東海道本線・山陽本線とは? わかりやすく解説

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東海道本線・山陽本線(呉線を含む)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 01:29 UTC 版)

国鉄C62形蒸気機関車」の記事における「東海道本線・山陽本線(呉線を含む)」の解説

原形41両は静岡(1両:C62 5)、浜松(2両:C62 6・28)、小路(6両:C62 3132・344043・44)、宮原(4両:C62 35364142)、姫路第二(3両:C62 293033)、岡山(6両:C62 1724・25373839)、糸崎(7両:C62 2・34・812・1522)、広島第二(5両:C62 1・7・9・1426)、下関(7両:C62 10・111316182327)の各機関区分散配置され、東海道本線・山陽本線にて既存C59形と共通運用で運転が開始された。当初敗戦直後困窮がまだ続いていたこともあり、長大編成急行・普通列車牽引充当された。なお、東北本線・常磐線輸送力強化のため、1949年昭和24年6月までに初期製造のうちの11両(C62 7 - 1122 - 2437 - 39)が軽軸重形に改造のうえ尾久宇都宮白河水戸の各機関区転出している。 1950年昭和25年10月1日ダイヤ改正で、東京 - 大阪間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間運転することとなり、運転曲線牽引する客車換算両数再検討されC59形では性能的に限界に近いと判断された。このため当時東海道本線・山陽本線で運用されていたC62形各車は浜松名古屋小路宮原4区集中配属となり、中でも特に調子良いものが宮原浜松の両機関区集められ、これらを整備の上当時非電化浜松 - 京都間から戦前電化されていた大阪駅までの牽引充てることとなった宮原機関区では配属車両中でもC62 2935はじめとする好調機、普通機C62 2などの不調機と、識別のためにそれぞれナンバープレートの色変更した上で3グループ分けられ、トップグループから優先的に急客牽引充当された。 本形式は、上述のごとき特急運用でその性能いかんなく発揮し列車運転時分短縮貢献することができた。特に宮原機関区では、自動給炭機スクリュー状の送りねじを回転させて給炭する機構制約上、投炭時に石炭くずが発生しやすい)の使用控え人力で投炭することにより、乗客にとって不快なシンダ煙突から排出される石炭燃えカス)の発生抑えた伝えられている。本形式大きな火格子面積や、関ヶ原越えを含む厳し線路条件求められる燃料量などを考慮するならば、この人力投炭は、きわめて過酷な労働であった推察される。 東海道本線電化区間名古屋稲沢米原と西に伸びるに従って、本形式はじめとする本線蒸気機関車運用区間縮小されていったが、1956年昭和31年11月19日ダイヤ改正における東海道本線全線電化完成により、全区間でその座をEF58形電気機関車に譲るまでは非電化区間特急「つばめ」・「はと」の牽引機務め1954年以降名古屋機関区宮原機関区所属車の一部重油併燃装置取り付けて特急「つばめ」・「はと」の牽引定数それまで500 t から550 t に引き上げた東海道本線運用されていた本形式は、電化進行に伴い7両(C62 2・32730・3242・44)が軽軸重形に改造のうえ後述する北海道へ転出したが、多く小路広島第二、さらに下関などの機関区へと転属し、C59形とともに山陽本線主な運用区間として京都 - 博多間の特急「かもめ」寝台特急あさかぜ」・「さちかぜ」・「はやぶさ」「みずほ」急行きりしま」・「筑紫」・「雲仙」・「阿蘇」などの、当時代表する優等列車牽引充当された。だが、1958年昭和33年8月14日岩国市付近踏切にて、上り特急「かもめ」牽引していたC62 4と進駐軍トレーラートラック衝突する事故発生し同機1960年昭和35年1月27日付でC62形最初廃車となっている。 1956年昭和31年11月19日ダイヤ改正寝台特急あさかぜ新設後も山陽本線を通る優等列車増強され、1958年昭和33年10月1日ダイヤ改正に「あさかぜ」用として登場し以後1959年昭和34年7月20日ダイヤ改正での寝台特急「さくら」運転開始などで増備続けられ20系客車姫路 - 下関間では本形式牽引した。しかし、特急「かもめ」1961年昭和36年)にキハ82系導入気動車化され寝台特急急行列車牽引区間幹線電化進展によって姫路駅岡山駅、ついで広島駅以西次第狭められていき、1964年昭和39年10月1日には山陽本線全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅下関機関区配置車は全車電化完成前日の9月30日広島機関区(旧広島第一機関区)・広島運転所(旧広島第二機関区)へと転属した。広島機関区広島運転所配置車は急行音戸」の広島 - 下関間など電化から漏れた山陽本線西部岩徳線一部列車充当され1965年からは山陽本線補助線として特別甲線規格整備されていた呉線を受け持つため蒸気機関車配置区として残されていた糸崎機関区広島機関区広島運転所から本形式順次転属呉線経由運転されていた急行安芸」などを糸崎 - 広島間で牽引する運用C59形とともに充当され続けた。もっとも、これらの運用充てられた本形式急行音戸」の広島 - 下関牽引1966年昭和41年9月電気機関車置き換えられ1967年昭和42年)には岩徳線運用D51形置き換えにより広島機関区広島運転所配置車が全廃となるなど次第に数を減らし呉線直通列車以外の山陽本線運用糸崎機関区からの機関車回送兼ねて残され糸崎 - 広島間の下り普通列車1本と一部臨時列車除き1968年昭和43年10月1日ダイヤ改正までに消滅した呉線運用では、1967年昭和42年10月1日常磐線全線電化後述)で余剰となった軸重形5両(C62 233746 - 48)が同年10月上旬から順次機関区から糸機関区転属、同区で廃車対象となっていた重軸重形5両(C62 514・182534)を置き換えた一方で軸重から重軸重形への改造行われないまま使われていたが、編成重量呉線内の単機牽引定数一杯となる12編成460 t であった急行音戸」を牽引した際には16前後勾配区間連続する安登駅周辺空転頻発したため、1969年1月から編成重量比較的軽い「安芸」は重軸重・軽軸重問わず形式牽引基本となる一方、「音戸」などの重量列車牽引はより軸重の重いC59形限定運用分離され同年中には軸重形3両(C62 46 - 48)が検査期限都合もあり廃車となった。さらに1970年昭和45年3月にはC62 41検査期限切れ廃車となり、糸崎機関区では本形式運用余裕なくなったことから一部旅客列車運用D51形代走することもあった。呉線電化工事1970年昭和45年8月完成同月22日からは一部蒸気機関車牽引列車電気機関車連結して訓練を行う電蒸運転9月15日からは上り安芸」などで電機単独運転も行われるようになり、山陽本線呉線での運用1970年昭和45年9月30日最後となった最後まで運用された5両のうち2両(C62 1516)は小樽築港機関区転属C62 17稲沢第一機関区経て名古屋市内へ保存の手配がとられたが、常磐線電化による転属車で最後まで残った2両(C62 2337)は廃車となり、糸崎機関区からは本形式配置なくなったこれをもってC62 1新製配置以来22年渡った東海道・山陽本線系統での運用終止符打たれた。

※この「東海道本線・山陽本線(呉線を含む)」の解説は、「国鉄C62形蒸気機関車」の解説の一部です。
「東海道本線・山陽本線(呉線を含む)」を含む「国鉄C62形蒸気機関車」の記事については、「国鉄C62形蒸気機関車」の概要を参照ください。

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