アルフィオ・バシーレとは? わかりやすく解説

アルフィオ・バシーレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 09:59 UTC 版)

アルフィオ・バシーレ
名前
本名 アルフィオ・ルベン・バシーレ
Alfio Rubén Basile
愛称 ココ (Coco)
ラテン文字 Alfio BASILE
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 (1943-11-01) 1943年11月1日(81歳)
出身地 バイーア・ブランカ
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1970 ラシン・クルブ 163 (19)
1971-1975 CAウラカン 97 (4)
代表歴
1968-1973 アルゼンチン 8 (1)
監督歴
1975-1976 CAチャカリタ・ジュニアーズ
1976 CAロサリオ・セントラル
1978 ラシン・クルブ
1979 CAラシンスペイン語版
1980 インスティトゥートACコルドバ
1981 CAラシンスペイン語版
1982 CAウラカン
1982 ナシオナル・モンテビデオ
1983 CAラシンスペイン語版
1983 CAタジェレス
1984-1986 CAベレス・サルスフィエルド
1986-1989 ラシン・クルブ
1989-1990 CAベレス・サルスフィエルド
1991-1994 アルゼンチン代表
1995 アトレティコ・マドリード
1996-1997 ラシン・クルブ
1998 CAサン・ロレンソ
2000-2001 クルブ・アメリカ
2004 CAコロン
2005-2006 ボカ・ジュニアーズ
2006-2008 アルゼンチン代表
2009-2010 ボカ・ジュニアーズ
2012 ラシン・クルブ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルフィオ・バシーレ(Alfio Rubén Basile, 1943年11月1日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州バイアブランカ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。選手時代にアルゼンチン代表であり、また監督としても2度に渡ってアルゼンチン代表を率いた。

経歴

選手

地元のベリャ・ビスタからデビュー。1964年から1970年まではラシン・クルブでプレーし、1966年にはプリメーラ・ディビシオンで、1967年にはコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップで優勝した。1971年にはCAウラカンに移籍し、セサル・ルイス・メノッティ監督の下でメトロポリターノ1973を制した。1975年に現役引退した。1968年から1975年にはアルゼンチン代表としてプレーし、8試合出場1得点を記録した。

指導者

初期の指導者経歴

現役引退後には数多くのクラブの指揮を執った。アルゼンチン国内のクラブではCAロサリオ・セントラルラシン・クルブCAウラカンCAベレス・サルスフィエルドなどを指揮し、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオやスペインのアトレティコ・マドリードでも監督を務めた。

アルゼンチン代表監督(1度目)

1991年にはカルロス・ビラルド監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。ガブリエル・バティストゥータディエゴ・シメオネフェルナンド・レドンドら若手選手を積極的に登用し、1991年と1993年にはコパ・アメリカで2連覇を達成したほか、1992年にはキング・ファド・カップで優勝した。1994 FIFAワールドカップ・南米予選は10ヶ国による総当たり戦ではなく、4ヶ国[1] と5ヶ国の2グループによるリーグ戦で行われたが、コロンビア戦で0-5の惨敗を喫したため、一度は代表引退していたベテランのディエゴ・マラドーナを招集せざるを得なかった。アルゼンチンはコロンビアに次ぐ2位となり、オーストラリア(オセアニア地区)との大陸間プレーオフに勝利して本大会出場を決めた。

アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップ本大会では、グループリーグでナイジェリアブルガリアギリシャと同組となった。初戦のギリシャ戦はバティストゥータのハットトリックで4-0と快勝し、2得点を挙げたクラウディオ・カニーヒアの活躍でナイジェリア戦にも勝利したが、ナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの尿から禁止薬物が検出され、マラドーナは大会からの即時追放処分を受けた。3戦目のブルガリア戦には0-2で敗れ、ブルガリアやナイジェリアと同勝ち点の3位に終わったが、3位国同士の成績で最上位となって決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではルーマニアと対戦し、2-3で敗れて大会からの敗退が決定した。大会後に代表監督辞任を発表した[2]

ボカ(1度目)

CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、メキシコのクルブ・アメリカCAコロンなどで采配を振るったが、成功の度合いは様々だった。2005年7月にはボカ・ジュニアーズ監督に就任し、1ヶ月後にはレコパ・スダメリカーナのタイトルを獲得した。アペルトゥーラ2005では、約30年の指導者キャリアで初のプリメーラ・ディビシオン優勝を飾った。この4日後にはコパ・スダメリカーナ決勝でUNAMプーマス(メキシコ)を破って優勝し、就任後の半年で3個のトロフィーを獲得した。

アルゼンチン代表監督(2度目)

2006年7月、2006 FIFAワールドカップ後に退任したホセ・ペケルマン監督の後任として、再びアルゼンチン代表監督に就任した。9月14日まではボカ・ジュニアーズも指揮し、レコパ・スダメリカーナではサンパウロFC(ブラジル)を破って2連覇を果たした。バシーレはイングランド・プレミアリーグよりもイタリア・セリエAやスペイン・リーガ・エスパニョーラを好み、マンチェスター・ユナイテッドFCでプレーしていたカルロス・テベスリヴァプールFCでプレーしていたハビエル・マスチェラーノには、イタリアへのクラブへの移籍を勧め、「たとえ2部リーグでプレーすることになろうとも、(イングランドよりも)ユヴェントスFCでプレーする方が良い」とまで主張した[3]。2008年10月15日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選マルセロ・ビエルサ監督率いるチリと対戦したが、公式戦で初めてチリに敗れ、翌日に代表監督の辞任を発表した[4]。紆余曲折あったものの、バシーレの後任の代表監督にはマラドーナが就任した[5]

ボカ(2度目)とラシン(3度目)

2009年7月1日、カルロス・イスチア監督の後任としてボカ・ジュニアーズ監督に就任した[6]。しかし、マル・デル・プラタで行われたサマートーナメントではライバルのCAリーベル・プレートに1-3で敗れ、アペルトゥーラ2009ではコパ・リベルタドーレスの出場権獲得に失敗した。成績不振により、2010年1月21日に辞任した[7]。2011年12月26日、辞任したディエゴ・シメオネ監督の後任としてラシン・クルブ監督に就任(3度目)した[8]

所属クラブ

選手歴

指導歴

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 7試合 1得点(1968年-1969年)[9]


アルゼンチン代表 国際Aマッチ
出場 得点
1968 4 1
1969 3 0
通算 7 1

タイトル

選手時代

ラシン・クルブ
ウラカン

指導者時代

アルゼンチン代表
ボカ・ジュニアーズ
ラシン・クルブ

脚注

外部リンク





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