東北地方 歴史

東北地方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/03 09:34 UTC 版)

歴史

畿内政権の律令制中央集権体制下では、出羽国は越国北陸道)の先にある沿岸国(船で到達できて畿内に近い)、陸奥国は東山道を徒歩で行くために、「道奥=みちのおく(みちのく)」すなわち内陸国と見なされていた。そのため、現在のような測量された地図がなかった時代には、出羽は日本海沿岸の政治勢力の版図、陸奥は本州奥地の政治勢力の版図とされ、その境界は在地の政治勢力の盛衰にしたがって変化し、必ずしも奥羽山脈できれいに東西に分かれていたわけではない。蝦夷俘囚)勢力が後退した鎌倉時代以降は、政権のある鎌倉からは陸奥国の方が近くなり、また、鎌倉と出羽国とは船での繋がりをもてなかったために出羽の沿岸国としての意味合いが薄れ、奥羽両国を一括して「奥州」とするようになった。

奥州(東北地方)は、近畿地方の諸政権(平氏政権室町幕府豊臣政権)が支配した時代には、政権所在地からは遠いため、半独立的な政治勢力が生まれていた。しかし、関東地方の諸政権(鎌倉幕府江戸幕府明治政府)には近いため、政権への従属的傾向が強くなる。明治以降は、北海道や東京への移住で知識層である武士階級を大量に失い、野蒜築港台風のために2年で閉港となったため、開港場が近くにない唯一の地方となって資本主義経済に乗り遅れた。また、地租改正が行われた明治初期までは、他の地方に比べて貨幣経済の浸透が遅れており、国内市場としての重要度も低かった。

現在は人口も増え、高速道路の整備も進んだため、東北地方内における陸上交通の再編と経済圏の形成が進んでいる。一方で、人口の仙台都市圏への集中、その他の地域の過疎化も進んでいる。

先史

旧石器時代氷河期の影響を受け、現在よりも寒冷であった。そのため、当時の海岸線は現在よりも沖合いにあり、現在は海底に沈んでいるため、海岸線での生活についてはほとんどわかっていない。内陸の生活については、東北地方でも富沢遺跡金取遺跡などでわかるが、他のいくつかの前期旧石器時代の遺跡が旧石器捏造事件によって研究が振り出しに戻ってしまったため、現在検証作業中である。

縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も縄文中期には現在より暖かかったと考えられている。当時の採集・狩猟・漁労を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、東北地方は関東地方中央高地とともに縄文時代の遺跡が高密度に分布する地域として知られる。最も人口密度が低かった近畿地方中国地方四国地方と比べて、人口密度が最も高かった関東は30倍以上、東北も5倍〜10倍程度の人が住んでいたと見られている。そのため、1440年も続いた巨大集落である三内丸山遺跡などが存在し、栗栽培など原始的な縄文農耕も始まり、関東や中央高地などと共に縄文文化の中心を担った。

縄文文化は縄文後期の寒冷化により衰退し、縄文末期には大陸から水田稲作が伝来し、北部九州や畿内など西日本を中心に弥生文化が発達する。東北においても比較的早い時期に弥生文化が伝播しており、水田稲作は弥生前期に伝来したと考えられているが、一般的には紀元前後と見られる弥生中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北部においては続縄文文化であったとする見方もある[注釈 4]。また、南部においても稲作の放棄と続縄文文化の南下が見られる。

古墳時代には畿内から古墳文化が到達し、東北地方でも古墳が造られた。古墳が集中している地域は仙台平野会津地方・山形県内陸部などの東北地方南部となっている。また、奈良盆地に起源があるとみられる前方後円墳も造られ、ヤマト王権との交流がすでに始まっていたと考えられている。東北地方最大の前方後円墳は、宮城県名取市にある雷神山古墳である。宮城県北部・秋田県以北(山形県庄内地方が含まれるとする説もある)では末期古墳が分布する[注釈 5]。なお、東北北部の青森県域では続縄文文化が持続し、古墳は小規模な終末期古墳に限られている。

古代

古代に入ると、ヤマト王権と奥羽越地域(東北地方と新潟県)の諸勢力との関係は、古墳時代までの緩い地域連合のレベルから、徐々に中央集権的な都と地方という関係に移行していく。

畿内政権側から見た古代の東北地方と、新潟県米山峠以東(中越地方下越地方佐渡島)は「未征服地」であり、畿内政権に服従しない異民族「蝦夷(えみし)」が住んでいるとされた(蝦夷の住んでいた範囲には諸説ある)。以降、古代から中世にかけて、畿内政権側の征服戦争と、東北地方(特に奥六郡)の独立や半独立の動きの中で、征夷軍と蝦夷軍が衝突し、東北地方の歴史は作られていった。

