フランス王妃
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「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「フランス王妃」の解説
アンリ2世はカトリーヌが如何なる政治的影響力を持つことも許さなかった。国王が不在中はカトリーヌが摂政の役割を担ったが、権限を厳しく制限されており、名目的なものに過ぎなかった。アンリ2世はカトリーヌが貰い受けることを望んだシュノンソー城をディアーヌ・ド・ポワチエに与えてしまい、彼女はここを権力の中枢となしてパトロネージを施し、贈物を受け取った。 神聖ローマ帝国大使は、アンリ2世は来客たちの前でディアーヌの膝に座ってギターを弾き、政治について語り、または彼女の乳房を愛撫していたと報告している。ディアーヌはカトリーヌを脅威と認識していた。彼女は国王にカトリーヌと寝室を共にして、もっと子供をつくるよう勧めた。1556年、カトリーヌは双子の娘を出産した際に死にかけている。医師たちはカトリーヌの命を救うために双子の一人の脚を折り、その子は彼女の胎内で死亡した。生き残った子も7週間後に死亡した。以後、カトリーヌが子を生むことはなくなった。 アンリ2世の治世にギーズ家兄弟が台頭し始めており、次男のシャルルが枢機卿となり、アンリ2世の幼馴染の長男フランソワがギーズ公となった。彼らの姉メアリー・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世と結婚して1538年にスコットランド女王メアリーの母后となった。メアリーは5歳半の時にフランス宮廷に招かれ、王太子フランソワと婚約した。カトリーヌはメアリーを自分の子供たちとともにフランス宮廷で育て、一方でメアリー・オブ・ギーズは娘の摂政としてスコットランドの統治にあたった。 1559年4月3日から4日、アンリ2世は神聖ローマ帝国およびイングランドとカトー・カンブレジ条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させた。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚約が取り決められていた。同年6月22日にパリで挙行された代理結婚式(英語版)は祭典や舞踏会、仮面劇そして5日間にわたる馬上槍試合で祝われた。 アンリ2世はディアーヌのシンボル・カラーである黒と白の羽根飾りを身にまとって馬上槍試合に臨んだ。アンリ2世はギーズ公とヌムール公を破ったが、若いモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュは彼を強打して落馬しかけさせた。アンリ2世はモンゴムリ伯に再戦を挑み、この時、モンゴムリ伯の槍が国王の顔面を突き刺した。アンリ2世は落馬し、顔面からは血が噴き出し、「とても大きな」破片が目や頭に突き刺さっていた。 この事態にカトリーヌ、ディアーヌそして王太子フランソワはみな卒倒した。アンリ2世はトゥルネール城に運び込まれ、ここで5つの木片が頭から引き抜かれたが、そのうち一つは眼球を貫通して脳に達していた。カトリーヌは王の枕元に侍したが、ディアーヌは、当時の年代記作家によれば「王妃によって追放される恐怖のために」、遠ざかった。続く10日間、アンリ2世の容体は揺れ動いた。手紙を口述し、音楽を聴くほど回復することもあったが、次第に彼は視力、言語能力そして意識を失い、7月10日に死去した。その日以来、カトリーヌは「これが私に涙と痛みをもたらした」("lacrymae hinc, hinc dolor")と刻んだ折れた槍のエンブレムを用い、アンリ2世を悼む黒い喪服を常に着用するようになった。
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フランス王妃
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「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「フランス王妃」の解説
1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月17日にジェームズ5世の従妹に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議した。さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、イングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させた。 7月10日にアンリ2世が亡くなると、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けた。イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なものであり、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題であった。 またローマ教皇を含む多くのカトリックは、実際にメアリーがイングランド女王であると考えていた。
