クラウディオ・カニーヒア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 08:43 UTC 版)
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|---|---|---|---|---|---|---|
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| 名前 | ||||||
| 本名 | クラウディオ・パウル・カニーヒア Claudio Paul Caniggia |
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| 愛称 | Hijo del Viento (風の申し子), El Pájaro (スズメ) |
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| ラテン文字 | Claudio CANIGGIA | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | |
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| 生年月日 | 1967年1月9日(58歳) | |||||
| 出身地 | エンデルソン | |||||
| 身長 | 172cm | |||||
| 体重 | 67kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1985-1988 | |
53 | (8) | |||
| 1988-1989 | |
21 | (3) | |||
| 1989-1992 | |
85 | (26) | |||
| 1992-1994 | |
15 | (4) | |||
| 1994-1995 | |
23 | (8) | |||
| 1995-1999 | |
74 | (32) | |||
| 1999-2000 | |
17 | (1) | |||
| 2000-2001 | |
21 | (7) | |||
| 2001-2003 | |
50 | (12) | |||
| 2003-2005 | |
15 | (5) | |||
| 2012 | |
0 | (0) | |||
| 通算 | 360 | (107) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1987-2002 | |
50 | (15) | |||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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クラウディオ・パウル・カニーヒア(スペイン語: Claudio Paul Caniggia, 1967年1月9日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手であり、元同国代表。ポジションはフォワード。アルゼンチン代表として、50試合に出場した[1]。カニーヒアはFIFAワールドカップに3度出場し、ライバルチームであるCAリーベル・プレートとボカ・ジュニアーズの双方でプレーした。フィジカルの強さと高い技術力を兼ね備えたストライカーであり[2]、スピードの速さで知られていた[3][4][5]。サッカー選手としての活動を開始する以前には、地方の競技大会の100メートル走などにも参加していた[6]。彼は高い得点力に加えて[2]、アシストなどチャンスを創出する能力にも優れており、そのためしばしば司令塔やセンターフォワードなどのポジションでもプレーした[4]。
クラブ経歴
1985年にリーベル・プレートのトップチームに昇格[6]。当時から瞬間的なスピードとドリブルの技術で知られており、1986年には国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、インターコンチネンタルカップ、コパ・インテラメリカーナ優勝を経験した[6]。
1988年にイタリアのエラス・ヴェローナFCへ移籍し、1989年からはアタランタBCでプレー[6]。
1992年にASローマに移籍し、コパ・イタリア準決勝ではACミランを破るゴールを決め[7]、決勝進出に貢献した。
1993年3月21日に行われたSSCナポリ戦後の尿検査の結果、コカインが検出され[8]、リーグの懲罰委員会により13か月の出場停止処分が科せられた[9][10]。
処分明け後の1994年8月、ASローマと大手食品会社のパルマラットとの合意によりポルトガルのSLベンフィカへ移籍[11]。UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95ではチームのベスト8進出に貢献した。
1995年1月、リーベル・プレートと伝統的にライバル関係にあるボカ・ジュニアーズへ移籍した[11]。代表のチームメイトであるマラドーナと共にプレーし、自身のキャリアの中でも充実した時間を過ごし[6]、1998年5月31日に行われたヒムナシア・イ・ティロ戦を最後に退団した[12]
1999年8月、セリエBに所属していた古巣のアタランタBCと契約したが[12]、監督のジョヴァンニ・ヴァヴァッソリとの意見の相違を理由に、1シーズン限りで退団[13]。
2000年10月、スコットランドのダンディーFCと契約[14]。ダンディーでは好調なプレーを維持したことから、2001年1月に契約期間を2年半に延長した[15]。
2001年5月、スコットランドのレンジャーズFCと契約[16]。レンジャーズではスコティッシュ・プレミアリーグ、2度のスコティッシュリーグカップ、 2度のスコティッシュカップ優勝に貢献した[17]。2001-02シーズンのスコティッシュリーグカップ決勝、エア・ユナイテッドFC戦では2得点を挙げる活躍を見せた[18]。
2003年にカタールのカタールSCでプレーをした後、2005年に現役を引退した[17]。2012年6月、イングランド9部リーグのウェンブリーFCで現役復帰を果たし、レイ・パーラー、マーティン・キーオン、グレアム・ル・ソー、ブライアン・マクブライドらとともにプレー[19]。同年、再び現役を引退した。
代表経歴
アルゼンチン代表としては1987年6月7日に行われたイタリア代表との国際親善試合でデビュー[20]。同年6月から7月にかけて母国アルゼンチンで行われたコパ・アメリカ1987のグループリーグ第2戦、エクアドル代表戦で初得点を決めた[20]。
