旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:06 UTC 版)
上白岩遺跡 - 縄文時代の遺跡。完全な配石遺構として貴重。 大宮神社の社叢 白山神社の大楠 来宮神社の鳥居杉 田代城跡 - 田代信綱の居城。承久の乱で活躍。 大見城跡(大見城址公園) 大井上靖学術文献資料館 - 農学者の大井上靖。葡萄「巨峰」を創作。
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旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 18:28 UTC 版)
粟柄関所跡 松屋集落から林道を経て登山口に至る途中に粟柄関所跡の石碑が建てられている。 峠の石仏 峠付近に約2.5mの大きな岩をくり抜いて彫られた石仏が安置されている。かなり風化が進んでおり、細部は分からないが、三面の顔を持ち、馬頭観音ではないかと言われている。荷駄を運ぶ馬の安全を守る仏として祀られた。 道標 現在は失われているが、昭和11年(1936年)の粟柄峠の記録には、峠付近に「左山道 右高島越」と刻まれた道しるべがあったという。 峠の石仏 峠から見た赤坂山 滋賀県側の登山道、石畳が残る
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旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/27 09:06 UTC 版)
教会 (1452年建設, 1692年改装) Zbaski家の墓所とSanti Gucci (1587年)による彫像がある。 鐘楼 (18世紀建設) 門 1911年建設) 教区司祭館 (1778年 - 1782年建設) 司教の家と教区学校 共同墓地 Commune Hall (19世紀建設) postal inn (18世紀建設) テルメ (19世紀建設の公衆浴場)
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旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/15 21:15 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 節内の全座標を出力 - GPX 位置データを出力 - RDF表示 御砂持ち神事旧跡碑:明治32年(1899年)に建立。「氣比神宮御砂持神事 二代眞教上人御舊跡 月清し 遊行の持てる 砂の上」の碑文を刻む。もとは神楽町の西方寺にあったが、昭和20年(1945年)敦賀空襲により寺院が焼失、昭和28年(1953年)に現在地の松島町来迎寺近くに移転し、石碑も移設された。 西方寺跡:神楽町2丁目のキッズパークつるが(旧・原子力PR施設アクアトム)前に標柱が建つ。御砂持ち神事の由来の説明板も設置されている。この場所には、戦前は氣比神宮の大鳥居と向かい合うように御影堂があり、神楽町の古名「めんどまえ(御影堂前)」の由来となっていた。 芭蕉句碑:氣比神宮と常宮神社に句碑がある。芭蕉銅像:氣比神宮内の銅像の台座に「月清し」の句が刻まれている。昭和57年(1982年)除幕。 露塚:上記芭蕉像の後方に設置。「なみだしくや」の句碑。昭和31年(1956年)建立。 遊行塚:常宮神社に「月清し」の句碑があるが、風化が進み判読が困難である。文政5年(1822年)建立。遊行上人のお砂持ち神事のあと、常宮神社にも参拝し、和歌を奉納することとなっており、その関係で設置されたと見られている。 遊行上人御砂持ち銅像:国道8号を挟んで氣比神宮大鳥居の正面にもっこを担いだ遊行上人他阿の銅像が設置されている。 出雲屋跡:相生町商店街のレストランうめだ前に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」と刻まれた標柱が建てられている。旧町名では唐仁橋町にあたる。 遊行の砂持ちの旧跡北緯35度39分2.2秒 東経136度3分32.3秒 / 北緯35.650611度 東経136.058972度 / 35.650611; 136.058972 (遊行の砂持ちの旧跡) 西方寺跡北緯35度39分13.1秒 東経136度4分12.7秒 / 北緯35.653639度 東経136.070194度 / 35.653639; 136.070194 (西方寺跡) 氣比神宮の芭蕉像北緯35度39分15.7秒 東経136度4分29.2秒 / 北緯35.654361度 東経136.074778度 / 35.654361; 136.074778 (芭蕉像) 氣比神宮の芭蕉句碑(露塚)北緯35度39分15.5秒 東経136度4分29.8秒 / 北緯35.654306度 東経136.074944度 / 35.654306; 136.074944 (露塚) 常宮神社の芭蕉句碑(遊行塚)北緯35度41分22.5秒 東経136度1分46.6秒 / 北緯35.689583度 東経136.029611度 / 35.689583; 136.029611 (遊行塚) 芭蕉が逗留した出雲屋跡北緯35度39分20.7秒 東経136度4分11.7秒 / 北緯35.655750度 東経136.069917度 / 35.655750; 136.069917 (出雲屋跡)