7世紀中期〜後期に、天皇を中心とした強力な官僚制が志向されるようになると、それまでの地方豪族が国造として独自に支配していた地方分権体制から、中央集権体制へと国家体制が大きく変化した。

この流れの中で、7世紀半ばに、太平洋側の現在の福島県から宮城県中部辺りまでと、山形県の南部(置賜郡)と中部(最上郡)が畿内政権側に服従し、常陸国から分離される形で道奥国(みちのく。後に陸奥国)が設置された。この地域は、古墳時代に前方後円墳が幾つも造られた地域である(7世紀の内に、宮城県内は平定された)。

日本海側では、すでに新潟県上越地方頸城郡)まで征服したヤマト王権越国(こしのくに)の連合軍が、「(き)」と呼ばれる前線基地を築きながら北進する。まず、大化3年(647年)に渟足柵(現在の新潟市中心部)、さらに大化4年(648年)に磐舟柵(現在の岩船郡村上辺り)を設置し、日本海沿岸を次々と越国に組み入れていった。斉明天皇4年(658年)になると、越国守であった阿倍比羅夫が、180艘の軍船を率いてさらに日本海沿岸を北上し、「鰐田(あぎた)の浦」(現在の秋田市周辺?)から津軽地方へと到った(日本書紀)。これが蝦夷征討なのか武装交易船団なのかは定説がない。少なくともこの阿倍水軍は斉明天皇4年(658年) - 斉明天皇6年(660年)の間に3度来航し、交易をして帰っている。その後、畿内政権と同盟関係にあった百済新羅の侵攻を受けたため、阿倍水軍もその戦列に加わり東北日本海側への遠征は中断された。

律令制整備が進み、中央集権国家として確立してくると、さらに地方の支配体制の整備も進んだ。朝廷軍は、北進して庄内地方に達し、現在の酒田市最上川河口部辺りに出羽柵を設置。越国(こしのくに)が越前国越中国越後国の3ヶ国に分割されると、和銅元年9月28日708年11月14日)、庄内地方出羽郡が設置され、越後国に組み入れられた。この出羽郡は、和銅5年9月23日(712年10月27日)に越後国から分立して出羽国になり、後に陸奥国から置賜郡最上郡を譲られて、沿岸国だった出羽国は内陸部を得る(国府は現在の酒田市の北東部にある城輪柵遺跡に設置されたと考えられている)。

養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、養老8年/神亀元年(724年)東北太平洋側に多賀城が築かれ、南東北は朝廷側の支配体制に完全に組み込まれた。さらに北進した朝廷軍は、天平5年(733年)に出羽柵を秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移した。ただし、現在の秋田県の領域では、沿岸部のみが支配下に入っただけで、内陸部はやや緩い支配だった。737年(天平9年)大野東人により多賀城から出羽柵への連絡通路が開削された。

北東北では、北上山地太平洋と隔絶され、多賀城からも離れている現在の岩手県内の北上川流域(=奥六郡日高見国)、および、秋田県横手盆地などが蝦夷の勢力域として残り、その後の朝廷(多賀城)との抗争に続いていく。

宝亀11年(780年)の光仁天皇の時に伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を奪った。平安時代桓武天皇は、3回に渡る蝦夷平定を行い、坂上田村麻呂征夷大将軍となって、蝦夷軍のアテルイと戦って勝利し、奥六郡に胆沢城を築いた。敗れた蝦夷軍は朝廷への服従を誓って俘囚となり、一部は日本各地に集団で強制移住させられた。

朝廷の支配が確立すると、関東地方や北陸地方から多数の入植者(柵戸)が入り、東北地方の内地化が進んだ。俘囚の中から安倍氏が勢力を伸ばして、奥六郡を本拠地に糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を持った[12]が、源頼義と対立し滅ぼされた(前九年の役)。その後清原氏が勢力を張ったがこれも源義家に滅ぼされた(後三年の役)。この両役を通じて、それまで陸奥国(東の奥)と出羽国(北の端)と認識されていた両地域を一まとめする認識が生じたとする見解がある[13]。日本六十余州と呼ばれたうち、東北の広大な領域に僅か2カ国しか設置されていないという不均衡な状態は実に明治維新期までの長きに及ぶが、これは政権が武家に移行して分国制度が完全に形骸化したためでもあり、東北の人口密度や生産力がずっと低かったわけではない。太閤検地では既に陸奥国は他国平均の6倍以上、出羽国も2倍程度の石高となっている。

中世

平安時代末期から中世初期には、北上川流域(奥六郡)を中心として奥州藤原氏が栄え、平泉平安京に次ぐ日本第二の都市になるまで発展する。奥州藤原氏は陸奥・出羽両国の院領や摂関家荘園の租税を徴することで財力を蓄えたとみられる[14]。しかし、源義経を匿ったかどで、鎌倉政権側に侵略の口実を与えてしまい、源頼朝により滅ぼされた。