1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは、ディエゴ・マラドーナと2トップを組み、決勝トーナメント1回戦のブラジル代表戦では、マラドーナのスルーパスからブラジルを破るゴールを挙げた[20]。自身は後のインタビューで「私のキャリアにおいて最も重要な得点だ。なぜなら長年に渡るライバルチームとの対戦で、終始劣勢に立たされた状況の中であげた得点だからだ」と語っている[6]。準決勝のイタリア代表戦でもヘディングシュートを決め決勝進出に貢献したが[20]、この試合で不用意なハンドを犯し、累積警告により決勝戦の出場は叶わなかった[6]。このハンドについては「私のキャリアにおいて最も挫折を味わった瞬間のひとつ」と語っている[6]。
翌1991年にチリで開催されたコパ・アメリカ1991では、新たに代表入りをしたガブリエル・バティストゥータとのコンビで優勝に貢献[6]。自身はグループリーグの初戦のベネズエラ代表戦、第3戦のパラグアイ代表戦でそれぞれ1得点、合計2得点をあげた[21]
所属クラブでのコカイン服用の処分のためコパ・アメリカ1993の優勝メンバーには名を連ねることはできなかったが、処分明け後に代表に復帰すると、1994 FIFAワールドカップグループリーグ第2戦のナイジェリア代表戦で2得点をあげる活躍を見せた[6]。続くグループリーグ第3戦のブルガリア代表戦は怪我のため途中退場、決勝トーナメント1回戦のルーマニア代表戦では出場機会はなく、チームも敗退した[6]。
アメリカ大会後、新たに監督に就任したダニエル・パサレラから選手達に課せられていた「長髪禁止令」について、これを受け入れる意向を示し[22]、1996年には3試合に出場した[20]。その一方で、同年7月7日に行われた1998 FIFAワールドカップ・南米予選のペルー代表戦を最後に出場機会を失ったが[20]、本大会前にはクラブで好調を維持していたため、パサレラも代表複帰の可能性を口にしていたものの[23]、代表入りを逃した[10]。
その後、6年間にわたり代表から遠ざかっていたが、2002年2月に監督のマルセロ・ビエルサの下で代表復帰を果たし、ウェールズ代表とカメルーン代表との国際親善試合でプレーした[10]。2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されたが怪我のため出場機会はなく[24]、グループリーグ第3戦のスウェーデン代表戦では試合中の判定を巡りベンチから抗議を行った際、主審のアリ・ブジサイムから退場処分を受けた[24]。
代表歴
出場大会
- 1987年 - 2002年 アルゼンチン代表
- 1987年 - コパ・アメリカ(4位) 4試合2得点
- 1989年 - コパ・アメリカ(3位) 6試合2得点
- 1990年 - ワールドカップ・イタリア大会(準優勝) 6試合2得点
- 1991年 - コパ・アメリカ(優勝) 5試合2得点
- 1992年 - キング・ファハド・カップ(優勝) 2試合1得点
- 1994年 - ワールドカップ・アメリカ大会(ベスト16) 3試合2得点
- 2002年 - ワールドカップ・日韓大会(グループリーグ敗退) 出場なし
試合数
- 国際Aマッチ 50試合 15得点(1987年-2002年)[25]
| アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1987 | 6 | 2 |
| 1988 | 3 | 1 |
| 1989 | 7 | 2 |
| 1990 | 10 | 3 |
| 1991 | 6 | 2 |
| 1992 | 5 | 1 |
| 1993 | 2 | 1 |
| 1994 | 6 | 3 |
| 1995 | 0 | 0 |
| 1996 | 3 | 0 |
| 1997 | 0 | 0 |
| 1998 | 0 | 0 |
| 1999 | 0 | 0 |
| 2000 | 0 | 0 |
| 2001 | 0 | 0 |
| 2002 | 2 | 0 |
| 通算 | 50 | 15 |
得点
| ゴール一覧 | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 最終結果 | 試合概要 | |||
| 1 | 1987年7月2日 | エスタディオ・モヌメンタル | 1-0 | ○3-0 | 1987年コパ・アメリカ グループリーグ | ||||
| 2 | 1987年7月11日 | エスタディオ・モヌメンタル | 1-2 | ●1-2 | 1987年コパ・アメリカ 3位決定戦 | ||||
| 3 | 1988年10月12日 | エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン | 1-1 | △1-1 | 国際親善試合 | ||||
| 4 | 1989年7月2日 | エスタジオ・セラ・ドゥラーダ | 1-0 | ○1-0 | 1989年コパ・アメリカ グループリーグ | ||||
| 5 | 1989年7月8日 | エスタジオ・セラ・ドゥラーダ | 1-0 | ○1-0 | |||||
| 6 | 1990年5月22日 | ラマト・ガン・スタジアム | 2-1 | 〇2-1 | 国際親善試合 | ||||
| 7 | 1990年6月24日 | スタディオ・デッレ・アルピ | 1-0 | ○1-0 | 1990年ワールドカップ・イタリア大会 1回戦 | ||||
| 8 | 1990年7月3日 | スタディオ・サン・パオロ | 1-1 | △1-1(PK 4-3) | 1990年ワールドカップ・イタリア大会 準決勝 | ||||
| 9 | 1991年7月8日 | エスタディオ・ナシオナル | 2-0 | ○3-0 | 1991年コパ・アメリカ グループリーグ | ||||
| 10 | 1991年7月12日 | エスタディオ・ムニシパル | 4-1 | ○4-1 | |||||
| 11 | 1992年10月20日 | キング・ファハド国際スタジアム | 2-0 | ○3-1 | 1992年キング・ファハド・カップ 決勝 | ||||
| 12 | 1993年2月24日 | エスタディオ・ホセ・マリア・ミネージャ | 1-1 | △1-1(PK 5-4) | 第2回アルテミオ・フランキ・トロフィー | ||||
| 13 | 1994年5月31日 | ラマト・ガン・スタジアム | 3-0 | 〇3-0 | 国際親善試合 | ||||
| 14 | 1997年6月26日 | フォックスボロ・スタジアム | 1-1 | ○2-1 | 1994年ワールドカップ・アメリカ大会 グループリーグ | ||||
| 15 | 2-1 | ||||||||
脚注
- ^ a b “Appearances for Argentina National Team”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Caniggia, Claudio Paul” (Italian). Treccani: Enciclopedia dello Sport. 2015年6月3日閲覧。
