪相手に4-2で勝利。しかし、2001-02シーズン終了後にセグンダ降格となった[5]。
下位クラブと他競技
1954年からファームチームを所有しており、1976年には正式なBチームとしてUDラス・パルマス・アトレティコが発足した[6]。2006年にはCチームが設立され、カナリア諸島地域リーグの最上位ディビジョン(プレフェレンテ=ラス・パルマス)に到達した。2010年に活動停止したが、翌シーズンには再び活動を再開した[7]。
またラス・パルマスは女子サッカーチームを所有しており、2009年から2011年にはプリメーラ・ディビシオン・フェメニーナ(女子1部)に在籍した。2010年にはインドアサッカーチームを設立し、セントロ・インスラール・デ・デポルテスをホームコートとしてリーガ・デ・フトゥボル・インドア(1部)に在籍している[8]。
エル・バンデラとピオピオ
カナリアの鳴き声を真似た「ピオピオ(Pío-Pío)」という擬音語は、ラス・パルマスの愛称として知られている。その由来はカナリアとの明白なつながりの他に、クラブの生涯のファンであるフェルナンド・エル・バンデラ(本名はフェルナンド・ゴンザレス・ゴンザレス)という男性にある。
リナーレスからの移住者であるバンデラは、大工兼家具職人であり、何十年にもわたって倦まず弛まずラス・パルマスを応援したことでスペイン中から人気を博したファンだった。ポンチョ、メキシカンハット、ラッパ、そしてチームカラーの黄色と青の旗。これらの荷物を持って、彼はチームの遠征の度にスペイン中を追いかけ、ラス・パルマスがプレーするところではいつも(娘の結婚式の日でさえも)相手サポーターに混じって声援を送っていた。
エル・バンデラがカナリア諸島の象徴的な人物になったのは、1978年のコパ・デル・レイ決勝であった。彼が指揮を執る中、何千人もの島民がマドリードの通りを行進し、バルセロナとの対戦前にマヨール広場とスタジアムで記念すべき祝賀会を開き、最終的に約2万人のカナリア諸島出身者が決勝戦の舞台であるエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでラス・パルマスを応援した。試合は1-3で敗れたものの、カナリア諸島のスポーツ史上最も大規模なサポーターの移動となった。
「ピオピオ」という特徴的な応援が初めて聞かれたのは、1980年代にカナリア諸島最大のスタジアムであるエスタディオ・エリオドロ・ロドリゲス・ロペスで行われたCDテネリフェとのダービーマッチの時だった。その日、一部のテネリフェサポーターが侮辱的な言葉を添えて 「カナリオン 」としつこく挑発した。すると、バンデラは"カナリオン"という言葉を聞くたびに"ピオピオ"と返すことを思いついた。彼らが「カナリオン」と言うと、パンデラも「ピオピオ」と返す。テネリフェサポーターの煽りに対して、バンデラが90分間も擬音で応えるこの印象的な応援はグラン・カナリアサポーターのチャントの中に永遠に残った。
それ以来、この伝統的な応援はホームスタジアムを経て、やがてラス・パルマスの黄色いシャツが登場するすべての試合に持ち込まれるようになった。このシンプルなリフレインで始まるフェルナンド・エル・バンデラの嗄れた声はピッチの外にも深く浸透してき、黄色と青のキットを身に纏うラス・パルマスのマスコットキャラクターも「ピオピオ」と名付けられている。
晩年、バンデラは健康上の理由でスタジアムに応援に行くことは出来なくなり、2003年2月19日に70歳でこの世を去った。それはラス・パルマスの新スタジアムであるエスタディオ・グラン・カナリアの落成式が行われる僅か2ヶ月前のことであった[9][10][11]。
エンブレム
ラス・パルマスのエンブレムは上部にクラブ名入りの巻物を配した青色の盾である。盾の下部には小さな5つの盾が描かれている。これは1949年に合併して消滅したレアル・クルブ・ビクトリア(一番左)、アレナス・クルブ、CDグラン・カナリア、マリーノFC、アトレティコCF(一番右)の盾である。それらは巻物を囲むように配置されており、巻物にはラス・パルマス市のスローガンである「Segura tiene la palma」という文字が刻まれている。
スペインの多くのサッカークラブが国王の庇護下にあり、クラブ名称に「レアル」(Real、国王の)という接頭語を用いることを許され、それぞれのクラブはエンブレムなどに王冠を採用している。ラス・パルマスは国王の庇護のもとになく、エンブレム最上部の王冠は前身クラブのひとつであるビクトリアのものである。エンブレムはクラブ旗の中央に鎮座し、上部は黄色、下部は青色の2色が均等に塗られている。ラス・パルマス市の旗にはこれらの色が斜めに使用される[12]。
タイトル
国内タイトル
- セグンダ・ディビシオン : 4回
- 1953-1954, 1963-1964, 1984-1985, 1999-2000
- セグンダ・ディビシオンB : 2回
- 1992–93, 1995–96
- コパ・デル・レイ : 準優勝
- 1977-78
成績

近年の成績
シーズン | リーグ | コパ・デル・レイ | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディヴィジョン | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 順位 | 備考 | ||
2014-15 | セグンダ | 42 | 22 | 12 | 8 | 73 | 47 | 78 | 4位 | 昇格 | ベスト32 |
2015-16 | ラ・リーガ | 38 | 12 | 8 | 18 | 45 | 53 | 44 | 11位 | ベスト8 | |
2016-17 | 38 | 10 | 9 | 19 | 53 | 74 | 39 | 14位 | ベスト16 | ||
2017-18 | 38 | 5 | 7 | 26 | 24 | 74 | 22 | 19位 | 降格 | ベスト16 | |
2018-19 | セグンダ | 42 | 12 | 18 | 12 | 48 | 50 | 54 | 12位 | 2回戦敗退 | |
2019-20 | 42 | 14 | 15 | 13 | 49 | 46 | 57 | 9位 | 2回戦敗退 | ||
2020-21 | 42 | 14 | 14 | 14 | 46 | 52 | 56 | 9位 | 2回戦敗退 | ||
2021-22 | 42 | 19 | 13 | 10 | 57 | 47 | 70 | 4位 | 2回戦敗退 | ||
2022-23 | 42 | 18 | 18 | 6 | 49 | 29 | 72 | 2位 | 昇格 | 2回戦敗退 | |
2023-24 | プリメーラ | 38 | 10 | 10 | 18 | 33 | 47 | 40 | 16位 | ベスト32 | |
2024-25 | 38 | ベスト32 |
過去の成績
|
|
|
|
- 36シーズン プリメーラ・ディビシオン(1部)
- 33シーズン セグンダ・ディビシオン(2部)
- 6シーズン セグンダ・ディビシオンB(現3部相当)
- 1シーズン テルセーラ・ディビシオン(現4部相当、1977年以前は3部相当)
現所属メンバー
- 2025年2月22日現在[13]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
- 監督
リザーブチーム
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
歴代監督
サトゥル・グレチ 1953-1957
ルイス・モロウニー 1957-1958
バルタサル・アルベニス 1958-1959
ルイス・モロウニー 1959
マルセル・ドミンゴ 1959-1960
パコ・カンポス 1961-1962
ロセンド・エルナンデス 1962-1963
ビセンテ・ダウデル 1963-1966
ルイス・モロウニー 1967-1970
エクトル・リアル 1970-1971
ミゲル・ムニョス 1977-1979
パキート 1989-1990
マノロ・カルド 1990-1991
ロケ・オルセン 1991-1992
ミゲル・アンヘル・ブリンディージ 1991-1992
イニャキ・サエス 1993-1994
パコ・カステリャーノ 1994-1995
マリアーノ・ガルシア・レモン 1997-1998
セルギイェ・クレシッチ 1999-2001
フェルナンド・バスケス 2001-2002
フアン・ロドリゲス 2003
ダビド・ビダル 2003-2004
セルギイェ・クレシッチ 2009-2010
パコ・ヘメス 2010-2011
フアン・マヌエル・ロドリゲス 2011-2012
セルヒオ・ロベラ 2012-2014
ホシコ 2014
パコ・エレーラ 2014-2015
キケ・セティエン 2015-2017
マノロ・マルケス 2017
パコ・アジェスタラン 2017
パコ・ヘメス 2017–2018
マノロ・ヒメネス 2018
パコ・エレーラ 2018–2019
ペペ・メル 2019-2022
ガルシア・ピミエンタ 2022-2024
ルイス・カリオン 2024
ディエゴ・マルティネス 2024-
歴代所属選手
GK
アントニオ・ベタンコルト 1956-1961, 1971-1973
フレン・ロペテギ 1988-1989
ジョゼップ・マルティネス 2017-2020
DF
フアニート 1984-1987
マヌエル・パブロ 1994-1998
ロベルト・ヤルニ 1999-2001
ジェイソン・ムリージョ 2012-2013
MF
フアン・カルロス・バレロン 1995-1997, 2013-2016
ヴィニー・サムウェイズ 1996-2002
マスード・ショジャエイ 2013-2014
アレン・ハリロヴィッチ 2017-2018
アルベルト・アクイラーニ 2017-2018
ペドリ 2019-2020
FW
アントニオ・グアイレ 2000-2001, 2009-2011