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フランス王妃
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「アンヌ・ド・ブルターニュ」の記事における「フランス王妃」の解説
1491年に結婚してから、アンヌ・ド・ブルターニュはフランス王妃であった。『ブルターニュ公国とフランス王国との間に平和を確保するため』、結婚契約が維持されていたのである。1492年2月8日、アンヌはサン=ドニ大聖堂でフランス王妃として戴冠した。彼女の夫は、妻がブルターニュ女公の称号を名乗ることを禁じた。ガブリエル・ミロンが王妃の侍従兼主治医となった。ミロンは王妃のために1499年1月1日、ルイ12世と条約を締結させた。 アンヌは妊娠に多くの時間を費やした(平均して14ヶ月ごとに子供を産んでいた)。イタリア戦争のため王が不在となると、1483年から1491年にかけてアンヌ・ド・ボージューが摂政を務めた。アンヌ・ド・ブルターニュはまだ若く、摂政は義理の妹を疑わしく思っていたのである。彼女はブルターニュでのようにフランスで役割を持つことは少なく、時には年端もいかぬ自分の子供たちから引き離されることも受け入れなくてはならなかった。アンヌは主に、王家の所有するアンボワーズ城、ロシュ城、プレシ・レ・トゥール城、またはリヨンといった都市、王がイタリア遠征中にはグルノーブルやムーランに滞在していた。アンボワーズで、シャルル8世は彼女をクロ・リュセ城に住まわせた。この館にはのち、レオナルド・ダ・ヴィンチが滞在する。彼女はそこに小さな礼拝堂を持っていた。 シャルル8世がナポリ王国を占領すると、アンヌはシチリア王妃とエルサレム王妃となった。 シャルル8世が急死すると、ブルターニュにおけるフランス王の権利を行使する継承者として、彼女はブルターニュ公国の行政の長となった。特に、彼女は忠実なフィリップ・ド・モントーバンの賛同を得てブルターニュ宰相職を復活させ、ブルターニュ中将として彼の後継者であるオランジュ公ジャン4世・ド・シャロン=アルレー(fr)を任命した。彼女はブルターニュ三部会を召集し、彼女の名で硬貨を鋳造した。 シャルル8世の死から3日後、ルイ12世との結婚の原則が同意され、彼は1年以内に自らの最初の結婚の無効を取り付けることを約束した。彼女は、ルイ12世とエタンプで結婚の約束を交わした後、ルイ12世とジャンヌ・ド・フランスの結婚の取り消しの審理が始まったわずか数日後である、1498年10月に初めてブルターニュに帰国した。アンヌは『ブルターニュ歴訪』を行ったとき、幼すぎて訪れることのできなかった多くの場所を訪問した。彼女の家臣たちは盛大に歓迎し、彼女は祝祭、巡礼、そして公国の都市への凱旋で人々と触れ合った。 1499年のアンヌとルイ12世の結婚契約は、根本的にアンヌとシャルル8世の結婚契約とは異なる条件で結ばれた。負けた側の子が、未亡人となった若い王妃であり、今や誰もが主権を認めるブルターニュ公であり、対して配偶者となるのはかつての同盟者、友、そして王位継承権請求者であった。シャルル8世との結婚契約とは異なり、新たな結婚契約は、彼女が公国とブルターニュ公の称号の唯一の継承者としてブルターニュに完全な権利を認めるものだった。しかしながら、ブルターニュの主権は『女公の配偶者』(duc consort)の称号を持つルイ12世が行使し、女公に代わって決定がなされていた。アンヌはブロワで生活して、そこではブルターニュ女公として全ての書類に署名していた。彼女はナント大聖堂に、4つの美徳である慎重、不屈、節制、正義の象徴を備えた、両親の墓碑を建てた(アンヌの死後、遺志によって彼女の心臓がここに戻された)。イタリアのあらゆる芸術がますます王妃によって育成されていった。ルイ12世が病床につくと治癒祈願として彼女はトロ・ブレイスを行った。 2人の間の娘で公国の継承予定者クロードは、1501年にカール・フォン・ルクセンブルクと婚約した。これはイタリア戦争の続行を容易にし、スペインとの同盟関係を強固にし、アンヌ自身の目的である、最初の夫マクシミリアンの孫息子とクロードを結婚させることにあった。この結婚契約に1501年8月10日、リヨンにて、ブザンソン司教ビュスレダン、ギヨーム・ド・クロイ、ニコラ・ド・リュッテル、ピエール・レスマン(カールの父フェリペ1世の大使)が署名した。しかし、当時フランスにはドーファンが不在であったため、王国が外国に完全に包囲されてしまい、アンヌとルイの子孫がフランス王国を継承することがないと予測され、外国人とクロードの婚約は解消された(サリカ法典を遵守するフランス王国では、王女であるクロードに王位継承権はなかったが、ブルターニュ公国では女性に継承権が認められていた)。ルイ12世に最も近いフランス王位継承予定者として、アングレーム伯の子フランソワ(のちのフランソワ1世)がクロードと婚約した。アンヌは、自らの死の4ヶ月後の娘の結婚に最後まで反対し続けた。彼女は未来のカール5世との結婚による同盟関係に固執していたのである。
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