緑の革命の功罪、批判と反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 01:40 UTC 版)
「緑の革命」の記事における「緑の革命の功罪、批判と反論」の解説
緑の革命は確かに産業としての農業の大増産を達成したが、一方でそれは化学肥料や農薬といった化学工業製品の投入なしには維持できなくなり、持続可能性が問われている。また、1970年代に入った頃から一部では生産量増加が緩やかになったり、病虫害や塩類集積によって逆に生産量を減らす例が出てきた。 東南アジアの稲作地帯では、多収量の短稈品種が導入されることで、それまで農村で様々な生活必需品の重要な素材であった稲藁が使用に適さなくなったため、農民は代替としてプラスチックなどの石油化学製品の購入を強いられたほか、農地農法の改良つまり化学肥料と農薬の使用などによる土壌汚染で、水田が淡水魚の繁殖地として機能しなくなり、農民の副食の自給力をそぐことになった。 このように緑の革命には、収量の増加や都市住民に安価な穀類の供給という正の側面とは裏腹に、農民達の貧困を少なからず助長する結果を招いたという負の側面も指摘されている。ただし、これらの負の側面の指摘に対する反論もあり、このような批判とそれに対する反論を列挙する。 近代品種を採用した農家が必ずしも豊かになっていないことから、緑の革命は農家の所得を改善していないという批判。さらに、多収量品種によって収量は増加したが、これに対応する需要は用意されなかったため、農産物の市場価格が暴落した。このため、新品種作物の作付けを増やしてさらなる深みにはまったり、農地を担保に借金をする農家が続出したという批判。これらの指摘は正しい。「豊作貧乏」の原理が働くために、農業における技術進歩は農民の利益には直結しないからである。しかし、これは緑の革命に責任があるのではなく、主食となる穀物については、需要が価格に対して非弾力的であり、技術進歩の恩恵が農民に行き渡らないことが基本的な原因である。よって、緑の革命が農民の所得の向上に結びつかないことを理由にそれを批判するべきではないという指摘がある。投機によって米価が急増した1973-84年を除けば、タイ米の国際米価の推移を調べると、緑の革命前ではほぼ安定的で、その後急激かつ継続的に減少してきた。この傾向は、緑の革命の影響であると考えられる。米価が下がれば、生活費が減少し都市の労働者は利益を得る。緑の革命の最大の受益者は消費者である、特に穀物の消費割合の高い貧困者家計は穀物価格の低下によって大きな利益を得たという指摘がある。更に、彼らがより安い名目賃金で働けば、労働費の減少につながり産業発展を刺激するという考えがある。ただし、緑の革命は経済全体の発展に対して正の影響を与えるが、実質米価が下がれば農民は全般的に損失を受ける。近代品種を採用した農家に限定すれば、新品種によって利益を受けているので、全体としての効果は必ずしも明らかにされていない。近代品種を採用できないような劣悪な生産環境で生産を行っている農家は、技術の進歩がない一方で生産物の価格が下がるため、生活水準は悪化する。その結果、労働人口が都市に移動したり、近代品種の採用によって潤っている地域に移動することになる。なお、相対的に富裕であるアジアの農民が近代品種を採用したために、穀物の国際価格が下落し、相対的により貧困であるアフリカの農民が困窮している傾向が認められている。 金持ちと貧乏な人の間ギャップを増やすという評判。インドは貧富の差が最も大きい国で、緑の革命により、規模が大きい農場主と規模が小さい農場主の富裕層と貧困層の格差が拡大してきた。農場主は高価な種子を販売し、利益を最大化するために農民を無料で雇うことさえある。南インドで緑の革命が実施された後、食糧を買うお金がなかったために自殺した農民がたくさんいた。 新品種が化学肥料や農薬を必要とするために、それを購入可能な富裕な地主や大規模農家だけが潤い、購入できない小作人や小農は新品種を採用できず、何の利益も得られないという批判。例えば、エチオピアの人道主義者アベベック・ゴベナ(en:Abebech Gobena)がフジテレビ系列『あいのり』247回でマラウイにて語った事によると、先進国からもたらされた新作物を政府からもらった地主たちが、経費削減のために小作人を解雇し大規模農場用の機械を導入した事により、失業者が増加。更に、先進国からの要望でこれらの農場がタバコやピーナッツやカカオなどの嗜好品作物のプランテーションにされ、しかも、そうして生産された作物は安い値段で取り引きされるために貧困に更に拍車をかけている。(参考:)ただし、タバコやピーナッツやカカオは、緑の革命とは直接関係のない作物である。また、これらは農業の機械化や大規模化や商品作物栽培や南北問題や土地所有形態や雇用形態のもたらす諸問題であり、緑の革命とは直接関係がない。これが事実であれば、緑の革命は農村内部での所得格差を拡大するという負の効果を持つ。しかし、実際には、こうした事実は1970年代においてもほとんど確認されておらず、1980年代においても認められていないという調査がある。