福田健二 2007-2008
ホセ・サロモン・ロンドン 2008-2010
ビトーロ 2010-2013, 2017, 2022-2023
ウィリアン・ジョゼ 2015-2016
ケヴィン=プリンス・ボアテング 2016-2017
マルコ・リヴァヤ 2016-2018
トマーシュ・ペクハルト 2018-2020
脚注
- ^ “Stadium”. UD Las Palmas. 2023年5月11日閲覧。
- ^ Historia - Nombre del club ラス・パルマス公式サイト
- ^ Historia - De las tragedias del destino a los argentinos (71-83) ラス・パルマス公式サイト
- ^ Spain - Cup 1978 RSSSF
- ^ Liga - El 'niño' que eclipsó a Zidane reta al Madrid Yahoo! Deportes、2011年10月12日
- ^ El filial: vivero del fútbol canario Historia del Fútbol Canario
- ^ La UD Las Palmas volverá a tener equipo "C" ラス・パルマス公式サイト、2011年6月20日
- ^ La UD Las Palmas crea un equipo de Fútbol Indoor ラス・パルマス公式サイト、2010年9月23日
- ^ “Fernando El Bandera, sonido eterno de la Naciente” (スペイン語). UD Las Palmas (2020年4月3日). 2023年5月11日閲覧。
- ^ “Why do the players of Las Palmas call themselves 'pío-pío'?” (スペイン語). La Liga (2015年7月19日). 2023年5月11日閲覧。
- ^ “Fernando El Bandera, creador del 'pío-pío'” (スペイン語). Tinta Amarilla (2013年2月19日). 2023年5月11日閲覧。
- ^ Historia - Escudo ラス・パルマス公式サイト
- ^ “Top Team”. UD Las Palmas. 22 February 2025閲覧。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- UDラス・パルマス (udlaspalmasoficial) - Facebook
- UDラス・パルマス (@UDLP_Oficial) - X(旧Twitter)
- UDラス・パルマス (@udlaspalmasoficial) - Instagram
- UDラス・パルマス (@udlp_oficial) - TikTok
- UDラス・パルマス - YouTubeチャンネル
- Futbolmによるクラブ紹介
- オフィシャルラジオ
- オフィシャルショップ
アトレティコ・マドリード
(SAD… から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 22:30 UTC 版)
アトレティコ・マドリード(スペイン語: Club Atlético de Madrid, S.A.D.、スペイン語発音: [ˈkluβ aðˈletiko ðe maˈðɾið])は、スペイン・マドリードを本拠地とし、スペインプロリーグ機構(ラ・リーガ)に所属するプロサッカークラブである[1]。2024年3月1日現在のUEFAランキングは第13位。
アトレティコ・マドリード | ||||
---|---|---|---|---|
原語表記 | Club Atlético de Madrid, S.A.D. | |||
呼称 | ATM | |||
愛称 | Atlético(アトレティコ) Colchoneros(マットレス) Rojiblancos(赤と白) Indios(インディアン) |
|||
創設年 | 1903年 | |||
所属リーグ | ラ・リーガ | |||
所属ディビジョン | 1部(2024-25) | |||
ホームタウン | ![]() |
|||
ホームスタジアム | ![]() エスタディオ・メトロポリターノ |
|||
収容人数 | 67,829 | |||
運営法人 | ![]() ![]() ![]() |
|||
代表者 | ![]() |
|||
監督 | ![]() |
|||
公式サイト | 公式サイト | |||
|
||||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
これまでに、プリメーラ・ディビシオン優勝11回、コパ・デル・レイ(国王杯)優勝10回、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝2回、コパ・エバ・ドゥアルテ優勝3回を果たし、欧州ではUEFAカップウィナーズカップ優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグ準優勝3回[2]、UEFAヨーロッパリーグ優勝3回、UEFAスーパーカップ優勝3回を果たしている。
概要
ホームユニフォームは赤色と白色の縦縞のシャツに青色のショートパンツ、青色と赤色のソックスである。この組合せは1911年から使用されている。2021-22シーズンのユニフォームサプライヤーはナイキ、ユニフォームスポンサーは、リヤド・エア、Ria Money Transfer(国際送金業者)[3]、現代自動車である。
FCバルセロナに次いで、スペインで2番目、世界では8番目にサポーターが多いクラブである[4]。またマドリード市内でも市内北部の富裕層にファン層の多いレアル・マドリードに対し、比較的南部の庶民層に熱狂的ファン層を持つ[5][6]。
2003年から、スペイン国王のフェリペ6世が名誉会長を務めている。また、ソシオの数の面では最も規模の大きなクラブの一つであり、6万5千人を越えるシーズンチケット保持者がいる。また、2部降格時にソシオの数が急激に増加したことでも知られており、降格前は2万4000人だったのに対し、降格後はソシオ申し込みが相次ぎ、4万2000人にまで急増した[7]。これは2部に落ちてもクラブを見捨てないというサポーターのクラブ愛のあらわれである[7]。スタジアムの観客数から見ても、2部での試合にもかかわらず、FCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐシーズン平均観客数だった[7]。2017年3月23日にアトレティコのソシオ数が10万人に達し、スペインで2番目、世界で8番目にソシオ数が多いクラブになった[8]。また、2021-22シーズン開幕前には、スタジアムのシーズンチケットを所有するサポーター数が57,048人に達し、クラブ史上最高数を記録した[9]。一方でフレンテ・アトレティコと呼ばれるウルトラスはクラブにとって長年の課題となっている。
『デロイト・トウシュ・トーマツ』によると、2018-19シーズンのクラブ収入は3億6760万ユーロ(約450億円)、欧州第13位、スペインではバルセロナ、レアル・マドリードに次いで第3位である[10]。
これまでの歴史の中、クラブはLos Colchoneros(マットレス、もしくはマットレス屋の意。ホームユニフォームで採用されている赤と白の縦縞がスペインの古風なマットレスと同じ色調であるため。)などの多くの愛称で知られてきた。1970年代は、Los Indios(インディアン)として知られるようになった。これはおそらく外国人選手との契約制限が取り除かれた後に複数の南米選手と契約したことによる。しかしながら、その他にも、スタジアムが河岸にあったため、あるいはLos Indios(インディアン)がLos Blancos(白人の意。アトレティコのライバルであるレアル・マドリードの愛称でもある)の伝統的な敵であったため[11]、など多くの他説もある。
2017-18シーズンからエスタディオ・メトロポリターノを本拠地としている。
2022年、クラブ史上最高額となる年間4200万ユーロ(約57億4600万円)、5年総額2億1000万ユーロ(約287億円)の胸スポンサー契約をWhaleFin(仮想通貨取引を行う企業)と結んだ。
歴史
![]() |
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2020年6月)
|
創設期

1903年4月25日から26日にかけての夜、アトレティコ・マドリード(設立時の名称はアスレティック・クルブ・デ・マドリード)設立が決定された。創設に携わったのは、地元マドリードに住むアスレティック・ビルバオサポーターのバスク人学生である[12]。創設の決め手となったのは、先日に行われたレアル・マドリードとアスレティック・ビルバオのカップ戦決勝を観戦したことである[12]。アトレティコ・マドリードの本部はマドリード市内の"ラ・クルス通り"の25番地に置かれ[13]、クラブ最初のユニフォームは、青と白のストライプを模したシャツに青一色のズボンとなった[14]。ゆえに、今現在もクラブのズボンカラーは青になることが多い[15]。
1903年の創設以降、アスレティック・ビルバオの傘下チームという扱いだったが、1907年2月20日、アスレティック・ビルバオからの独立を果たし、同クラブの兄弟クラブとしてこれ以降公式戦への参加が増加していった[16]。しかし、アスレティック・ビルバオとの関係は絶たれず、両クラブ間での移籍が頻繁に行われた。一例を挙げると、1911年に全国選手権決勝でアスレティック・ビルバオの選手として得点したマヌエル・ガルニカ・セラーノである。彼はマドリード出身であり、1907年から10年間、アトレティコ・マドリードでプレーしていた。1912年になると、アスレティック・ビルバオが現在存在するものよりもさらに厳しいバスク純血主義を掲げたため、こういった動きは徐々に見られなくなった[17]。

