スリガオ海峡夜戦での最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:35 UTC 版)
「扶桑 (戦艦)」の記事における「スリガオ海峡夜戦での最期」の解説
詳細は「レイテ沖海戦」を参照 1944年(昭和19年)10月25日未明、扶桑は第一遊撃部隊(第二艦隊)第三部隊(通称西村艦隊)指揮官西村祥治第二戦隊司令官の指揮のもと、全7隻(戦艦〈山城、扶桑〉、重巡洋艦最上、駆逐艦4隻〈満潮、朝雲、山雲、時雨〉)という戦力でレイテ湾へ突入中、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅した。扶桑も雷撃され沈没した。経過は以下の通り。 10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)はブルネイ泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した。対空機銃を増設した関係で、扶桑には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる。劣速で航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為、同24日、第一遊撃隊とは別コースのスリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指した。栗田艦隊(とくに戦艦武蔵)がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊はミンダナオ海で急降下爆撃機約20(空母エンタープライズ、フランクリン所属機)による空襲を受けたのみであった。 扶桑ではカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた。最上は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告し、西村司令官は栗田長官にあてた電報で「戦闘力発揮支障ナシ」と報告した。 『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で扶桑の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった。 同日夜、アメリカ海軍の魚雷艇部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦最上と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、山雲)を先行させ、直率3隻(山城、扶桑、時雨)の探照灯で魚雷艇を攻撃しつつ航行した。 明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いるアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群は、丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。西村艦隊は満潮→朝雲→山城《旗艦》→扶桑→最上、旗艦(山城)の右1.5kmに山雲、左に時雨という単縦陣で海峡に侵入した。さらに完全な単縦陣に移行しつつ砲撃を開始、魚雷艇部隊や駆逐艦隊に向けて砲弾を放った。午前3時、アメリカ軍の駆逐艦隊は魚雷多数(27本)を発射、うち1本が扶桑右舷に命中した。最上戦闘詳報では午前3時以降の攻撃で扶桑右舷中央部に魚雷が命中して落伍、最上が山城の後ろに続行したと記録している。一連の雷撃により、駆逐艦3隻(満潮、山雲、朝雲)は沈没するか戦闘不能となった。なお、西村中将は扶桑が落伍したことを知らなかったとみられる。一方、時雨は落伍した艦を山城、健在艦を扶桑と誤認していた。その後午前3時10分(アメリカ軍記録0338)、扶桑第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発が発生して扶桑の船体は真っ二つに割れたというが、駆逐艦ハッチンスの戦闘報告によると横転して艦体は二つに折れたが爆発はしていないという。。 一方、時雨は扶桑(実際は山城)に対し『我貴隊に続行す』を発信、西村司令官(山城座乗)は扶桑に対し『出し得る最大速力知らせ』を発信した。古村啓蔵少将(元扶桑艦長、第二水雷戦隊司令官)は先に山城が沈没し、阪匡身少将(扶桑艦長)が西村艦隊の指揮を継承したのち3隻(扶桑、最上、時雨)を率いて突進した…と記述している。同様の記述(山城が魚雷命中により午前3時すぎに爆沈、扶桑艦長が健在の最上と時雨を指揮して突入)は一部の書籍でも散見される。午前4時以降、アメリカ戦艦部隊・巡洋艦部隊・駆逐艦部隊の砲雷撃集中により西村司令官は戦死(山城沈没)、最上、時雨共に損傷してスリガオ海峡より反転・撤退した。同時刻、レイテ湾の状況をつかめないまま航行していた第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官:重巡洋艦〈那智、足柄〉、第一水雷戦隊〈阿武隈〔一水戦司令官木村昌福少将〕、霞、不知火、潮、曙〉)は、前方に閃光や砲声を認めつつ戦場に到着した。彼等は海峡中央で火達磨となった艦影二つ(霞戦闘詳報によれば三つ)を確認した。一つは炎上中の最上であった。志摩艦隊の将兵は残る二つの艦船を扶桑と山城と判断したが、実際には分断された扶桑であった。第二遊撃部隊は扶桑残骸の西側を通過しようとしたが、那智は低速退避中の最上と衝突した。その後、志摩艦隊は避退に成功した。 アメリカ軍によれば、扶桑艦首前半部分は午前4時20-30分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は午前5時20分頃に重巡洋艦ルイビルが砲撃して沈めた。退避中の朝雲も追撃してきたアメリカ艦隊の砲撃で沈没。最上も25日午前中に空襲を受けて、駆逐艦曙により雷撃処分された。最後まで山城と扶桑を誤認していた駆逐艦時雨は、損傷しつつも離脱に成功した。沈没位置は日本側の記録では、レイテ湾 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯10度24分 東経125度21分 / 北緯10.400度 東経125.350度 / 10.400; 125.350、アメリカ軍の記録では北緯10度25分 東経125度20分 / 北緯10.417度 東経125.333度 / 10.417; 125.333となっている。[要出典] 多くの資料で扶桑艦長の阪匡身少将を含む幹部以下全員が戦死したとあるが、記録では扶桑所属乗組員7名がマニラ地区の地上兵力に編入された。異説としては扶桑にも山城と同様10名の生存者がいて戦後帰還しているとする江崎寿人大尉(山城主計長)の証言もあり、同じ日に沈んだ山城では自軍に救助された乗組員が存在しない事から情報が混同されている可能性もあり、日米の証言、資料にも差があり、詳細は未だ不明の様である。また、戦後レイテ沖海戦時扶桑二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹(当時)が沈没時の様子を描いた手記を残している。 1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。
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