橋田邦彦 橋田邦彦の概要

橋田邦彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 23:56 UTC 版)

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橋田邦彦

「科学する心」を推称、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっている。

日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。その名声ゆえに近衛文麿東條英機首相より文部大臣として招聘された。このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺をした。

経歴

鳥取漢方医藤田謙造の次男として生まれ、鳥取中学在学中に河村郡長瀬宿の医師橋田浦蔵の養子となる。第一高等学校から東京帝国大学医学科を卒業し、生理学教室に入った。1914年大正3年)ドイツに留学。1918年の帰国後は生理学助教授。1922年(大正11年)に教授に就任し、実験的生理学、ことに電気生理学の研究、発展につとめた。生理学の多くの著作の他に、哲学をよくし、に通じた。1945年(昭和20年)9月14日太平洋戦争敗戦の責を負って、東京荻窪の自邸において自決した。享年64。

年譜

人物

  • 今日でも科学教育の分野でしばしば用いられる「科学する心 」というフレーズは、橋田が1940年に発表した同名の著作が嚆矢と言われている。また、国民学校の教育課程において、理科算数の関連性を強めたり、1年生段階から自然観察を盛り込ませるなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。
  • 道元中江藤樹を深く尊敬しており、現在も藤樹の墓の側に橋田の碑がある他、道元の『正法眼蔵』について解説した著作を出している。
  • 招聘されたものの、当初から教育政策を巡り東条英機首相と意見があわず、軍部が進めようとした大学等の高等教育機関の就学年限短縮と学徒出陣などに反対していたとも言われる。

弟子

弟子に本川弘一杉靖三郎時実利彦勝木保次らがいる。

家族 親族

実家(藤田家)
  • 父 謙造(漢方医)
  • 兄 敏彦(生理学者)
養家(橋田家)
  • 父 浦蔵(医師)
  • 妻 きみえ(橋田浦蔵の養女
  • 養女 恵美子[1]



  1. ^ 森納『因伯の医師たち』178頁に橋田邦彦夫妻と養女恵美子の写真が掲載されている
  2. ^ 森納『因伯の医師たち』175-176頁
  3. ^ 森納著『因伯の医師たち』177頁
  4. ^ 山極一三、「橋田先生の御最期」、『日本医事新報』、昭和22年10月1日号
  5. ^ 東大生理学同窓会、「追憶の橋田邦彦」、鷹書房、昭和51年7月10日
  6. ^ 東大生理学同窓会、前掲書


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