1912年、元選手のフリアン・ルエテが新たな会長に就任した。就任の翌年に新設された中央地域連盟へ加盟すると1912-13シーズンの地域選手権でレアル・マドリードに1-2で敗れたものの準優勝を果たし[18]、同シーズン中にホームスタジアムをカンポ・デル・レティーロからカンポ・デ・オドンネルへ移した[19]。オドンネルの創設に携わった一人に国内の陸上競技に精通している人物がいたため、当時の首都スタジアムとしては最も進んだスタジアムであった。このオドンネルではマドリードにて初となる国際Aマッチのスペイン代表対ポルトガル代表が開催され、3-1でスペインが勝利した[20]。スタジアムを遷移して以降はサッカー以外のスポーツ部門の発足や強化にクラブ総出で取り組み、国内でテニスを広く認知させ、スペイン人初の国際テニス殿堂入りを果たしたテニス選手のマニュエル・アロンソやマノーロ・ペレス・セオアネらを輩出した[21]。
1910年代から20年代にかけての首都マドリードでは後のレアル・マドリードであるマドリードCFによる各クラブの選手の引き抜きやスモールクラブの吸収または合併を繰り返しており、アトレティコ・マドリードはこの動きによって消滅したクラブに所属していた選手やサポーターを迎え入れていた[22]。この両者の関係性がマドリードダービーの怨恨に繋がったという見方もある[23]。
1917年、この年まで兄弟クラブであるアスレティック・ビルバオに敬意を表してクラブのエンブレムをビルバオのエンブレムに類似させていたが、ビルバオからの完全な独立の機運が高まったことでこの年に現在のエンブレムに近似しているものを使用するようになった。1924年10月4日、クラブの首脳陣全員が出席した定例会議にてアスレティック・ビルバオからの完全な独立を公表し、1903年の創設以降初めてアトレティコ・マドリードとして独り立ちした記念すべき日となった[24]。
同じマドリードを本拠とするライバルのレアル・マドリードが主に富裕層の支持を受けるクラブであったのに対し、アトレティコは主に労働者階級の支持を受けて発展してきたクラブであり、サポーターは熱狂的なことで有名である。 1930年代後半から1940年代前半には軍隊のチームとなり、アトレティコ・アビアシオンという名称だった時期がある。10回の優勝のうち2回はこの時期に獲得したものである。現在、その名称はアトレティコの下部組織の名前として残っている。現在のクラブ名になったのは、1947年のことであった。この頃から、徐々に勢いを増していった。後にインテルにグランデ・インテルと称される黄金期をもたらすことになるアルゼンチン人のエレニオ・エレーラが監督に就任してからは、ラルビ・ベンバレク、ヘンリー・カールションらを擁するチームは国内リーグを連覇した。エレーラが去った後も勢いを増し、1960年代にかけて黄金期を創り出した。しかし、同時期にアルフレッド・ディ・ステファノのレアル・マドリード、ラディスラオ・クバラのFCバルセロナという強大な敵が国内に存在したことから国内でのタイトルを積み上げられず、結果欧州レベルでの実績を挙げることが出来なかった。1959年にはUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)の準決勝まで駒を進めているが、立ちはだかったのは仇敵レアル・マドリードであった。結局、黄金期のアトレティコが得た国際タイトルは、1962年のUEFAカップウィナーズカップ優勝のみに留まった。

1966年、ホームスタジアムをエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリーノからエスタディオ・デル・マンサナレスに移転した。エスタディオ・デル・マンサナレスは、1972年にエスタディオ・ビセンテ・カルデロンに改称された。
リーガ3強時代から2部降格へ
1974年にはUEFAチャンピオンズカップで決勝戦に進出。バイエルン・ミュンヘンを相手に0-0のまま延長戦となり、114分のルイス・アラゴネスのゴールで先制すると、そのまま延長戦終了間際までリードを保っていた。しかし、シュヴァルツェンベックに30メートル以上のミドルシュートを決められ、同点に追いつかれた。結局2日後の再試合では敗れ、準優勝に終わった。しかし、その後出場を辞退したバイエルンに代わって出場したインターコンチネンタルカップでは、アルゼンチンのCAインデペンディエンテを下し、世界一の座に輝いた。なおスペインにおいて、インターコンチネンタルカップを獲得しているクラブは、レアル・マドリードとアトレティコだけである(大会名称が変わったFIFAクラブワールドカップはFCバルセロナも獲得している)。
1987年に事業家のヘスス・ヒルが会長に就任。1995-96シーズンには、クラブ史上初めてリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの二冠を達成、これはヒル会長の行った大型補強の成果といえる。更に、この前年プリメーラ・ディビシオンで得点王を獲得したサルバ・バジェスタが加入した。
1999-00シーズン、アトレティコは戦術家クラウディオ・ラニエリを監督に迎え、10月30日のマドリードダービーではオランダ人ストライカーのハッセルバインクの2ゴールで勝利するなど、明るい話題はいくつかあった[7]。しかし、12月22日、ビセンテ・カルデロンに治安警察の家宅捜索が入り、クラブはピッチ外の問題によって徐々に調子を崩していく。その後、降格圏まであと1ポイントというところでラニエリが解任され、クラブのレジェンドの1人であるアンティッチを再び呼び戻した[7]。それでも状況は好転せず、5月7日、勝てば残留可能でもあったアウェーでのレアル・オビエド戦に2-2と引き分け、セグンダ降格が確定した[7]。2-2の同点後、ハッセルバインクにはPKによる勝ち越し弾のチャンスがあったが、ハッセルバインクはこれを決め損ねた[7]。試合終了後、セグンダ降格という絶望によりスタジアムは静まり返った。また、このシーズンはコパ・デル・レイで決勝に進出していたが、エスパニョールに2-1で敗れタイトル獲得にはならなかった[7]。
復活と停滞
1年での1部復帰が叶わなかったが、ルイス・アラゴネスを招聘し、フェルナンド・トーレスの台頭などもあって、2002-03シーズンに1部復帰を果たした。
2003年にヘスス・ヒルが会長から退任したが、低迷を続けるアトレティコが上昇のきっかけをつかむことはできなかった。新会長エンリケ・セレソは、ヒル時代に蓄積された巨額の負債にも悩まされることとなった。

2005-06シーズン
不振が続く中、カルロス・ビアンチが監督に就任し、マルティン・ペトロフ、マキシ・ロドリゲス、マテヤ・ケジュマン、ルシアーノ・ガジェッティらを獲得した。優勝候補の一角にも挙げられたが、予想に反しチームは低迷し、前半戦終了を待たずにビアンチは解任された。その後、下部組織からペペ・ムルシアが監督に就任。その後は14年ぶりの6連勝を果たすなど一時調子を上げたが、マキシ・ロドリゲスが代表招集中に怪我をしてから再び失速、最終的には10位でシーズンを終えた。
2006-07シーズン
メキシコ代表やCAオサスナで実績を挙げたハビエル・アギーレを招聘。更に大型補強をし、再建を図った。しかしリーガ最終順位は7位に終わった。
2007年7月にはフェルナンド・トーレスをリヴァプールに放出した。迎えた2007-08シーズンは、不安定な戦いに終始しアギーレも批判を浴びたが、加入2年目のセルヒオ・アグエロが19ゴール、新加入のディエゴ・フォルランが16ゴールを記録し、新加入のシモン・サブローザ、ラウール・ガルシア、下部組織出身のイグナシオ・カマーチョらも活躍したことで最終順位は4位で、1995-96シーズン以来12年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

2008-09シーズン
シーズン途中にアギーレが解任されるなど終始不安定ではあったが、終盤戦の6連勝で最終的に4位となり、2年連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。最終節のUDアルメリア戦はエスタディオ・ビセンテ・カルデロンでの1000試合目であり、記念の試合を3-0の快勝で飾った。
2009-10シーズン
序盤は大きく低迷し、2シーズン連続で出場したUEFAチャンピオンズリーグもグループリーグで敗退。前シーズン途中から監督に就いていたアベル・レシーノを解任しキケ・サンチェス・フローレスを招聘した。冬の移籍期間中に獲得したティアゴ・メンデスの活躍もあり、不振に陥っていたチームの建て直しに成功した。UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で終えていたため、UEFAヨーロッパリーグに決勝トーナメントより参戦した。決勝戦でフラムFCをフォルランの2ゴールで2-1と下し、UEFAヨーロッパリーグの初代チャンピオンとなった。また、リーグ戦の最終順位は9位だったが、スペイン国王杯では1999-2000シーズン以来10年ぶりに決勝に進出。セビージャFCに敗れ、準優勝に終わった。
2010-11シーズン
UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のインテルを2-0で下したが、UEFAヨーロッパリーグではグループリーグで敗退し、1月から2月前半にかけては8敗を喫した。シーズン終盤のセルヒオ・アグエロのゴールラッシュによって、UEFAヨーロッパリーグ出場圏内の7位にこそ位置したものの、キケはシーズンが終わる前に監督からの退任を宣言した。アグエロは移籍を表明した。なお3月の東日本大震災の際には、スペイン在住記者とGoal.comを通じて日本へ応援メッセージが届けられた[25]。
