自己視
★1a.自己像を見る。
『古事記』上巻 天児屋命らが鏡を差し出して天照大御神に示す。そこに映る自分の姿を見た天照大御神は不思議に思い、天岩屋戸から身を乗り出す〔*『日本書紀』巻1神代上・第7段・一書第2は、日神尊が岩屋をあけた時、鏡を岩屋に差し入れたので、戸に触れて小さな傷がついた、と記す〕。
『古事記』下巻 雄略天皇が、紅の紐・青摺の衣服の百官を従えて、葛城山に登る。向かいの山を、天皇の行列と同じ装束・同じ人数の一行が登る。天皇が「何者か?」と問うと、向こうも同様の言を発する。天皇と百官が矢をつがえると、向こうの一行も皆、矢をつがえる〔*『日本書紀』巻14〔第21代〕雄略天皇4年(A.D.460)2月の類話では、帝が葛城山で長身の人に出会い、その顔や姿が帝によく似ていた、と記す〕。
『眉かくしの霊』(泉鏡花) 木曽奈良井の宿の料理人伊作が提灯を手に、柳橋から来た芸妓お艶(蓑吉)を案内して夜道を行く。美貌のお艶を、土地の猟師が魔性のものと見誤って鉄砲で撃ち殺す。1年後のある夜、その出来事を宿の客に語る伊作は、提灯を持った自分自身の姿が、お艶とともに湯殿の橋からやって来るのを見る。
*→〔アイデンティティ〕1aの『ドグラ・マグラ』(夢野久作)・〔映画〕1の『影』(芥川龍之介)・〔夢〕4の『ユング自伝』11「死後の生命」。
『2001年宇宙の旅』(キューブリック) 宇宙船ディスカバリー号が木星圏内に到った時、乗員ボーマンは不可思議な時空間に入りこむ。いつのまにかボーマンはどこかのホテルルームにおり、老いた自分自身が食事をする後ろ姿を見る。老いたボーマンは、壁際のベッドに、さらに老いた瀕死の自分が横たわるのを見る。瀕死のボーマンが手を伸ばす先には、黒石板(モノリス)が立っている。それは、かつて人類の黎明期に出現した、あの黒石板だった→〔骨〕3。
『孔雀』(三島由紀夫) 遊園地の孔雀たちが、2度にわたって殺された。40代半ばの中年男富岡が、「犯人ではないか?」と疑われるが、警察は「野犬のしわざであろう」と、結論づける。富岡は「人間が犬を使って孔雀を殺したのだ」と主張し、刑事とともに深夜の遊園地で張り込みをする。やがて刑事と富岡が見たのは、数頭の犬を連れて歩いて来る10代の頃の富岡の姿であった。
『現代民話考』(松谷みよ子)4「夢の知らせほか」第1章の1 「僕」が中国にいた頃に見た夢。野原を歩いていると、向こうから、「僕」に瓜二つの男がやって来る。男は右腕がなく、腰に電気工事の道具を下げ、男児と女児が2人ずつ男にしがみついていた。「僕」は男から逃れて川へ飛び込み、目が覚めた。その後、中国から引き揚げ、北海道に住んで、「僕」は男女2人ずつの子をもうけ、電気屋になり、事故で右腕を切断したのだ。
*ゲーテは8年後の自分と出会った→〔自己との対話〕1bの『詩と真実』(ゲーテ)第3部第11章。
『尼僧物語』(ジンネマン) 修道院の尼僧たちは、徹底的な自己放棄の生活を送らねばならない。1人の若い尼僧が、虚栄心の誘惑に負けて、自分の姿を窓ガラスに映して見た。他の尼僧が慈悲の心から、若い尼僧の行為を告発し、若い尼僧は大勢の前で、自らの罪を懺悔した。
『彼と六つ上の女』(志賀直哉) 親からもらう小遣いが少なく、本屋への支払いに窮する「彼」は、6歳年上の女から金を用立ててもらい、帰宅した。「彼」は外へ出る時、帰った時、手鏡で自分の顔を見る癖があった。それは、どうかすると我ながら自分の顔を美しく思うことがあるからだ。しかしその日、手鏡に映る「彼」の顔は醜かった。「彼」は荒(すさ)んだ気分で、それを見つめていた。
★1g.日本人が鏡に映る自分を見て、黄色人種のみすぼらしさを実感する。
『倫敦消息(『ホトトギス』所載)』(夏目漱石) ロンドンの街を散歩すると、逢う奴も逢う奴も皆、背が高くて立派で、何となく肩身の狭い心地がする。並外れて低い奴だと見えても、すれ違うと「自分」より2寸ばかり高い。「向こうから妙な顔色の一寸法師が来たな」と思ったら、それは「自分」が姿見に映っていたのだった。白人の世界では、黄色人種の皮膚の色は「人間を去る三舎色(人間とは思えない色だ)」と言わざるを得ない。
『クリスマス・キャロル』(ディケンズ) 強欲で冷酷な老人スクルージは、クリスマス・イヴの深夜に、精霊によって未来の幻像を見せられる。暗い部屋のベッドに死体が横たわり、見取る人も、泣いてくれる人も、世話をする人もなかった。精霊はスクルージを教会の墓地に連れて行き、スクルージの名前が刻まれた墓石を指さす。スクルージは「ベッドに横たわっていたあの男が私なのですか」と叫ぶ→〔クリスマス〕1a。