- ^ “IL CANIGGIA RISCOPERTO” (Italian). La Repubblica (1994年5月11日). 2015年6月3日閲覧。
- ^ a b “Che fine ha fatto? Claudio Caniggia” (Italian). Calcio Mercato (2015年1月31日). 2015年6月3日閲覧。
- ^ “Baggio Takes Great Strides Toward Soccer Greatness”. The Orlando Sentinel (1994年6月15日). 2015年9月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “Argentina's 'Son of the Wind': Claudio Caniggia”. FIFA.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ 10. marzo 1993 Roma-Milan-Calcio.com
- ^ “SPORTS PEOPLE: SOCCER; Italian Star Faces Ban After Failing Test”. The New York Times (1993年4月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Darkness descends on the Stadium of Light”. The Scotsman. (1997年6月22日)
{{cite news}}:|access-date=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明)⚠ - ^ a b c “Mit 35 kehrt Claudio Caniggia in die argentinische Nationalmannschaft zurück Der letzte Rockstar”. Berliner Zeitun (2002年4月17日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Caniggia jugará en el Benfica de Lisboa”. EL PAÍS (1994年8月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Caniggia jugará en Atalanta”. LA NACION (1999年8月13日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Tirando paredes”. LA NACION (2000年5月14日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “El Dundee ficha a Caniggia”. LA NACION (2000年10月5日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia signs £1.5m deal to stay at Dundee”. telegraph (2001年1月4日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia agrees Rangers move”. Telegraph (2001年5月15日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b “Argentine great Caniggia retires”. BBC SPORT (2005年2月19日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia, la gran figura del Rangers”. LA NACION (2002年3月18日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Terry Venables' Wembley FC recruit former stars for FA Cup”. BBC SPORT (2012年6月21日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “Caniggia vuela a los 35”. LA NACION (2002年2月7日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Copa América 1991”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
- ^ “Caniggia se niega a obedecer a Pasarella”. EL PAÍS (1995年1月3日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ ワールドサッカーグラフィック 1998年5月号 34ページ
- ^ a b “Caniggia's World Cup ends in disgrace”. BBC SPORT (2002年6月12日). 2017年12月16日閲覧。
- ^ クラウディオ・カニーヒア - National-Football-Teams.com
外部リンク
- クラウディオ・カニーヒア - National-Football-Teams.com
- クラウディオ・カニーヒア - Soccerway.com
- クラウディオ・カニーヒア - Soccerbase.comによる選手データ
- クラウディオ・カニーヒア - FootballDatabase.eu
- クラウディオ・カニーヒア - WorldFootball.net
- クラウディオ・カニーヒア - Transfermarkt.comによる選手データ
- クラウディオ・カニーヒア - FIFA主催大会成績
- クラウディオ・カニーヒア - BDFutbol.com
- クラウディオ・カニーヒア - Munzinger Sports Archives
- プロフィール at Argentine Soccer
- BDFA.comによるプロフィール
- Futbol Factory profile (Archived)
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