2011-12シーズン
ヘスス・ガルシア・ピタルチに代わる新スポーツディレクターとしてホセ・ルイス・カミネロを招聘[26]。そして新指揮官には、2003-04シーズンにもチームを率いたグレゴリオ・マンサーノを呼び戻した[27]。移籍の意思を表明していたアグエロが推定4500万ユーロでマンチェスター・シティFCへ[28]、ダビド・デ・ヘアは推定2100万ユーロでマンチェスター・ユナイテッドFCへ[29]、フォルランは500万ユーロでインテルへ[30]移籍した。その一方、UEFAヨーロッパリーグ得点王のラダメル・ファルカオ、アルダ・トゥラン、ローンでジエゴを獲得した。また、カンテラーノのガビをレアル・サラゴサから呼び戻した。しかし、リーグ戦では苦戦を強いられ同年12月にマンサーノを監督から解任した。
シメオネ体制

後任の監督にディエゴ・シメオネが就任すると、持ち前の求心力を発揮し全選手に高い守備意識とハードワークを植え付け、守備徹底と無駄のない効率的な走りを重視し、中盤と最終ラインに強固なブロックを形成。攻撃では奪ったボールをジエゴ、アドリアン・ロペス、トゥラン、ファルカオを生かして最小限の力でゴールを決めるシンプルな戦い方へと舵を切った[31][32][33][34]。その結果チームは調子を取り戻し、マンサーノの時は5試合しかなかった無失点試合がシメオネの時は就任後の6試合を全て無失点で乗り切ったのも含めて10試合に倍増しリーグ戦は5位。決勝トーナメントはおろか、マンサーノが監督だったグループステージ第4節のウディネーゼ戦から9連勝。しかも全て2失点以内に抑えたのもあって2年ぶりにUEFAヨーロッパリーグを制覇した。
2012-13シーズン
UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のチェルシーを破り2度目のUEFAスーパーカップ制覇を達成した。リーガ・エスパニョーラでもシメオネの掲げる激しいプレスでボールを奪い、素早く攻撃に移るスタイルでジエゴ・コスタが2トップに定着したのに合わせて、当時21歳だったティボ・クルトゥワが、4連覇中だったFCバルセロナのビクトル・バルデスからサモラ賞を奪えば、トゥランやコケが中盤の核に定着したのも相まって2強に次ぐ3位の好成績を収める。さらに、レアル・マドリードとのマドリードダービーとなったコパ・デル・レイ決勝では、延長戦の末14年ぶりとなるダービー勝利を果たし、17年ぶり10回目の国王杯優勝を達成した。
2013-14シーズン

2013-14シーズンは、前年度チーム得点王のファルカオがASモナコに移籍したものの、ダビド・ビジャをFCバルセロナから獲得した。新加入ビジャとジエゴ・コスタが2トップを形成し、リーグ序盤からバルセロナ、レアル・マドリードと熾烈な優勝争いを展開した。首位で迎えた最終節、敵地カンプ・ノウでの2位バルセロナとの直接対決で引き分け、18年ぶりにリーグ優勝を達成した。 UEFAチャンピオンズリーグでもFCポルトやFCゼニト・サンクトペテルブルクに勝利し、グループリーグ首位通過を決めた。決勝トーナメントでも、ベスト16で2007年の王者・イタリアのACミランを、準々決勝で同じスペインで2006、2009、2011年の王者バルセロナを、準決勝で2012年の王者イングランドのチェルシーFCと歴代のチャンピオンズリーグ王者を次々に破って40年ぶりに決勝に進出。チャンピオンズリーグ史上初の同一都市に所在するクラブ同士の対戦となった決勝戦[35]ではレアル・マドリード相手に後半終了間際まで前半に挙げたディエゴ・ゴディンのゴールで1-0とリードしていたものの、バルセロナとの直接対決となったリーガエスパニョーラ最終節同様強行で先発出場したジエゴ・コスタが早い段階で交代を余儀なくされたツケが、後半ロスタイムにコーナーキックからセルヒオ・ラモスにゴールを奪われた形で回り延長戦に持ち込まれる。延長戦ではそのまま相手の勢いに呑まれて前半こそ無失点で凌いだものの後半5分にアンヘル・ディ・マリアにドリブルで切り裂かれると1億100万ユーロという当時の史上最高額で移籍したガレス・ベイルにこぼれ球を詰められて逆転。その8分後に交代で途中出場したマルセロにミドルシュートを決められ、延長後半終了間際にそれまで抑えていたクリスティアーノ・ロナウドにもPKを決められて3失点を喫し1-4で敗れ、準優勝に終わった。

2014-15シーズン
夏の移籍市場では、前年シーズンのリーグ優勝とCL準優勝の立役者であったジエゴ・コスタとフィリペ・ルイスをチェルシーへ売却したほか、ビジャはニューヨーク・シティFCへ移籍し、クルトゥワはチェルシーからのレンタル移籍期間満了により退団した。これら昨季の主力選手の抜けた穴を補填する目的で、バイエルン・ミュンヘンからマリオ・マンジュキッチ、レアル・ソシエダからアントワーヌ・グリーズマン、トリノFCからアレッシオ・チェルチ、ヘタフェCFよりミゲル・アンヘル・モジャ、SLベンフィカからヤン・オブラク、グラナダCFからギリェルメ・シケイラを獲得した。昨シーズンリーガ王者として戦ったスーペル・コパでは、ライバルのレアル・マドリードを下して29年ぶり2度目の優勝を果たした。冬にはフェルナンド・トーレスがチェルチとの交換トレードでACミランからレンタル移籍し、2006-07シーズン以来7年半ぶりに復帰した。チャンピオンズリーグではラウンドオブ16でバイエル・レバークーゼンをPK戦で下したものの準々決勝で昨季に引き続きレアル・マドリードとのダービーが実現。1stレグは0-0で終えるも、2ndレグでは後半31分にトゥランが退場となった後にチチャリートのゴールが決まり、0-1で敗れてベスト8で敗退。ダービーでの対戦成績では8試合4勝3分け1敗(このシーズン、スペインの国内の3コンペティションでは4勝2分)と大きく勝ち越していたものの、チャンピオンズリーグ決勝のリベンジは果たせなかった。
2015-16シーズン
開幕前にFCポルトからジャクソン・マルティネス、ビジャレアルCFからルシアーノ・ビエット、ASモナコからヤニック・カラスコを獲得し、チェルシーからフィリペ・ルイス、FCポルトにレンタルされていた下部組織出身のオリベル・トーレスが復帰した。リーグ戦では当初、新戦力が噛み合わず勝ち点を落とすこともあったが、ジャクソンに見切りを付けて冬に広州恒大へ売却する一方で、フェルナンド・トーレスの復活やアントワーヌ・グリーズマン、サウール・ニゲス、冬にセルタ・デ・ビーゴから加入したアウグスト・フェルナンデスらの活躍によりFCバルセロナとレアル・マドリードと優勝争いを展開するも最終的に昨年と同じ3位に入り、リーグ戦38試合全てにフル出場して18失点とゴールに鍵をかけ続けたオブラクがサモラ賞を受賞している。チャンピオンズリーグでは2年ぶりに決勝に進出。決勝では2年前と同じくレアル・マドリードとのマドリードダービーとなり、持ち前の4-4-2でブロックを作った守備を発揮したが、前半に先制を許す。後半に途中出場のカラスコのゴールで追いついたが、延長戦を戦い抜いて1-1のままスコアは動かず、PK戦の末3-5で敗れ、再びレアル・マドリードの前に涙を飲んだ。
2016-17シーズン
夏の移籍市場では、セビージャFCからケヴィン・ガメイロ、SLベンフィカからニコラス・ガイタンらを獲得したほか、フェルナンド・トーレスの保有権を買い取った。リーグ戦ではレアル・マドリードとバルセロナと上位争いをしたが3位でフィニッシュ。チャンピオンズリーグでは準決勝まで勝ち進み、決勝トーナメントでは4年連続となるレアル・マドリードと対戦との対戦となったが、2戦合計2-4で敗れてベスト4で大会を去った。
2017-18シーズン


2017-18シーズンから、本拠地をエスタディオ・ビセンテ・カルデロンから、エスタディオ・メトロポリターノに移転した。新スタジアムでの最初の試合は、2017年9月16日ラ・リーガ第4節アトレティコ対マラガCFで、アントワーヌ・グリーズマンが初得点を決めた。
シメオネは就任7シーズン目となり、冬にチェルシーからジエゴ・コスタが復帰。また、中国・スーパーリーグの大連一方足球倶楽部へと移籍したニコラス・ガイタンとヤニック・カラスコの後釜として、セビージャからスペイン代表MFビトーロを獲得。リーグ戦においては、序盤こそは二者に追随を許すも、最終的には2位フィニッシュ。グリーズマンがチーム最多の19ゴール。チャンピオンズリーグではグループCにポット分けされ、ローマ、チェルシー、カラバフと同組になった。勝ちきれない試合が多く、結果、1勝4分1負の成績でヨーロッパリーグへと回った。ここでは持ち前の強さを発揮し、準決勝でアーセナル、決勝でマルセイユを破り5シーズンぶり、3度目の優勝を果たした[36]。またこの優勝により、シメオネがこのクラブで勝ち取ったタイトルが7つになった。2017年3月23日、ソシオ数が10万人に到達し、ソシオ数がスペイン国内ではレアル・マドリードを抜き2番目に、世界では8番目に多いクラブになった。クラブのアイコン的存在であったフェルナンド・トーレスの退団が決まった[37]。最終節のエイバル戦では、スタジアムには6万5000人のファンが訪れ、トーレスはキャプテンマークを付けてフル出場し、2得点を記録。試合後に退団セレモニーが行われた。さらに長年カピタンを務めていたガビもシーズン終了後に退団を表明し、二大功労者がチームを去ることになった。
2018-19シーズン
フランス・ASモナコから当時クラブ史上最高額となる約7000万ユーロでトマ・レマルを、国内のビジャレアルからロドリが加入した。シーズン最初の公式戦となったUEFAスーパーカップでは宿敵レアル・マドリードを延長戦の末4-2で破り、8つめとなるタイトルをチームにもたらした。コパ・デル・レイではジローナに敗戦し、大会を去った。優勝が期待されたCLではモナコ、ボルシア・ドルトムント、クラブ・ブルッヘとのグループに入り、4勝1分1敗の成績でグループ2位でノックアウトラウンドへ進出。ベスト16の相手はイタリアのユヴェントス。1stレグでは2-0と完封勝利を果たすも、2ndレグでクリスティアーノ・ロナウドにハットトリックを許し、2戦合計2-3で大会を後にした。
