ザ・タイガース時代まで
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京都市で生まれ育つ。9人きょうだいの三男(すぐ下の四男が岸部四郎)。父親は元憲兵であった。小学1年生の途中で伯母(父の姉)を頼って熊本県へ引っ越すが、一年後には再び京都へ戻る。その後も小学校だけで4回ほど変わるなど転校が多かった。京都市立北野中学校で瞳みのると同級生となり、ともに牛乳配達のアルバイトをするなど親交を結ぶ。京都市立伏見工業高等学校建築科に進学、住居も左京区となる。別の高校に進んだ瞳とは交友がいったん途絶えるが高校2年生の頃に四条河原町で再会、森本太郎や加橋かつみも加えた4人で遊ぶようになった。1964年12月12日には地元の京都新聞夕刊の読者写真コンテストに「踊る若者たち」というタイトルで入選した作品に偶然写ったこともあった。翌1965年に、4人によってバンド「サリーとプレイボーイズ」が結成され、これが「ザ・タイガース」の母体となった。このバンド名は当時の岸部が、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けて「サリー」と仲間からあだ名されていたことに由来する。「サリー」のあだ名は後のザ・タイガース時代にも愛称となった。岸部はバンドでベーシストを務める。1966年にはボーカルに沢田研二を加えてバンド名を「ファニーズ」と改称、京都や大阪で高い人気を得る。 同年11月に上京し、グループは「ザ・タイガース」となった。同時にファニーズ時代の瞳に代わって岸部がリーダーとなる。また、グループを上京させた内田裕也の命でメンバーの芸名を決めた際、本名の読みを「おさみ」に変えている。 1967年2月5日、シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダースとは異なる若手GSとして脚光を浴び、ボーカルの沢田や瞳の大人気も相まって、シングル4枚目の『君だけに愛を』で一気に頂点へ上り詰め、以降解散まで「GSの王者」として君臨する。 当時はベーシストとしてだけでなく、一部の楽曲では本格的なバリトンヴォイスを披露した。タイガース時代のみならず、後のPYGや井上堯之バンド時代を通して、岸部のコーラスは沢田研二のボーカルを引き立てるために重要な要素であった。 当時のタイガースのファン層は10代の少女が中心だったこともあり、アイドルとしての人気は華やかな沢田と瞳に集中する反面、大人びた雰囲気であった岸部には男性ファンが多く付いていた。また、リーダーとして沢田をはじめメンバーから厚く慕われていた。また、メンバーの中でもかなりの音楽通として知られ、当時アメリカに滞在していた弟の四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースのステージでのレパートリーは、主に岸部が選曲し、ギターの森本太郎がアレンジをするといった形で決められていった。 1969年、メンバーの加橋かつみの脱退を受け、弟の四郎(シロー)を新メンバーとして加入させる。1970年には四郎と『サリー&シロー』名義でアルバム『サリー&シロー トラ70619』を発売した。沢田単独でのテレビ出演などが増えてきたこの時期、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースのメンバーにムッシュかまやつやミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。 1971年1月24日、日本のミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってタイガースは解散した。
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ザ・タイガース時代まで
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京都市上京区出身。父親は傘製造を営んでいた。のちにザ・タイガースメンバーとなる森本太郎は京都市立仁和小学校から、岸部一徳は京都市立北野中学校からの同級生で、岸部とはアルバイトなどでも二人で行動していた。京都府立山城高等学校の夜間部に進学し、働きながら学んでいた。在学中は、日本民主青年同盟(民青)や社会科学研究会(社研)でも活動していた。岸部とは高校が分かれたためいったん親交が途切れるが、1963年頃に四条河原町で再会、森本も加わって遊び仲間となり、2年後には(加橋かつみも加えて)バンド結成へと至る。これが「ザ・タイガース」の母体となり、瞳はドラム担当となった。1966年に沢田研二がメンバーに加わり、バンドは「ファニーズ」として京都・大阪で高い人気を得た。一方、父親からは勘当を受け、自活を余儀なくされた。 この頃、瞳は創価学会に所属していた。そのきっかけは、つきあいのあった先輩バンド「ザ・リンド&リンダース」のメンバーから折伏を受けたことだったという。大阪でバンドメンバーが合宿生活を送っていた頃、瞳は毎朝勤行をおこない、他のメンバーからは迷惑に思われていた。後述の上京の際にも、瞳は途中で別れて大石寺に立ち寄っている。