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旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 23:53 UTC 版)
松尾芭蕉の句碑(鐘塚) 『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた芭蕉は、宿の主人から南北朝時代の金ヶ崎の戦いの故事を聞いた。すなわち、戦いに敗れた新田義顕が陣鐘を海に沈めたその後、その鐘を海から引き上げようとしたが、逆さに沈んでいたためできなかったというものである。この話を聞いた芭蕉は「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」と詠んだ。芭蕉の没後68年目に、敦賀の俳人である白崎琴路らが、その句碑を建立した。福井県内で最も古い芭蕉の句碑のみならず、日本海側で最も古いものである。 地蔵の祠 芭蕉句碑の近くにタイル張りの祠が3つ並んでおり、真ん中の祠には「若越二番 地蔵菩薩」の石柱が建てられている。これは若越新四国八十八箇所の第2番を意味しており、もともとは気比蔵寺が第2番札所であったが、敦賀空襲で寺社が焼失し本尊が金前寺に安置されたため、気比蔵寺にあった石地蔵が金前寺近くに移され、札所になったということである。 古井戸 地蔵の祠のすぐそばに古井戸についての説明札が立てられている。これによると、かつては金前寺のすぐそばまでが砂浜であり、泉浜と言われていた。この井戸は、泉浜に入港する北前船の給水用として使われていた。井戸は建屋で囲われていたが、敦賀空襲で焼失したとのことである。
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旧跡など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:37 UTC 版)
気比の松原は古くから多くの貴人、歌人、文化人に愛で賞されており、近代以降に以下のような多くの記念碑や句碑などが建立されている。 駐輦(ちゅうれん)の碑-1891年(明治24年)9月建立1878年(明治11年)10月、明治天皇は北陸を巡幸し、気比松原に立ち寄り、白砂青松を讃えたという、その後、1891年(明治24年)に勝海舟が訪れ、当時の明治天皇の行幸を回想し、以下のような漢詩を詠んだ。 「會経駐輦處 黎首憶甘棠 松嶺如奏曲 海涛和洋々」 意訳「ここは、かつて明治天皇が輦(天子の乗る手押し車)を駐め、風景をご覧になった場所である。国民は明治の善政を喜んでいる。松林を揺らす風は音楽のようであり、波の音もそれに合わせ洋々たる様子である。」 皇太子殿下御展望所の碑大正天皇が皇太子だった1909年(明治42年)9月に北陸三県を視察し、これを記念して建てられた。氣比神宮と金ヶ崎城跡にも記念碑がある。 西福寺道標-1916年(大正5年)7月建立「西福寺道 是より 西十五町」と刻まれた角柱の道標。浄土宗西福寺は、南北朝時代の1368年(南朝:正平23年、北朝:貞治7年/応安元年)開山の古刹。気比松原からほぼ真西2キロメートル程度の距離である。 東宮御成年式記念運動場碑-1919年(大正8年)5月建立 東宮とは皇太子時代の昭和天皇である。1919年(大正8年)に行われた成年式を記念し整備されたグラウンドであることを示す。 松原公園標柱-1920年(大正9年)11月建立 松原小学校近くの公園入口に4メートルの高さの大きな石碑が建つ。この碑文「松原公園」は、東京市長も務めた後藤新平の書である。碑文の原本は私立敦賀郷土博物館に展示されている。 名勝 氣比ノ松原の碑-1928年(昭和3年)6月史蹟名勝天然記念物保存法による指定を受けたことを記念する碑。 高浜虚子句碑-1980年(昭和55年)10月再建最晩年の1957年(昭和32年)10月4日に高浜虚子は敦賀の名所旧跡を訪れ、多くの俳句を残した。もとの句碑の風化損傷が進んだため再建した。 「松原の 続くかぎりの 秋の晴」 石塚友二句碑-1986年(昭和61年)6月除幕新潟県出身の俳人、小説家である石塚友二は、この地の風情を愛し、敦賀をたびたび訪れた。1966年(昭和41年)に詠んだ句であり、敦賀市の花である萩の若葉を若者にたとえ、その成長を願ったものであるという。 「後塵は 拝すべからず 萩若葉」
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