ザ・タイガース期とは? わかりやすく解説

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ザ・タイガース期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:13 UTC 版)

沢田研二」の記事における「ザ・タイガース期」の解説

詳細は「ザ・タイガース」を参照 京都ダンス喫茶田園」でドアボーイアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ17歳沢田ローディーボーカリストになった。そのステージ見たサリーとプレイボーイズサリー岸部修三=現・岸部一徳)からリード・ボーカルとして誘われ翌年元日沢田サリーとプレイボーイズに正式加入グループ名は「ファニーズ」と改めたファニーズは、大阪ジャズ喫茶ナンバ一番」に出演した際に、上条英男スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのる東京代々木上原内田裕也愛人宅を訪ね、瞳の熱意甲斐あってメンバー全員渡辺プロ契約上京後ザ・ヒットパレードプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる)。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名勧められたが、沢田本名やりたい拒否している。 1967年2月5日シングル僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気グループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出るとりわけ端整な容姿持った沢田は、貴公子存在として10代少女20代女性中心に熱狂的な人気獲得した1968年8月12日ザ・タイガース後楽園球場開催した真夏の夜祭典」は、日本初めてのスタジアムコンサート。なお、ソロとしてスタジアムコンサート田園コロシアムザ・タイガースPYGとしても開催)、大阪スタヂアムナゴヤ球場横浜スタジアム東京ドーム大阪ドーム開催している。 1969年3月1日アメリカ音楽雑誌中でも歴史長く、最も権威ある音楽雑誌一つローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙登場日本版刊行される前の同誌において、日本人表紙飾ったのは、これが最初で最後だった。 1971年1月24日日本武道館行われたザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でグループ解散した

※この「ザ・タイガース期」の解説は、「沢田研二」の解説の一部です。
「ザ・タイガース期」を含む「沢田研二」の記事については、「沢田研二」の概要を参照ください。

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