『小桜姫物語』(浅野和三郎)7 霊界で目覚めた「私(小桜姫)」は、「私」を指導する役の神さまに、「自分の遺骸を見たい」と願った。1度この眼で遺骸を見なければ、現世への諦めがつかなかったのだ。神さまは「私」の願いを容(い)れて、隠宅の一間に横たわる遺骸を見せて下さった。痩せた・蒼白い・醜い自分の姿に「私」はぞっとして、思わず「もう結構でございます」と言った。このことは、「私」の心を落ち着かせるのに、たいへん効能(ききめ)があった。
『日本霊異記』下-38 延暦7年(788)3月17日夜、景戒(=『日本霊異記』の著者)は夢で霊魂となり、死んで焼かれる自らの身体をそばで見ていた。うまく焼けないので、景戒の霊魂は小枝を取り、焼かれている身体を突き刺し裏返して「我がごとくよく焼け」と、先に焼いている人に教えた。
『夢を食うもの』(小泉八雲『骨董』) 「私」は夢で、寝台に横たわる自分の死骸と、通夜に来た6~7人の女客を見る。やがて客が去り、1人残った「私」は死骸に近よる。死骸が「私」に飛びかかってくるので、「私」は斧で死骸を切り裂く。この夢を獏に語ると、獏は「それは、妙法の斧で自我の怪物を退治する吉夢だ」と言った〔*→〔葬儀〕3の『狗張子』巻2-2「死して二人となること」と類似する〕。
★2b.自分の死体を見て、その中に入ろうとするが、なかなか入れない。
『今昔物語集』巻9-32 ある夜、男が冥府へ連れて行かれたが、人違いだったので、すぐ、この世へ返された。男は自宅に戻り、自分の身体が妻と寝ているのを見る。しかし身体の中に入ることができない。男は「自分は死んだのだ」と悟り、恐怖する。男はあきらめて壁際に移動し、そこで眠ってしまう。目覚めると、自分の身体の中に戻っていた。
★3.成長し変身した魂が、ぬけがらとなった自分の身体を見る。
『西遊記』百回本第98回 釈迦如来のいる霊山をめざし、三蔵法師と孫悟空たち一行は、底無しの渡し船に乗って大河を横切る。上流から死体が1つ流れて来るのを見て三蔵が驚くと、悟空は「あれはお師匠様ですよ」と笑う。死体は、三蔵が凡俗の肉身を捨て解脱したことをあらわしているのだった。
『ピノキオ』(コローディ) 怠け者のあやつり人形ピノキオは、造り主ジェペット爺さんとともにフカの腹中から脱出して以来、心を入れ替えて働くようになり、病気のジェペット爺さんの世話をする。ある朝目覚めるとピノキオは人間の子供になっており、椅子の上に、前身のあやつり人形がかかっていた。それを見たピノキオは、「あやつり人形だった時の僕は、なんて滑稽だったんだろう」と思う。
『勝五郎再生記聞』(平田篤胤)所引『北窓瑣談』 刑場に引き出された人が、既に精神も昏然とした状態だったが、気づくと屋根の上に座しており、下に、縛られた自身の身体と、傍らに妻子・親戚が集まっている有様を見た。しばらくして赦免の報が届き、その人は屋根から降りた。
*臨死体験をして、ベッド上の自分の肉体を見下ろす→〔糸〕7の『現代民話考』(松谷みよ子)5「死の知らせほか」第1章の1。
*→〔瓶(びん)〕3の『凶』の芥川龍之介は、「自らの死が近い」と感じたのであろう。
『聊斎志異』巻12-487「李象先」 李象先の前世は、ある寺の炊事係の僧だった。死んだ後、魂は僧坊の上に出て、市を行き交う人々を見下ろしていた。どの人も頭頂から、火の光が射し出ている。おそらく生者の身体の陽気なのだろう→〔乳房〕3。
★4c.上から自分の姿を見下ろしても、まったく無事であったということもある。
『現代民話考』(松谷みよ子)4「夢の知らせほか」第3章の2 現在高校の先生をしている或る人が、小学校3年生の時のこと。皆でキャンプに行って、川の側でお米をといでいた。ふっと気がついたら、自分がお米をといでいる姿を、上から見ていた。自分は上の方にいて、まわりが全部見える。「変だなー、変だなー」と思っているうちに、するするーっと元に戻ってしまった(東京都国分寺市)。
★5.「自分の姿を見た」と思い込み、死が近いことを覚悟する。
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(ゲーテ)第3巻第10~12章 青年ヴィルヘルムは劇団の一員となり、伯爵の屋敷に滞在する。伯爵の留守中、ヴィルヘルムは伯爵に変装し、伯爵夫人をからかうために部屋で待つ。そこへ思いがけず伯爵が帰館する。伯爵は、暗い部屋の中にヴィルヘルムを見てその場に立ちつくし、扉を閉めて去る。伯爵は「自己の姿を見た」と思い、これは死の前兆だから運命を平静に受け入れよう、と覚悟する。
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