経済改革の歴史
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「ドイツ民主共和国の経済」の記事における「経済改革の歴史」の解説
ウルブリヒトは、経済的な効率においても、商品内容でも、西側に追いつき、追い越すことという計画を提唱したが、1950年代の終わりには幻想であることが明らかになった。その原因は、過度な「中央集権化」のなかに求めることができるであろう。この方針は、計画・指導の新経済システム(ドイツ語版)という綱領が出されたときに是正されるべきであった。党が決める計画経済を方向転換することも、ユーゴスラビアの「社会主義的市場経済」のような範例も、あまり考慮されなかった。 ウルブリヒトが提唱した、一流の産業部門を計画目標に合わせて助成するという構想では思った通りの成果が上がらないことがわかると、ホーネッカーは新たに中央集権化を推進するようになり、1970年代初めに、それまで民間であった企業のほとんどが国営化された。「小さな個人経営の手工業と小売業、飲食店だけが残った」。 1960年代の終わりから、当時主流だった人民公社連盟(ドイツ語版)は、ますます解体され、それに代わってコンビナートが建設された。そこでは合理化のために、人民公社の産業・研究・開発、売上が統一化され、統一的な指導体制のもとで管理された。それに結びついた高度な実質的な生産歩合は、高度な分業体制と効率性、生産性を犠牲にした。根本的な欠点は、この方法では除去することができなかった。 最新の設備を導入するだけの資金が不足していたので、多くの公社では際限なく消耗や修理をしなければならないという問題が生じた。事故が断続的に生じ、死亡事故に至ることまであったということが、その取り返しのつかない結果のひとつであった。また他にも、資材の配達が来ないことがしばしばあり、労働時間の膨大な無駄が生じた。 1970年代に計画の意図に従属していたのは、明らかに工業だけではなかった。農業は、とりわけ飢饉(1969年)や変化が生じたために、赤字になったので、1971年〜1981年には、およそ1,500万マルク分の穀類・飼料・肥料が非社会主義的経済圏から輸入されなければならず、1970年代の終わりには、さらなる農業の専門化が行われた。垂直統合や水平統合を行なっても、従業員数が多い割には、高いスケールメリットを示さなかった。農業の産業化は、土地の荒廃、水はけの悪化による水たまりの発生、地下水の枯渇など、生態系への悪影響を与えた。農業経営も、投資資金の不足に悩まされたコンビナートと同様の被害を被り、消耗した機材はたまにしか交換されなかった。というのも、農業機械は重要な輸出品であったからである。農業生産の体系的な比較を見ると、東ドイツでは、基本的な食料品がほとんど政府からの補助金に依存した価格が設定されていたため、資本市場が生産を促進することがなかった。 1971年、ホーネッカーは、SEDの第8回党大会で「経済政策と社会政策の両立(ドイツ語版)」という新しい方針を決議し、商品供給と社会保障を拡大させる路線をとった。しかし、社会保障の拡大は東ドイツの財政(ドイツ語版)を圧迫し続け、国家の負債を釣り上げた。1989年10月のシューラー・レポート(ドイツ語版)が、以下にこの展開を総括している。 1971年の第8回SED党大会(ドイツ語版)以降、消費は総じて国内の生産性を越えて大きく拡大している。国内の生産よりも消費が多かったため、非社会主義経済圏からの負債を背負わされることになり、1970年に200万ドイツマルクだった負債は、1989年には4,900万ドイツマルクにまで増大した。このことが意味するのは、第8回党大会以降の社会政策が、国内の生産性に基づいたものではなく、非社会主義経済圏からの負債をもたらすものだったということである。 1970年代のオイルショックは、東ドイツの経済には直接の影響を与えなかった。それどころか最初から東ドイツは、ソビエトの石油の加工することを通じて西側の外貨を獲得することができたので、経済相互援助会議加盟国内で石油価格が高騰した影響を遅らせることで利益を得ることができた。この時代には、東ドイツの経済力、重要な外交成果と国際的な評価も低下した。同時に、ホーネッカーの社会政策によって1972年以降、国民所得よりも比較にならないほど大きな支出が生じた。ソ連が経済的問題のために1981年〜1982年に特別価格での原油供給量を1900万トンから1700万トンに減らしたとき、東ドイツは環境負荷をかける国内の褐炭をますます必要とした。 