ザ・タイガース時代までとは? わかりやすく解説

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ザ・タイガース時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:29 UTC 版)

岸部一徳」の記事における「ザ・タイガース時代まで」の解説

京都市生まれ育つ。9人きょうだい三男(すぐ下の四男が岸部四郎)。父親は元憲兵であった小学1年生途中で伯母(父の姉)を頼って熊本県引っ越すが、一年後には再び京都へ戻る。その後小学校だけで4回ほど変わるなど転校多かった京都市立北野中学校瞳みのる同級生となり、ともに牛乳配達アルバイトをするなど親交を結ぶ。京都市立伏見工業高等学校建築科進学住居左京区となる。別の高校進んだ瞳とは交友がいったん途絶える高校2年生の頃に四条河原町再会森本太郎加橋かつみ加えた4人で遊ぶようになった1964年12月12日には地元京都新聞夕刊読者写真コンテストに「踊る若者たち」というタイトル入選した作品に偶然写ったこともあった。翌1965年に、4人によってバンドサリーとプレイボーイズ」が結成され、これが「ザ・タイガース」の母体となった。このバンド名は当時岸部が、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けてサリー」と仲間からあだ名されていたことに由来する。「サリー」のあだ名は後のザ・タイガース時代にも愛称となった岸部バンドベーシスト務める。1966年にはボーカル沢田研二加えてバンド名を「ファニーズ」と改称京都大阪高い人気を得る。 同年11月上京しグループは「ザ・タイガースとなった同時にファニーズ時代の瞳に代わって岸部リーダーとなる。また、グループ上京させた内田裕也の命でメンバー芸名決めた際、本名読みを「おさみ」に変えている。 1967年2月5日シングル僕のマリー/こっちを向いて』でデビューB面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツザ・スパイダースとは異な若手GSとして脚光を浴びボーカル沢田や瞳の大人気相まってシングル4目の『君だけに愛を』で一気頂点上り詰め以降解散までGS王者」として君臨する当時ベーシストとしてだけでなく、一部楽曲では本格的なバリトンヴォイスを披露したタイガース時代のみならず、後のPYG井上堯之バンド時代通して岸部コーラス沢田研二ボーカル引き立てるために重要な要素であった当時タイガースファン層10代少女中心だったこともあり、アイドルとして人気華やかな沢田と瞳に集中する反面大人びた雰囲気であった岸部には男性ファン多く付いていた。また、リーダーとして沢田をはじめメンバーから厚く慕われていた。また、メンバー中でもかなりの音楽通として知られ当時アメリカ滞在していた弟の四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースステージでレパートリーは、主に岸部選曲し、ギター森本太郎アレンジをするといった形で決められていった1969年メンバー加橋かつみ脱退を受け、弟の四郎シロー)を新メンバーとして加入させる1970年には四郎と『サリー&シロー名義アルバムサリー&シロー トラ70619』を発売した沢田単独でのテレビ出演など増えてきたこの時期、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースメンバームッシュかまやつミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。 1971年1月24日日本ミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってタイガース解散した

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ザ・タイガース時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:02 UTC 版)

