橋田邦彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 14:06 UTC 版)
「科学する心」を推称、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっている。
日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺をした。
経歴
鳥取の漢方医藤田謙造の次男として生まれ、鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)在学中に河村郡長瀬宿の医師橋田浦蔵の養子となる。第一高等学校医科[1]から東京帝国大学医学科を卒業し、生理学教室に入った。1914年(大正3年)ドイツに留学。1918年の帰国後は生理学助教授。1922年(大正11年)に教授に就任し、実験的生理学、ことに電気生理学の研究、発展につとめた。生理学の多くの著作の他に、哲学をよくし、禅に通じた。
1940年(昭和15年)6月に第2次近衛内閣に文部大臣として入閣、次いで第3次近衛内閣、東條内閣と留任して1943年(昭和18年)4月まで務めた。 1945年(昭和20年)9月14日、戦争犯罪の容疑で出頭を求められ、杉並区荻窪の自宅に荻窪警察署長、特別高等警察主任が迎えに来たところで服毒自殺した[2](トイレで青酸カリを服用し、自宅玄関で「さあ出かけましょう」と靴をはきかけたところで絶命した)。享年64。
年譜
- 1908年 - 東京帝国大学医科大学医学科卒業
- 1909年 - 東京帝国大学医科大学助手
- 1914年 - 生理学研究のため欧州留学(〜1918年9月)在独中、第1次世界大戦の日独交戦のためスイスで研究継続。
- 1918年 - 東京帝国大学医科大学助教授
- 1921年 - 医学博士
- 1922年 - 東京帝国大学教授
- 1935年 - 文部省思想視学委員
- 1937年 - 第一高等学校校長兼任
- 1940年 - 第2次近衛内閣の文部大臣に就任
- 1941年 - 文部大臣兼大日本青少年団長、10月の東條内閣成立後も留任。11月に文部大臣の充て職で大日本産業報国会顧問に就任[3]
- 1944年 - 教学錬成所長(親任官待遇)
人物
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- 今日でも科学教育の分野でしばしば用いられる「科学する心 」というフレーズは、橋田が1940年に発表した同名の著作が嚆矢と言われている。また、国民学校の教育課程において、理科と算数の関連性を強めたり、1年生段階から自然観察を盛り込ませるなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。
- 道元と中江藤樹を深く尊敬しており、現在も藤樹の墓の側に橋田の碑がある他、道元の『正法眼蔵』について解説した著作を出している。
- 招聘されたものの、当初から教育政策を巡り東条英機首相と意見があわず、軍部が進めようとした大学等の高等教育機関の就学年限短縮と学徒出陣などに反対していたとも言われる。
弟子
弟子に本川弘一、杉靖三郎、時実利彦、勝木保次、山極一三らがいる。
- ^ 『第一高等学校一覧 明治33-35年』
- ^ 元文相、戦犯で出頭の直前に服毒自殺『朝日新聞』昭和20年9月15日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p697 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 役員を正式に任命、総裁は金光厚相『中外商業新報』昭和15年11月24日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p427 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 森納『因伯の医師たち』178頁に橋田邦彦夫妻と養女恵美子の写真が掲載されている
- ^ 森納『因伯の医師たち』175-176頁
- ^ 森納著『因伯の医師たち』177頁
- ^ 山極一三、「橋田先生の御最期」、『日本医事新報』、昭和22年10月1日号
- ^ 東大生理学同窓会、「追憶の橋田邦彦」、鷹書房、昭和51年7月10日
- ^ 東大生理学同窓会、前掲書
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