その理由として、新品種の採用による収入の増加が購入コスト以上であるために、たとえ小農や小作農でも新品種を積極的に採用した為と考えられる。 生産環境の良好な地域と劣悪な地域の所得格差を拡大したという批判。確かに近代品種は灌漑のある地域や、天水田地帯でも水はけの良いような地域で高収量性を発揮し、他方、旱魃にさらされやすい傾斜地や大河の下流域では、近代品種の採用率は低い。しかし、緑の革命によって生産環境が良好な地域で賃金が上昇したため、生産環境が不良な地域から小農や土地無し労働者の地域間移動が起こった。それによって移動労働者が所得面で利益を得たばかりでなく、生産環境不良地域では人口圧力が緩和された。地域的に移動した小農や土地無し労働者は最も貧しい階層にもともと属しており、緑の革命は間接的に彼らに利益を与えたと考えられる。しかし、労働者の地域間移動が、金銭的・精神的苦痛を伴うことを考慮すれば、緑の革命が地域間の経済的厚生水準の格差を拡大したという指摘は正しい。 緑の革命によってもたらされた新品種作物の栽培には十分な水と施肥や農薬の多投が必要だが、そのために敷設された灌漑設備の不適切な管理による表土の塩類集積が大きな問題となっている。インドのパンジャブ州では6万 haのコムギ畑が塩害の被害にあったとされる。このような塩類集積による生産性の低下という批判。化学肥料や農薬の多投が土壌を疲弊させ、収量の低下を招いたという批判に対しては、統計的にはそうした傾向は観察されていないという意見もある。 新品種作物の種子代金と種子会社へのライセンス料金代金による経済的圧迫が、農家を脅かしているという批判。イネの緑の革命の品種開発はほとんどが公的機関でなされた。また、緑の革命に用いられたイネやコムギの品種はF1品種ではなく、交配によって得られたもののなかから選抜されたものを自家受粉を繰り返して形質が固定化された品種である。つまり、実った種子をまけば親と同じ形質の作物が得られるので、別の品種に切り替える、病原菌に種子が汚染された、などの特別の理由がない限り、新たに種子を購入する必要はない。しかし、新品種がトウモロコシのようにF1品種であった場合には、新品種作物が多収量を確保できるのは通常一世代限りであり、採れた種子を翌年の栽培に用いても期待通りの収量をえることができないため、毎年新たに種子を購入する必要がある。 緑の革命は化学肥料や農薬の需要を促し、肥料会社や農薬会社に利潤をもたらしただけであるという批判。この批判には一理あるが、農民がそれらを多投したのは、それが購入費用以上の利益をもたらすと判断したからである。更に肥料の増投がなければ、高収量を確保できない点を認識する必要がある。適切な有機質肥料を投入すれば、化学肥料を多投する必要はないが、化学肥料を選択したのは農民達自身である[要出典]。 農薬については、使用した農民が健康を害する深刻な被害をもたらしたという批判。病虫害に強い近代品種の開発や、農薬の使用を減らす技術的知識(総合的病害虫管理、Integrated Pest Management)の普及によって事態は大幅に改善されつつある。 以上の反論を纏めると、東南アジアや南アジア諸国では、緑の革命によってコメを始めとする穀物の生産性が飛躍的に向上し、結果としてそれが以下のように経済全体の発展を支えたということがいえる。 緑の革命によって穀物供給が増大し、その価格が減少したことによって都市の労働者を中心とした貧困層の経済厚生が高まった。 農業の効率化によって余剰となった労働者が都市に移動することによって工業化が促進された。 農村の最貧困層である土地なし労働者への労働需要が高まり、彼らの経済状態を改善した。 もし仮に緑の革命が起こらなかったとすれば、穀物価格は上昇し、労働者の生活水準は低下し、農村には多くの労働人口が滞留し、結果的に経済発展にブレーキがかかったであろうと推定される。 その他の批判として、それぞれの土地に古くから定着してきた栽培種が失われることにもなり、在来品種の保存も急務となっている(遺伝資源・遺伝的多様性の保全)。なお、優秀な品種の出現によって、旧来の品種が駆逐されることは従来よりあったことである。[要出典]ただし環境は一様なものではなく、在来品種には様々局面に適応し得る有益な遺伝子やゲノム構造性を持つものもある、多様な遺伝子の存在は将来の育種において貴重な選択肢になるので、その保全は重要である。 緑の革命の欠点を反省材料とし、自然農法の普及に努める人々が多く出ている。ただし、有機農産物には法律に基づいた定義が存在するが、自然農法には法律に基づいた明確な定義はなく[要出典]、自然農法とは栽培者や栽培団体の独自の基準に基づくものである。 一方、穀物の供給増加と価格の低下によって、森林を開墾して耕地化する動機付けが低下したために環境保全に役立ったという意見もある。これは、緑の革命がほとんど導入されていないため、既存の耕地からの食糧生産が停滞し、耕地拡大のために森林が伐採され、過剰放牧によって砂漠化が進行しているサハラ砂漠以南のアフリカの状況と、東南アジアや南アジアの状況は対照的であることからいわれている。
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