自著によると多忙を極めたその後の日々から疎遠になり離れたという。 1966年11月に上京、「ザ・タイガース」の瞳みのるとして活動する(本名から「瞳みのる」の芸名に変更したのは上京後である)。『ピー』の愛称で、「ジュリー」の愛称を持つボーカルの沢田に次ぐ人気を博し、雑誌の表紙やピンナップを何度も単独で飾った人気スターであった。当時、2大アイドル雑誌と呼ばれた「セブンティーン」「ティーンルック」の創刊号の表紙は、両方とも沢田と瞳が飾っている。 「イタズラっ子でからかわれ役」的なキャラクターでアイドルとしての人気を不動のものとしたが、プライベートでは非常に真面目な性格で努力家でもあった。デビュー前、「ファニーズ」として活動していた頃はリーダーとして、当時関西のアマチュアバンドの登竜門といわれた大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けさせてもらえるよう熱心に売り込みをかけたり、ナンバ一番に来ていた内田裕也に声を掛けられ上京を勧められたものの、その後内田から一向に音沙汰がなかった際には、グループを代表し、宣伝材料を携え単身東京代々木上原の内田宅を訪れ、話を進めてもらえるよう交渉するなど、ザ・タイガースのプロデビューはひとえに瞳の努力の賜物といっても過言ではなかった。 ヨーロッパ、オセアニア、そして日本でビートルズを凌ぐ熱狂的な人気を得ていたザ・ウォーカーブラザースの大ファンで1968年1月の武道館公演時には宿泊先である東京ヒルトンホテルへ陣中見舞いに訪れている。 調布市(府中市、三鷹市に跨る)の米空軍住宅地である関東村の下士官家庭へ足を運び英語のレッスンを受けたり、休日でもスタジオに一人で篭り、一日中ドラムスの練習に打ち込むなど、その努力家ぶりはメンバーにも一目置かれていた。 テクニシャンではないものの、将来はジャズドラマーを目指していた独特のリズム感や躍動感をもったドラムプレイは高く評価され、彼の影響を受けたドラマーも多い。平均睡眠時間4時間前後で休みは年に一度程度のハードスケジュールに追われるザ・タイガースには新曲を練習する十分な時間がとれず、レコーディングはスタジオミュージシャンによる演奏も多かったことは有名であるが、ドラムスだけはほとんどの曲において彼自身が叩いている。レコーディングにおいてボーカルやコーラスに参加することがほとんどなかった瞳のポリシーでもあった。 グループの枠に囚われることのないソロのミュージシャン、タレントとしても大いに期待されていた。1968年秋頃より顕著となってきたメンバー間における人間関係の複雑化、自身の求めるバンドの在り方と事務所の売り出し方針のズレ、芸能界の汚い面云々に思い悩むようになり、1969年3月に脱退した加橋かつみに続いて同年5月にヨーロッパへ失踪を試みた際には岸部や中井マネージャー、事務所より9月の解散を仄めかされ思い留まる。 こうしてバンドメンバーを含む関係者や芸能人仲間との交流から徐々に疎遠となっていき、代わりに文化人などとの親交を温める中で、自らが高校時代に唯一真面目に取り組むことが出来た「中国語」を極め、文学者を目指したいという思いが強まっていく。作家柴田錬三郎との出会いや親交をきっかけに復学を考え、そして、芸能界の仲間やファンの熱心な説得にも拘らず、解散後は芸能界の引退を決意。ファンにも堂々とその意思を公表する。 1971年1月24日、日本人アーティストとしては初の単独日本武道館公演となった解散公演「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」でグループは解散、直ちに瞳は芸能界を引退する。 解散後はザ・タイガースの元メンバー達との一切の交流を断ち切り、マスコミからの度重なる取材依頼に対しても徹底して拒否の姿勢を貫いていた。 1981年1月の「さよなら日劇ウエスタンカーニバル」においてザ・タイガースが再結成した際は、元メンバーや関係者からの人づての連絡に対しても頑ななまでに応じない姿勢に痺れを切らせた内田裕也が、日吉の慶應義塾高等学校校舎まで押しかけ面会を迫るも断固拒絶され、挙句の果てに警官が出動する事態にまで発展したという。1981年11月にザ・タイガースが本格的な再結成を発表し、翌1982年にコンサートツアーを行った際は、参加しなかった瞳に配慮し、「来たい人だけ来ればいい」という意味合いから「ザ・タイガース同窓会」と銘打ち、メンバーは「再結成」とは決して称しなかった。 2008年、沢田研二がNHK総合テレビ「SONGS」に出演し、長く会うことがない瞳に奉げた歌「Long Good-by」を歌唱した。こういったことや、ザ・タイガースの元マネージャー中井国二の働きかけもあり2008年12月、沢田や岸部一徳、森本太郎、その後、加橋かつみと、東京で相次いで約38年ぶりの再会を果たした。2010年初め頃から、複数の元メンバーがザ・タイガースの2011年再結成を仄(ほの)めかし始め、ついに2011年9月から、沢田研二ライブに参加するという形で、加橋は参加しなかったが、40年ぶりの瞳みのるの全国ツアーへの参加が実現することになり、全国で熱狂的なファンの歓迎を受けた。
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