2019-20シーズン

夏の移籍市場では、キャプテンのディエゴ・ゴディン、フィリペ・ルイス、フアンフランなどの功労者、アントワーヌ・グリーズマン、リュカ・エルナンデス、ロドリなど、主力選手が多数クラブを離れることが決まった。SLベンフィカからジョアン・フェリックスを、クラブ最高額の約1億2600万ユーロで獲得した他、レアル・マドリードからマルコス・ジョレンテ、アトレチコ・パラナエンセからレナン・ロディ、トッテナム・ホットスパーからキーラン・トリッピアー、ポルトからフェリペなど、計8名を新獲得し、 2億4470万ユーロを費やした。冬の移籍期間最終日には、大連人職業から、ヤニック・カラスコの買取オプション付きのレンタルでの復帰が発表された[38]。リーグ戦は得点力不足に悩まされリーグ最多の16引き分けと勝ちきれない試合が多く低迷した。コパ・デル・レイでもラウンド32でセグンダBに所属する、クルトゥラル・レオネサに延長戦の末敗退した。チャンピオンズ・リーグでは、ラウンド16で前回の欧州王者で、当時リーグ戦無敗のリヴァプール相手に1stレグで1-0、2ndレグでは、リヴァプールが公式戦42戦無敗を記録し、難攻不落の要塞と呼ばれた[39]本拠地アンフィールドで、ジョレンテの2ゴールとモラタの決勝ゴールで、2-3で勝利。2連勝をし、2戦合計で4-2と快勝し、昨季王者を下した。リーグ戦再開後は、ジョレンテのフォワードへのコンバートや、カラスコの活躍により、再開後7勝4分の無敗でシーズンを終え、再開前の6位から3位に上げシメオネ就任以降8年連続でのチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。チャンピオンズリーグ準々決勝では、RBライプツィヒに1-2で敗れ、ベスト8で敗退した[40]。
2020-21シーズン
2021-22シーズン
2022-23シーズン
2023-24シーズン
ライバル
レアル・マドリードとアトレティコは、対照的なアイデンティティと非常に異なる運命を持つクラブである。レアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウがマドリード北部の裕福なチャマルティンにあるカステジャーナ通りに誇らしげに建つのに対し、アトレティコのかつてのスタジアムは、マドリードの中心部から1.8kmほど離れたアルガンズエラの労働者階級の中心部にあるビセンテ・カルデロンというあまり華やかではないスタジアムであった。歴史的に、レアル・マドリードはエスタブリッシュメントクラブであると長年見られてきた。その一方で、アトレティコは常に「sentimiento de rebeldía」(抵抗の意識)を特徴としていた。しかし、初期フランシスコ・フランコ時代には、体制に好まれたチームはアトレティコであった[要出典]。1950年代にレアル・マドリードに政権が傾倒するまでは、アトレティコは空軍(Atletico Aviacionと改名)と関連付けられていた。
フランコ政権下の独裁国家はスペインが国際的に孤立していた当時、レアル・マドリードのヨーロピアンカップ制覇を政治的に利用しようとしていた。当時ある大臣は「レアル・マドリードはこれまでで最も優れた使節である」と述べた[要出典]。こういった認識は、集合意識に乗り、マドリードのサッカーアイデンティティに重要な影響をもたらしてきている。アトレティコのファンは「Hala Madrid, hala Madrid, el equipo del gobierno, la verguenza del país(ゆけマドリード、ゆけマドリード、政府のチーム、国の恥)」 という歌の発案者であり、最も頻繁に歌われる歌でもある。
アトレティコ・マドリードは2000年(シーズン後半)から2012-13シーズンまでに、14年間マドリードダービー未勝利という大苦戦を強いられていた。しかし、2013年5月17日、2013年コパ・デル・レイ決勝でアトレティコがサンティアゴ・ベルナベウでライバルを2-1で下したことで、その呪縛は終わりを告げ、2013年9月29日には再びベルナベウで1-0の勝利を収めた。
タイトル
国内タイトル
- プリメーラ・ディビシオン : 11回
- 1939-40, 1940-41, 1949-50, 1950-51, 1965-66, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1995-96, 2013-14, 2020-21
- コパ・デル・レイ : 10回
- 1959-60, 1960-61, 1964-65, 1971-72, 1975-76, 1984-85, 1990-91, 1991-92, 1995-96, 2012-13
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 2回
- 1985, 2014
国際タイトル
- UEFAヨーロッパリーグ : 3回
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回
- 1961-62
- UEFAスーパーカップ : 3回
- インターコンチネンタルカップ : 1回
- 1974
非公式タイトル
- カンペオナート・レヒオナル・セントロ : 4回
- 1920-21, 1924-25, 1927-28, 1939-40
国内個人タイトル
- プリメーラ・ディビシオン
- ピチーチ賞
- 1940-41シーズン
プルデン (30ゴール)
- 1968-69シーズン
ホセ・エウロヒオ・ガラテ (14ゴール)
- 1969-70シーズン
ホセ・エウロヒオ・ガラテ (16ゴール)
- 1969-70シーズン
ルイス・アラゴネス (16ゴール)
- 1970-71シーズン
ホセ・エウロヒオ・ガラテ (17ゴール)
- 1984-85シーズン
ウーゴ・サンチェス (19ゴール)
- 1988-89シーズン
バウタザール (35ゴール)
- 1991-92シーズン
マノロ (27ゴール)
- 1997-98シーズン
クリスティアン・ヴィエリ (24ゴール)
- 2008-09シーズン
ディエゴ・フォルラン (32ゴール)
- 1940-41シーズン
- サモラ賞
- 1939-40シーズン
フェルナンド・タバレス (1.38失点)
- 1948-49シーズン
マルセル・ドミンゴ (1.16失点)
- 1976-77シーズン
ミゲル・レイナ (0.96失点)
- 1990-91シーズン
アベル・レシーノ (0.51失点)
- 1995-96シーズン
フランシスコ・モリーナ (0.76失点)
- 2012-13シーズン
ティボ・クルトゥワ (0.78失点)
- 2013-14シーズン
ティボ・クルトゥワ (0.68失点)
- 2015-16シーズン
ヤン・オブラク (0.47失点)
- 2016-17シーズン
ヤン・オブラク (0.72失点)
- 2017-18シーズン
ヤン・オブラク (0.59失点)
- 2018-19シーズン
ヤン・オブラク (0.76失点)
- 2020-21シーズン
ヤン・オブラク (0.66失点)
- 1939-40シーズン
- サラ賞
- 2013-14シーズン
ジエゴ・コスタ (27ゴール)
- 2013-14シーズン
- LFPアワード
- 2012-13シーズン
ティボ・クルトゥワ (最優秀GK)
- 2012-13シーズン
ディエゴ・シメオネ (最優秀監督)
- 2013-14シーズン
ディエゴ・シメオネ (最優秀監督)
- 2015-16シーズン
アントワーヌ・グリーズマン (最優秀選手)
- 2015-16シーズン
ディエゴ・ゴディン (最優秀DF)
- 2015-16シーズン
ヤン・オブラク (最優秀GK)
- 2015-16シーズン
ディエゴ・シメオネ (最優秀監督)
- 2012-13シーズン
- ピチーチ賞
- セグンダ・ディビシオン
国際個人タイトル
- ヨーロッパ・ゴールデンシュー
- 2008-09シーズン
ディエゴ・フォルラン (32ゴール)
- 2008-09シーズン
- FIFAワールドカップ
- ゴールデンボール
- 2010 FIFAワールドカップ
ディエゴ・フォルラン
- 2010 FIFAワールドカップ
- ブロンズボール
- ゴールデンボール
- バロンドール
- シルバーボール
- 1987年
パウロ・フットレ
- 1987年
- ブロンズボール
- シルバーボール
- ゴールデンボーイ賞
- 2007年
セルヒオ・アグエロ
- 2019年
ジョアン・フェリックス
- 2007年
- UEFAヨーロッパリーグ
- 大会得点王
- 2011-12シーズン
ラダメル・ファルカオ (12ゴール)
- 2011-12シーズン
- 大会得点王
近年の成績
-
シーズン ディビジョン 国王杯 他公式戦 欧州カップ 最多得点者 リーグ 試 勝 分 敗 得 失 点 順位 選手 得点数 2002-03 プリメーラ 38 12 11 15 51 56 47 11位 準々決勝敗退 フェルナンド・トーレス
13 2003-04 プリメーラ 38 15 10 13 51 53 55 7位 準々決勝敗退 フェルナンド・トーレス
20 2004-05 プリメーラ 38 13 11 14 40 34 50 11位 準決勝敗退 UIC 準優勝 フェルナンド・トーレス
20 2005-06 プリメーラ 38 13 13 12 45 37 52 10位 ベスト16 フェルナンド・トーレス
13 2006-07 プリメーラ 38 17 9 12 46 39 60 7位 ベスト16 フェルナンド・トーレス
14 2007-08 プリメーラ 38 19 7 12 66 47 64 4位 準々決勝敗退 UC 3回戦敗退 セルヒオ・アグエロ