瞳みのる」の記事における「ザ・タイガース時代まで」の解説

京都市上京区出身父親は傘製造営んでいた。のちにザ・タイガースメンバーとなる森本太郎京都市立仁和小学校から、岸部一徳京都市立北野中学校からの同級生で、岸部とはアルバイトなどでも二人で行動していた。京都府立山城高等学校夜間部進学し働きながら学んでいた。在学中は、日本民主青年同盟民青)や社会科学研究会社研)でも活動していた。岸部とは高校分かれためいった親交途切れるが、1963年頃に四条河原町再会森本加わって遊び仲間となり、2年後には(加橋かつみ加えてバンド結成へと至る。これが「ザ・タイガース」の母体となり、瞳はドラム担当となった1966年沢田研二メンバー加わりバンドは「ファニーズ」として京都・大阪で高い人気得た一方父親からは勘当を受け、自活余儀なくされた。 この頃、瞳は創価学会所属していた。そのきっかけは、つきあいのあった先輩バンドザ・リンド&リンダース」のメンバーから折伏受けたことだったという。大阪バンドメンバー合宿生活を送っていた頃、瞳は毎朝勤行おこない他のメンバーからは迷惑に思われていた。後述の上京の際にも、瞳は途中で別れて大石寺立ち寄っている。自著によると多忙極めたその後日々から疎遠になり離れたという。 1966年11月上京、「ザ・タイガース」の瞳みのるとして活動する本名から「瞳みのる」の芸名変更したのは上京後である)。『ピー』の愛称で、「ジュリー」の愛称を持つボーカル沢田に次ぐ人気博し雑誌表紙ピンナップ何度も単独飾った人気スターであった当時、2大アイドル雑誌呼ばれたセブンティーン」「ティーンルック」の創刊号表紙は、両方とも沢田と瞳が飾っている。 「イタズラっ子からかわれ役」的なキャラクターアイドルとして人気不動のものとしたが、プライベートでは非常に真面目な性格努力家でもあった。デビュー前、「ファニーズ」として活動していた頃はリーダーとして、当時関西アマチュアバンド登竜門といわれた大阪ジャズ喫茶ナンバ一番」のオーディションを受けさせてもらえるよう熱心に売り込みかけたりナンバ一番に来ていた内田裕也声を掛けられ上京勧められたものの、その後内田から一向に音沙汰がなかった際には、グループ代表し宣伝材料携え単身東京代々木上原内田宅を訪れ、話を進めてもらえるよう交渉するなど、ザ・タイガースプロデビューひとえに瞳の努力賜物といって過言ではなかった。 ヨーロッパオセアニア、そして日本ビートルズ凌ぐ熱狂的な人気得ていたザ・ウォーカーブラザースの大ファン1968年1月武道館公演時には宿泊先である東京ヒルトンホテル陣中見舞い訪れている。 調布市府中市三鷹市に跨る)の米空軍住宅地である関東下士官家庭足を運び英語のレッスン受けたり休日でもスタジオ一人篭り一日中ドラムス練習打ち込むなど、その努力家ぶりはメンバーにも一目置かれていた。 テクニシャンではないものの、将来はジャズドラマーを目指していた独特のリズム感躍動感をもったドラムプレイは高く評価され彼の影響受けたドラマーも多い。平均睡眠時間4時前後休み年に一度程度ハードスケジュール追われるザ・タイガースには新曲練習する十分な時間がとれず、レコーディングスタジオミュージシャンによる演奏多かったことは有名であるが、ドラムスだけはほとんどの曲において彼自身叩いている。レコーディングにおいてボーカルコーラス参加することがほとんどなかった瞳のポリシーでもあった。 グループ囚われることのないソロミュージシャンタレントとして大い期待されていた。1968年秋頃より顕著となってきたメンバー間における人間関係複雑化自身求めバンド在り方事務所売り出し方針ズレ芸能界の汚い面云々思い悩むようになり、1969年3月脱退した加橋かつみ続いて同年5月ヨーロッパへ失踪試みた際には岸部中井マネージャー事務所より9月解散を仄めかされ思い留まる。 こうしてバンドメンバーを含む関係者芸能人仲間との交流から徐々に疎遠となっていき、代わりに文化人などとの親交温める中で、自らが高校時代唯一真面目に取り組むことが出来た中国語」を極め文学者目指したいという思い強まっていく。作家柴田錬三郎との出会い親交きっかけ復学考え、そして、芸能界仲間ファンの熱心な説得にも拘らず解散後芸能界引退決意ファンにも堂々とその意思公表する1971年1月24日日本人アーティストとしては初の単独日本武道館公演となった解散公演「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」でグループ解散直ちに瞳は芸能界引退する解散後ザ・タイガース元メンバー達との一切交流断ち切りマスコミからの度重なる取材依頼に対して徹底して拒否姿勢貫いていた。 1981年1月の「さよなら日劇ウエスタンカーニバル」においてザ・タイガース再結成した際は、元メンバー関係者からの人づて連絡に対して頑ななまでに応じない姿勢痺れ切らせ内田裕也が、日吉慶應義塾高等学校校舎まで押しかけ面会を迫るも断固拒絶され挙句の果て警官出動する事態にまで発展したという。1981年11月ザ・タイガース本格的な再結成発表し、翌1982年コンサートツアー行った際は、参加しなかった瞳に配慮し、「来たい人だけ来ればいい」という意味合いから「ザ・タイガース同窓会」と銘打ちメンバーは「再結成」とは決し称しなかった。 2008年沢田研二NHK総合テレビSONGS」に出演し長く会うことがない瞳に奉げた歌「Long Good-by」を歌唱した。こういったことや、ザ・タイガースの元マネージャー中井国二の働きかけもあり2008年12月沢田岸部一徳森本太郎その後加橋かつみと、東京相次いで38年ぶりの再会果たした2010年初め頃から、複数元メンバーザ・タイガース2011年再結成を仄(ほの)めかし始め、ついに2011年9月から、沢田研二ライブ参加するという形で、加参加しなかったが、40年ぶりの瞳みのる全国ツアーへの参加実現することになり、全国熱狂的なファン歓迎受けた

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