いかに外貨の必要性が高まったていたかは、外国貿易会社の支援、インターショップ、西側の東ドイツ観光客に義務づけた最低外貨両替(ドイツ語版)額のような外貨獲得措置から想像することができるであろう。輸出支援はますます国内での商品供給の負担になり、企業の設備投資も困難にした。対外貿易省貿易調整部(ドイツ語版)のメンバーで国家保安省にも所属していたアレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキが指導し、西側との特殊な関係を温存していた貿易調整部は、外貨経営の特別部門を創設。その活動は極めて多種多様な領域に及んだ。東ドイツの美術品や骨董品を所有者から没収し、西側に売却した。他にも、献血から外貨が得られることがあったが、東ドイツ市民が海外の解放運動と連帯し止めさせた。西側のゴミや有害な産業廃棄物を東ドイツで貯蔵・廃棄処理することでも外貨を獲得した。特に採算がとれたのは、囚人の保釈金であった。東ドイツに対して西ドイツは、政治犯の釈放と移住に相当な額を支払っていた。1964年から1989年のあいだに、計33,755人の囚人に340万東ドイツマルク以上の保釈金が支払われた。例えばアフリカや中東への武器輸出も外貨獲得手段であった。 東ドイツ指導部は1977年から、エアフルト・ミクロエレクトロニク・コンビナート(ドイツ語版)の建設に集中的に着手し、合計で150億マルクも投資した。しかしソ連は1980年代半ばから軍事兵器を買い取ることはなくなり、市民向けの製品への切り替えは、西側の基本技術を使いこなせなかったために、馬鹿げたコスト構造になった。 社会政策のなかで中心的だった住宅建設計画を立てたときにも、東ドイツ指導部は明確に遅れていた。1971年から住宅建設計画が始まり、1984年に200万世帯の新居が完成し、また1988年にホーネッカーによって300万世帯の新居が完成したとのことだが、その数字は歪められていて、実際に建設されたのは、そのうちの約2/3であった。他方で、その時期に古い建物は、改修されず、ますます朽ち果てていった。 国家の投資計画は、技術的進歩が遅れた東ドイツ経済の衰退を食い止めることはできなかった。ここに計画経済の非効率性と、東ドイツ経済において投資が減退したことの結果が、ネガティブなかたちで現れている。ウルブリヒトの時代から西ドイツを追い抜くことに重要性が置かれ、あらゆる経済的な改革が行われたが、効果はでなかった。国民一人あたりの実質GDPで比較すると、1950年には西ドイツの50%であったのに、1985年にはもはや36%にまでなっていた。政治学者クラウス・シュローダー(ドイツ語版)によると、東ドイツ経済は、最終的に少なくとも20年近くも遅れていた。 アレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキは、1989年12月にSED党管理委員会(ドイツ語版)議長のヴェルナー・エーバーライン(ドイツ語版)に手紙で予言したのは、年内か新年まもなくに東ドイツの財政が破綻し始めるであろうということだった。しかし実際の対外債務の情報は、東ドイツ国内でも隠蔽されていたので、党の経済指導部には知らされなかった。貿易調整部(ドイツ語版)が支出していた貸出残高と外貨準備高が隠蔽されていたため、財政破綻の危機は、ゲアハルト・シューラー(ドイツ語版)の在職期間中に始まった。 企業の設備投資も1980年代にはますます悪くなっていった。ホーネッカーが提唱した「共産社会主義」は、莫大な企業の収益を国家予算に組みこみ、それを債権として投資に回した。しかし、投資対象には企業外の活動、例えば自由ドイツ労働総同盟の活動も含まれていた。 東ドイツ中央銀行(ドイツ語版)に対する人民公社の借金も、1989年には2,600億マルクに到達していた。さらに、生産設備の修繕費用が増大したことで、設備の更新投資は低下し、そこから資本の減耗が生じた。民兵組織の労働者階級戦闘団や企業内党組織(Betriebsparteiorganisationen)のような企業外活動が活発になると、無用に行政を増大させ、企業はさらに負担を被ることになった。したがって、東ドイツの経済を自力で回復させることは、極端に消費を制限することによってのみ可能であったであろう。 経済崩壊の徴候は1981年には現れており、1983年にははっきりしたものになった。……もし再統一が無かったら、東ドイツは予測のつかないほどの社会的な結果を伴った大惨劇になっていったであろう。……東ドイツの産業は、決して国内の力で立ち直ることはできなかったであろう。
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