27 UIC 優勝 2008-09 プリメーラ 38 20 7 11 80 57 67 4位 ベスト16 UCL ベスト16 ディエゴ・フォルラン
35 2009-10 プリメーラ 38 13 8 17 57 61 57 9位 準優勝 UEL 優勝 ディエゴ・フォルラン
28 2010-11 プリメーラ 38 17 7 14 62 53 58 7位 準々決勝敗退 USC 優勝 UEL GL敗退 セルヒオ・アグエロ
27 2011-12 プリメーラ 38 15 11 12 53 56 56 5位 4回戦敗退 UEL 優勝 ラダメル・ファルカオ
36 2012-13 プリメーラ 38 23 7 8 65 31 76 3位 優勝 USC 優勝 ラダメル・ファルカオ
34 2013-14 プリメーラ 38 28 6 4 77 26 90 1位 準決勝敗退 スーペルコパ 優勝 UCL 準優勝 ジエゴ・コスタ
36 2014-15 プリメーラ 38 23 9 6 67 29 78 3位 準々決勝敗退 UCL ベスト8 アントワーヌ・グリーズマン
25 2015-16 プリメーラ 38 28 4 6 63 18 88 3位 準々決勝敗退 UCL 準優勝 アントワーヌ・グリーズマン
32 2016-17 プリメーラ 38 23 9 6 70 27 78 3位 準決勝敗退 UCL ベスト4 アントワーヌ・グリーズマン
26 2017-18 プリメーラ 38 23 10 5 58 22 79 2位 準々決勝敗退 UCL GL敗退 アントワーヌ・グリーズマン
29 UEL 優勝 2018-19 プリメーラ 38 22 10 6 55 29 76 2位 ベスト16 USC 優勝 UCL ベスト16 アントワーヌ・グリーズマン
21 2019-20 プリメーラ 38 18 16 4 51 27 70 3位 3回戦敗退 スーペルコパ 準優勝 UCL ベスト8 アルバロ・モラタ
16 2020-21 プリメーラ 38 26 8 4 67 25 86 1位 2回戦敗退 UCL ベスト16 ルイス・スアレス
21 2021-22 プリメーラ 38 21 8 9 65 43 71 3位 ベスト16 スーペルコパ 準決勝敗退 UCL ベスト8 アンヘル・コレア
14 2022-23 プリメーラ 38 23 8 7 70 33 77 3位 準々決勝敗退 UCL GL敗退 アントワーヌ・グリーズマン
16
スタジアム・クラブ施設
アトレティコ・マドリードは2017年まで収容人数54,990人のエスタディオ・ビセンテ・カルデロンを使用していた[41]。また、創設から1923年まではロンダ・デ・バジェカスを本拠地としていたが、1923年にエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリードを建設すると、ビセンテ・カルデロンに移る1966年までここでプレーしていた。

クラブは現在リヤド・エア・メトロポリターノ(旧称 : ワンダ・メトロポリターノ → シビタス・メトロポリターノ)を本拠地としている[42]。同スタジアムは、マドリードオリンピック構想の際に20,000席拡張されて68,000席ものサイズを誇るスタジアムとなった。先代のビセンテ・カルデロンは2020年6月から取り壊しが行われ、跡地にはマンサナーレス川に面するということで、川沿いの公園として再計画がなされている[43]。2017年9月17日、マラガCFとの試合でシビタス・メトロポリターノのこけら落としが計画され、来賓としてスペイン国王、フェリペ6世が招待された。この試合でアントワーヌ・グリーズマンがシビタス・メトロポリターノにおける最初の公式戦スコアラーとなった[44]。
トレーニング グラウンド
アトレティコ・マドリードのトップチームの練習場はマドリードより北西へ17kmほど上ったマハダオンダにある。練習場の名前はシウダ・デポルティーバ・アトレティコ・デ・マドリード。ここには芝のピッチに加えて筋力トレーニングをするためのジムも併設されており、Bチームやカンテラもこの施設を使うことがある[45]。
シウダ・デポルティーバにはエスタディオ・セロ・デル・エスピノという多目的スタジアムが隣接しており、主にクラブのBチームがホームスタジアムとして使用している。また、ルーマニアのブカレストにもアトレティコ・マドリードが所有するスタジアムがあり、クラブの下部組織という形で運営されている[46]。
現所属メンバー
- ラ・リーガ 2024-25・基本フォーメーション (3-5-2)
括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
(※1)EU圏外だが、リーガ・エスパニョーラでは外国人枠とはみなさない。
選手
- 2025年1月17日現在[47]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
リザーブチーム
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
スタッフ
テクニカル・スタッフ

地位 | スタッフ |
ヘッド・コーチ | ![]() |
---|---|
アシスタント・マネージャー | ![]() |
![]() |
|
ゴール・キーパー・コーチ | ![]() |
フィットネス・コーチ | ![]() |
理学療法士 | ![]() |
![]() |
|
![]() |
|
![]() |
|
![]() |
|
リハビリテーション・ フィジオ |
![]() |
![]() |
|
テクニカル・ アシスタント・チーム |
![]() |
![]() |
|
チーム・デリゲート | ![]() |
医療部長 | ![]() |
クラブ・ドクター | ![]() |
ドクター | ![]() |
テクニカル・チーム | ![]() |
![]() |
|
![]() |
|
![]() |
経営陣
地位 | スタッフ |
会長 | ![]() |
---|---|
最高責任者 | ![]() |
強化担当 | ![]() |
取締役 | ![]() |
![]() |
|
![]() |
|
![]() |
|
取締役秘書 | ![]() |
ソース: Atlético Madrid
ユニフォーム
チームカラー
ユニフォームスポンサー
- 2023-24シーズンのスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
胸 | リヤド・エア | RIYADH AIR | 2023年 - | |
---|---|---|---|---|
背中下部 | リア・マネー・トランスファー | ria Money Transfer | 2021年 - | |
袖 | 現代自動車 | Hyundai | 2018年 - |
- 歴代スポンサー
期間 | メインスポンサー | その他 |
1903-1987 | なし | |
1987-1990 | 三田工業 | なし |
1990-1993 | マルベーリャ | なし |
1993-1994 | アンテナ3 | なし |
1994-1996 | マルベーリャ | なし |
1996-1997 | バンダイ / たまごっち | なし |
1997-1999 | マルベーリャ | なし |
1999-2000 | なし | |
2000-2002 | Idea Electrodomésticos | なし |
2002-2003 | Idea Electrodomésticos / Centenario del club | なし |
2003-2004 | コロンビア ピクチャーズ | Racer |
2004-2005 | AXN | |
2005-2006 | 起亜自動車 | |
2006-2008 | 京セラ / ASISA | |
2008-2011 | 京セラ / Ålands Penningautomatförening | |
2011-2012 | Rixos Hotels / ファーウェイ | 京セラ / Doyen Group |
2012-2013 | ファーウェイ / Azerbaijan, Land of Fire | 京セラ |
2013-2014 | Azerbaijan, Land of Fire | 京セラ / ファーウェイ |
2014-2015 | ファーウェイ / Plus500 | |
2015-2016 | Plus500 | Azerbaijan, Land of Fire / ファーウェイ |
2016-2018 | なし | |
2018-2019 | 現代自動車 / セーブ・ザ・チルドレン | |
2019-2020 | 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン | |
2020-2021 | 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン / VERSUS | |
2021-2022 | 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン | |
2022-2023 | WhaleFin | |
2023- | RIYADH AIR |
ユニフォームサプライヤー
期間 | サプライヤー |
1903-1950 | なし |
1950-1980 | Deportes Cóndor |
1980-1982 | Meyba |
1982-1998 | プーマ |
1998-2001 | リーボック |
2001- | ナイキ |
歴代ユニフォーム
ホームユニフォーム | ||||
---|---|---|---|---|
アウェーユニフォーム | ||||
---|---|---|---|---|
サードユニフォーム | ||||
---|---|---|---|---|
その他 | ||||
---|---|---|---|---|
サポーター
