規制緩和の荒波とロレンツォによる買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:32 UTC 版)
「コンチネンタル航空」の記事における「規制緩和の荒波とロレンツォによる買収」の解説
しかし、ジミー・カーター政権が1978年に航空自由化政策(ディレギュレーション)の導入を行なってから、コンチネンタル航空は迷走の時期に入る。 1981年には単年度で1億ドルもの赤字を計上するなど、業績の悪化していたコンチネンタル航空は、実業家のフランク・ロレンツォに買収されることになった。当初、コンチネンタル航空側は買収を警戒しており、労働組合は従業員持ち株制度(ESOP)の制定を会社側に要求していた。また、社長のアルビン・フェルドマンは、民間航空委員会(英語版)(CAB)に対してロレンツォの買収差し止めを訴えていた。これは、ロレンツォが業績が悪化していたテキサス・インターナショナル航空を買収した後、従業員の賃金を徹底的にカットし、従業員のリストラや不採算路線からの撤退も厭わない強引なコスト削減策を行い経営再建を行ったためであった。しかし、労働組合からのESOPを承認した翌日の1981年8月9日に、フェルドマンはロサンゼルス国際空港のコンチネンタル航空事務所で自殺してしまった。さらに追い討ちをかけるように、同年10月13日には、ロナルド・レーガン大統領が「今後政府およびCABは、航空会社の事業には一切口出しをしない。また、CABも近い将来解散させる」と表明した。これにより、コンチネンタル航空の抵抗は内外から崩れ、同年11月にロレンツォに買収された。 1982年10月31日にはテキサス・インターナショナル航空と合併し、本社もヒューストンに移転した。コンチネンタル航空の社長に就任したロレンツォは強引な手法を採った。1983年9月23日に連邦倒産法第11章(チャプター11)の適用を申請、コンチネンタル航空を破産させてしまったのである。全ての便の運航は停止され、12000人の従業員は全員解雇された。そして、ロレンツォは新たに4200人の再雇用を提案したが、給与水準は破産前の半分以下となり、これを了承した従業員だけを再雇用した。運航規模も76都市から25都市に削減された新生コンチネンタル航空が運航を再開したのは、破産からわずか3日後の9月27日からであった。
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