規制緩和とレーガノミクス: 1974年-1992年
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「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「規制緩和とレーガノミクス: 1974年-1992年」の解説
「貿易促進権限」、「マイケル・ミルケン」、および「シャドー・バンキング・システム」も参照 規制緩和の動きはニクソンが辞任したときに始まり、フォード、カーターおよびレーガンの政権下で超党派の動きとなった。最も重要なのはエネルギー・通信・輸送・金融各分野から、グラス・スティーガル法とニューディール政策の規制を取り去ることだった。預金と貸付の規制を急いで緩和したが、一方連邦保険はそのままだった。これが預金・貸付危機となり、政府は推計で1600億ドルを失った。間接金融から逃避した資本は投資銀行の日欧進出を勢いづけた。なお、エネルギーは規制緩和の裏でカリフォルニアが固定価格買い取り制度を導入し、21世紀のスマートグリッド構想を草分けた。 1981年、ロナルド・レーガンが財政拡張政策であるレーガノミクスを導入し、連邦所得税の累進課税率を25%下げた。インフレ率は1980年の年13.5%から1983年の年3%まで劇的に低下した。これは短い景気後退と、連邦準備制度のポール・ボルカー議長が通貨供給量と利率を締め付けたことによっていた。実質GDPは1980年から1982年に収縮した後、成長を始めた。失業率は上がり続け、1982年後半に10.8%にも達した。一方、レーガノミクスは高金利政策も採用していた。それでアメリカとそれ以外の国の内外金利差が拡大しドル高傾向となっていた。そのため、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(日米英独仏)の蔵相が集まり、過度のドル高を是正することが決定された(プラザ合意)。その後失業率は急速に下降し、レーガン政権末期の1989年1月には5.4%のレベルになった。 レーガン政権を批判する者は、レーガンが大統領である間に上流社会経済階級と下流社会経済階級のレベル格差が拡がったという事実を指摘することが多い。レーガンの政策で生まれた国債は3倍(1981年の9300億ドルから1988年の2兆6000億ドル)と記録的なレベルに達したことも指摘している。20世紀後半のレーガン以前のどの大統領も、GDPに占める国債の比率を減らしていた。財政赤字に加えて、アメリカは巨額な貿易赤字も始まった(双子の赤字)。そこでレーガンは2期目の1986年に税制改革法を成立させた。このような形式だけでなく、あてになる金策を用意してあった。レーガンの高金利政策はドル高に着目するかぎり自滅的であったが、そうして集めた研究資金がプロパテント政策と相乗効果をあげた。知的財産と渉外産業の競争力を引き上げるというプロパテント政策は、すでに1980年のバイ・ドール法(Bayh–Dole Act)により始まっていた。この法律は、連邦資金によって研究開発した特許等を大学や中小企業が取得して活用する、スピンオフを認めるものである。大学にはメロン財閥が作るような財団と関係するものが多い。しかも大学は企業に技術移転をする窓口を設けた(TLO)。そして合衆国の財閥は投信で中小企業も支配した。プロパテント政策は税制改革のころに具体案が提出され、一方でウルグアイ・ラウンドが知財・渉外産業の門戸開放を実現した。1988年アメリカ合衆国大統領選挙で、前副大統領のジョージ・H・W・ブッシュがレーガンの後継者に選ばれた。ブッシュ政権の初期経済政策は基本的にレーガン政策の継続だった。1990年代初めに妥協に走り、議会民主党との協議で増税を行った。障害を持つアメリカ人法のような規制法に署名したり、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)の交渉を行ったりもした。1992年、ブッシュと第3の政党候補者ロス・ペローが民主党のビル・クリントンに敗れた。この90年代にミューチュアル・ファンドが「バイ・ドール方式」と一緒に欧州とアジアへ大量輸出された。 その後の規制緩和とグローバル化で、合衆国の会社がその製造や重工業を低賃金である第2、第3世界へ移すようになった。これが追い討ちをかけて、アメリカにおける所得の不均衡は劇的に増大した。2005年、合衆国のジニ係数は0.466に達した。この値はマレーシアやフィリピンの0.461と同じ水準となり、中国 (0.44)よりかなり上となった。共和党と民主党の両政権が1960年代以降に採用した「自由貿易」と「市場開放」などの経済政策は、次のように批判される。すなわち、貿易や合衆国における生産コストに恩恵を与えた一方で、合衆国の中産階級からその繁栄を取り去った。この期間、確かに消費者はかつてなかったほど多くの製品や商品を低価格かつ高品質で買っていた。もっとも、買い物予算はローンが残っている土地・住宅の資産インフレが生み出した可処分所得だったのかもしれないが。 1970年代以降、日本の自動車や家電製品がアメリカ国内でシェアを伸ばした。1980年代に入ると小型低燃費で品質が向上した日本車が輸出を一層拡大した。米国内の自動車産業と、部品をつくる鉄鋼・板ガラス産業は壊滅的な打撃を受けた。半導体を巡る対立がもっとも深刻だった。デトロイトでは人口流出が続きピーク時から半減し、人口の8割が黒人となった。対日貿易赤字が拡大する中で、牛肉等の畜産物や米・柑橘類の農産物に係る日本の関税に対する批判が高まり、ジャパンバッシングと呼ばれる反日キャンペーンがおこった(貿易摩擦)。そこで1988年に「包括通商・競争力強化法」(スーパー301条)が施行された。それは不公正な貿易慣行や輸入障壁がある、もしくはあると疑われる国を特定し、輸入品に対する関税引き上げという強力な報復制裁措置を行うというものだった。1989年7月14日の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に日米構造協議を提案し実現した。その結果、日本の公共投資の拡大、土地税制の見直しや大規模小売店舗法の規制緩和が進められた。このような国のあり方や文化にまで範囲を広げる交渉は前例の無いことだった。 なお、メガバンクの世界金融危機とその他に負う数々の責任が社会の目に明らかとなりつつあった矢先、デトロイトは2013年に財政破綻した。メガバンクの中には投資信託を売りまくるものもあったし、オイルショック時代に株価下落と金利上昇が起こる中で金を採掘する鉱山会社とのつながりから資金をほしいままにしたものもあった。そういう銀行にかぎって、世界金融危機のときサブプライムローンを投資信託のポートフォリオに混ぜて売っていたし、危機後に金採掘のピッチを上げたり英国ロンドンの貴金属市場で価格操作をしたりもしていた。そもそも日本製自動車の競争力は、合衆国の自動車会社が従業員の保険制度を手厚く保護し負担を価格に転嫁しており、日本ではそういうことをしていなかったという、ダンピングとは無関係の相対事情が生んだものであった。そして、そのアメリカで一番潤っている銀行団はデトロイトを助けなかった。彼らは1970年代に貯蓄貸付組合へ危険な投資信託を売りつけ、レーガンとブッシュの時代にS&L危機を引き起こした。自治体や組合をばかにしてきたのである。
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