フレンテ・アトレティコは、クラブで最も大きいサポーターグループであり、ウルトラスとして活動している。これまでに2度の殺人事件を起こしており、2014年12月にクラブは同団体の追放を決定している。
育成組織
概要
アトレティコ・マドリードも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。育成組織はスペイン国内に限らず、メキシコとルーマニアにも海外支部を設置し、その他世界各地で定期的に入団トライアルを開催している[49]。アトレティコ・マドリードが育成し、トップチームで長きにわたり活躍した選手には、ガビやフェルナンド・トーレス、コケ、サウール・ニゲスらがいる[50]。遠方や海外からユース生となった選手はクラブの寮に住み込んでサッカーをすることになるが、16歳以下の子供は家族との連絡以外での携帯電話使用禁止、外出時には成人の同伴が必要などの規則がある[51]。また、2018年からは、サッカーがプロスポーツ化されていないキューバにて、サッカー面での環境整備や子供達にプレー機会を与え、将来的にはキューバ国内に独自のアカデミーを設立することを発表した[52]。
出身選手
カテゴリー
トップチームを除くと合計11のユースカテゴリーがある[53]。
カテゴリー | 対象年齢 |
---|---|
アトレティコ・マドリードB | |
アトレティコ・マドリード・フベニールA | 17-19歳 |
アトレティコ・マドリレーニョ・フベニールA | |
アトレティコ・マドリード・フベニールB | 15-16歳 |
アトレティコ・マドリレーニョ・フベニールB | |
アトレティコ・マドリード・カデーテA | 13-14歳 |
アトレティコ・マドリード・カデーテB | |
アトレティコ・マドリード・インファンティルA | 11-12歳 |
アトレティコ・マドリード・インファンティルB | |
アトレティコ・マドリード・アレビンA F11 | 8-11歳 |
アトレティコ・マドリード・アレビンA F7 | -7歳 |
パートナー
- リヤド・エア - メインスポンサー
- Cívitas (シビタス)
- ナイキ
- 現代自動車
- Ria Money Transfer
- Mahou
- Bwin
- モビスター
- カイシャバンク
- Socios.com
- EAスポーツ
- コカ・コーラ
- Signify
- LG
- Solan de cabras
- FALKENタイヤ
- Energía Rojiblanca
- マルカ
- Halcón Viajes
- Clinica Universidad de Navarra
- Acunsa
- AYX (2021年-)[54]
歴代所属選手
背番号別ベストプレーヤー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
-
ディエゴ・ゴディン#2
-
コケ#6
-
ディエゴ・フォルラン#7
-
フェルナンド・トーレス#9
-
パウロ・フットレ#10
-
ヤン・オブラク#13
-
ガビ#14
-
ジエゴ・コスタ#18
歴代監督
歴代会長
- エンリケ・アジェンデ: 1903
- エドゥアルド・デ・アチャ: 1903-1907
- リカルド・デ・ゴンドラ: 1907-1909
- ラモン・デ・カルデナス: 1909-1912
- フリアン・ルエテ: 1912-1919
- アルバロ・デ・アギラル: 1919-1920
- フリアン・ルエテ: 1920-1923
- フアン・デ・エステファニア: 1923-1926
- ルシアーノ・ウルギホ: 1926-1931
- ラファエル・ゴンサーレス: 1931-1935
- ホセ・ルイス・デル・バジェ: 1935-1936
- ホセ・マリア・フェルナンデス: 1936-1939
- フランシスコ・ビベス: 1939
- ルイス・ナバロ: 1939-1941
- マヌエル・ガジェゴ: 1941–1945
- フアン・トウソーン: 1946-1947
- セサレオ・ガリンデス: 1947-1952
- マルケス・デ・ラ・フロリダ: 1952-1955
- フアン・スエボス: 1955
- ハビエル・バローソ: 1955-1964
- ビセンテ・カルデロン: 1964-1980
- リカルド・イレサーバル: 1980
- アルフォンソ・カベサ: 1980-1982
- アントニオ・デル・オヨ: 1982
- アグスティン・コトルエロ: 1982
- ビセンテ・カルデロン: 1982-1986
- フランシスコ・カステド: 1986-1987
- ヘスス・ヒル: 1987-2003
- エンリケ・セレソ: 2003-
クラブ記録
最多出場選手
太字選手は現在も所属している選手
|
最多得点選手
太字選手は現在も所属している選手
|
最多指揮監督
太字監督は現在クラブを指揮している監督
|
関連クラブ
脚注
- ^ “:: Tienda Club Atlético de Madrid::” (Spanish). Atlético Madrid. 2010年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月20日閲覧。
- ^ “1973/74: Müller ends Bayern wait”. UEFA. 2010年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月7日閲覧。
- ^ “リア・マネー・トランスファー、サッカークラブのアトレティコ・マドリードの公式スポンサーに”. GlobeNewswire (2019年11月8日). 2020年10月7日閲覧。
- ^ “2強時代に終止符? ソシオ数でレアルを越えるアトレティコ”. VICTORY ALL SPORTS NEWS. 2019年9月5日閲覧。
- ^ 玉乃淳 (2016年5月30日). “アトレティコOB玉乃淳が見た、CL決勝の“非情な現実””. SoccerDigest. 2022年2月18日閲覧。
- ^ “2部降格の低迷期も経てついに主役へ躍り出た 古豪アトレティコの波乱万丈ヒストリー”. ザ・ワールド (2021年3月17日). 2022年2月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “治安警察が本拠地を家宅捜索、降格… アトレティコ暗黒期の会長がヒドい【トーレス、シメオネ体制以前の危機】”. Number (2021年2月23日). 2021年3月21日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 2強時代に終止符? ソシオ数でレアルを越えるアトレティコ victorysportsnews.com 2017年4月6日
- ^ “¡Superamos los 55.000 abonados!” (スペイン語). Atletico de Madrid (2022年7月22日). 2022年7月23日閲覧。
- ^ “過去5シーズンを比較…欧州主要クラブで最も売上高をアップさせたのは?”. サッカーキング. 2020年1月18日閲覧。
- ^ “Real Madrid vs Atlético Madrid Derby: Great Local Football Derbies”. Eurorivals. 2010年11月20日閲覧。
- ^ a b “Hacia la creación de otro Athletic (1903)” (スペイン語). アス (2016年4月10日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “El Ayuntamiento de Madrid conmemorará el 115 aniversario del Atlético con una placa en la Calle de la Cruz” (スペイン語). ヨーロッパ・プレス (2018年6月22日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “La curiosa anécdota sobre por qué el Atlético de Madrid y el Athletic de Bilbao visten de rojiblanco” (スペイン語). 20 ミニュッツ (2014年5月19日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “意外!デザインのルーツが「他のチームだった」ユニフォーム5着”. Qoly. 2020年5月5日閲覧。
- ^ “Por qué no es verdad que el Atlético lleve "100 años usurpando" nada al Athletic” (スペイン語) (2016年10月25日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “Athletic Club: el origen de la filosofía” (スペイン語). VAVEL (2017年3月11日). 2021年3月11日閲覧。
- ^ “Campeonato Regional Centro 1912-13”. RSSSF. 2023年2月23日閲覧。
- ^ “El Atlético de Madrid ya estrenó el Metropolitano con victoria” (スペイン語). AS (2017年9月15日). 2023年2月23日閲覧。
- ^ “El campo de O'Donnell, un símbolo del interés creciente por el 'foot-ball' - La Gradona” (スペイン語). La Gradona. 2023年2月23日閲覧。
- ^ “Manuel Alonso, el ingeniero de piernas eléctricas amigo de Chaplin” (スペイン語). La Vanguardia. 2023年2月23日閲覧。
- ^ “Hacia la creación de otro Athletic (1903)” (スペイン語). as (2016年4月10日). 2023年2月23日閲覧。
- ^ “El origen de la rivalidad entre el Atlético de Madrid y el Real Madrid” (スペイン語). COPE (2018年5月15日). 2023年2月23日閲覧。
- ^ “Por qué no es verdad que el Atlético lleve "100 años usurpando" nada al Athletic” (スペイン語). CIHFEE. 2023年2月23日閲覧。
- ^ [1] Goal.com、2011年3月20日
- ^ アトレティコ新SDにカミネロ氏 Goal.com、2011年5月28日
- ^ アトレティコ新指揮官はマンサーノ氏 Goal.com、2011年6月9日
- ^ http://www.goal.com/jp/news/74/イングランド/2011/07/29/2595024/シティアグエロ獲得を正式発表
- ^ http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=1648014.html
- ^ http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/foreign/news/20110830-OYT1T00203.htm
- ^ “シメオネが選手に伝える現役時代の自らの資質「泥が見えたら飛び込む」|海外サッカー|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2021年6月22日閲覧。
- ^ “Filipe Luis: Leicester are like Atletico | Goal.com”. www.goal.com. 2021年6月22日閲覧。
- ^ “Atlético Madrid’s title win was just like Leicester’s, says president” (英語). the Guardian (2017年4月7日). 2021年6月22日閲覧。
- ^ “ディエゴ・シメオネ”. サッカー監督の名将たち GSCS (2018年10月14日). 2021年6月22日閲覧。
- ^ 古巣マドリーへの感謝を語るフアンフラン UEFA.com 2014年5月20日
- ^ “アトレティコがマルセイユ下しEL制覇、グリーズマンが2得点”. www.afpbb.com. 2019年3月2日閲覧。
- ^ co.,Ltd, FromOne. “F・トーレス、アトレティコ退団決定…リーガ最終節でセレモニー開催”. サッカーキング. 2020年5月28日閲覧。
- ^ “カラスコが約2年ぶりに古巣復帰…アトレティコへの期限付き移籍が決定”. サッカーキング. 2020年1月31日閲覧。
- ^ co.,Ltd, FromOne. “リヴァプールは「42」でストップ…今、最も長くホームで負けていないチームは?”. サッカーキング. 2020年3月23日閲覧。
- ^ “ライプツィヒがクラブ史上初の準決勝進出! 堅守アトレティコを2-1で下す【欧州CL】”. フットボールチャンネル (2020年8月14日). 2020年8月14日閲覧。
- ^ https://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/StatDoc/competitions/UEFACup/01/67/59/06/1675906_DOWNLOAD.pdf
- ^ Madrid.es. “Ayuntamiento de Madrid – El Calderón se va al nuevo Estadio olímpico”. Madrid.es. 2012年11月20日閲覧。
- ^ “Atletico Madrid to move to new stadium” (2008年12月15日). 2009年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月17日閲覧。
- ^ “アトレティコが新スタジアムのこけら落としの一戦に勝利”. AFP News (2017年9月17日). 2021年5月17日閲覧。
- ^ “Training Complex”. Club Atlético de Madrid (2007年). 2011年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月20日閲覧。
- ^ Chirileasa, Andrei (2014年6月20日). “Spanish club Atletico Madrid to open football academy in Bucharest, its first in Europe”. Romania-Insider.com. 2017年5月16日閲覧。
- ^ “Atletico Madrid squad”. ラ・リーガ. 2023年8月15日閲覧。
- ^ “Historia del Club Atlético de Madrid, página 4”. 2023年5月6日閲覧。
- ^ “Proyectos de formación internacional” (スペイン語). アトレティコ・マドリード公式サイト. 2022年2月20日閲覧。
- ^ “¿Qué es la Academia?” (スペイン語). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “Así se hace un 'Koke'” (スペイン語). as (2021年10月13日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “Atlético de Madrid negocia abrir una academia en Cuba” (スペイン語). Parco23 (2018年10月3日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “Atletico Madrid Academia Equipos Masculinos” (スペイン語) (2022年2月20日). 2022-20閲覧。 エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。
- ^ “AYX becomes Atlético de Madrid’s Official Asian Partner”. アトレティコ・マドリード公式サイト (2021年5月5日). 2021年5月9日閲覧。
- ^ “Aマドリード史上最高の9番はF・トーレス 現地紙”. 日刊スポーツ (2020年4月20日). 2022年12月28日閲覧。
関連項目
- アトレティコ・マドリードB
- アトレティコ・マドリードの年度別成績一覧
- アトレティコ・マドリードの選手一覧
- アトレティコ・マドリードの監督一覧
- 2013-14 アトレティコ・マドリード (通算10回目のリーグ優勝を果たした2013-14シーズンの詳細)
- 2020-21 アトレティコ・マドリード (通算11回目のリーグ優勝を果たした2020-21シーズンの詳細)
- 幸谷秀巳 (1994年-1999年にコーチとして在籍)
- 佐伯夕利子 (2004-2005シーズン女子Bチーム監督、2005-2006シーズン女子トップチームスカウティング担当)
- 玉乃淳 1999-2002までユースに所属 (昇格は出来ていない)
- 宮川類 (2007年から5年契約で下部組織に所属)
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- アトレティコ・マドリード (AtleticodeMadrid) - Facebook
- アトレティコ・マドリード (@Atleti) - X(旧Twitter)
- アトレティコ・マドリード (@AtletiJP) - X(旧Twitter)
- アトレティコ・マドリード (@atleticodemadrid) - Instagram
- アトレティコ・マドリード (@atleticodemadrid) - TikTok
- アトレティコ・マドリード - YouTubeチャンネル
|
---|
|
---|
S.A.D.
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:23 UTC 版)
「ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)」の記事における「S.A.D.」の解説
2010年7月にミュージカル『PLAYZONE 2010 〜ROAD TO PLAYZONE〜』への出演のために結成されたユニット。JR.A・Travis Japanの前身ユニット。 メンバー 仲田拡輝 川島如恵留 森田美勇人 七五三掛龍也
※この「S.A.D.」の解説は、「ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)」の解説の一部です。
「S.A.D.」を含む「ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)」の記事については、「ジャニーズJr.解散グループ (2000年以降)」の概要を参照ください。
「SAD」の例文・使い方・用例・文例
- SAD…のページへのリンク