その後坂東出身を中心とする武士団が多く配置されるとともに、北条氏の所領が広く設定されたが、一部には津軽地方安藤氏のように在地領主と見られる豪族も勢力を維持した。安藤氏は北条得宗家から蝦夷代官に任命され、北東北から北海道を支配したといわれている。安藤氏の本拠地十三湊は交易で栄え、日本有数の都市となった。しかし、室町時代には安藤氏は南部氏との抗争により津軽を追われ秋田地方に移り、十三湊の繁栄は失われた。

鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇建武の新政では、奥州平定のために北畠顕家が派遣され、陸奥国府を支配した。南北朝時代に入ると南朝の北畠顕家・北畠顕信と北朝の石塔氏吉良氏畠山氏斯波氏が激しく争い、最終的に北朝の斯波家兼が奥州管領として勝利した。その後斯波氏が奥羽両国に勢力を扶植するが次第に衰退したため、関東を統治した鎌倉府に統合された。鎌倉府は統治能力の強化のため奥州南部に篠川公方稲村公方を配置するが、室町幕府と鎌倉府の対立の中で、斯波氏(大崎氏最上氏)は室町幕府から奥州探題羽州探題に補任される。さらに有力国人は鎌倉府と対立するため、室町幕府直属の京都扶持衆となる例も多く見られた。

戦国時代には山形最上氏伊達伊達氏秋田秋田氏三戸南部氏会津若松蘆名氏などが割拠した。関ヶ原の戦いの後、常陸国水戸の佐竹氏が安東氏の後裔の秋田氏と入れ替わりに秋田に転封された。特に伊達政宗は戦国末期に急速に勢力を拡大し、奥羽六十余郡の半分を影響下に置いた。

なお、出羽国の内陸部(奥羽山脈の西側に連なるいくつもの盆地群)は盆地を中心とする領域支配を確立し、東北地方の戦国時代の主役を担った。それは、職業歩兵(軍人)である足軽兵農分離されていなかった戦国初期においては、組織できる兵力に限界があり、盆地程度の広さが領国支配に適していたためで、出羽国内陸部の盆地の諸勢力は、陸奥国領域にも積極的に攻勢に出た。

江戸時代

近世江戸時代の有力な大名としては、上越市から会津若松、さらに米沢に移った上杉氏、保科正之を家祖とする会津松平氏、米沢から仙台へ移った伊達氏、水戸から秋田へ移った佐竹氏盛岡南部氏などがある(山形の最上氏はお家騒動で後に改易され、近江で五千石の旗本となる)。

江戸時代後期の天明年間の地球的な気象変動などにより起こった天明の大飢饉では、10万人以上の餓死者、疫病者を出し、多くが無宿者となり江戸へ流入した。その中で、米沢藩上杉鷹山などは藩財政の改革を行って飢饉に抗した。天保の大飢饉でも東北地方は多くの死者を出した。

江戸幕府が倒れて後、幕末の慶応4年/明治元年(1868年)には北陸地方東部の北越戦争から続く会津戦争など戊辰戦争の舞台となり、東北や北陸東部の諸藩は奥羽越列藩同盟と呼ばれる軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとしたが、結局敗れた。この報復として、同盟に参加した藩は所領を大幅に減らされ、その経済は壊滅同然にまで追い詰められた。その結果北海道へ家臣団(武士階級、知識階級)などを移住させ、札幌などの諸都市を開拓するなど、北海道の開拓史に大きな功績を残した。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲を払い莫大な出費をしたため困窮は避けられず、同様に北海道に多くの移住者を出した。一方で庄内藩は最後まで幕府側として戦ったものの、西郷隆盛の意向もあり比較的軽い処分で済んでおり[注釈 6]、米沢藩もまた維新後に積極的に新政府に協力することで軽い処分となった[注釈 7]

近代

明治元年12月7日1869年1月19日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟に対する処分が行われた。同日、陸奥国は、磐城岩代陸前陸中陸奥国に、出羽国は、羽前羽後に分割された(この分割によりできた「陸前・陸中・陸奥」は「三陸」とも呼ばれ、リアス式海岸の「三陸海岸」や、世界三大漁場のひとつ「三陸沖」などの語に用いられている)。明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県などを経て、現在の東北6県が作られた。

この時期、戊辰戦争により明治政府はその権力基盤を確立し、幕藩体制に則った社会秩序は完全にその権威を失った。西南諸藩に比べ、もともと経済基盤が弱かった東北地方の諸藩では、秩禄処分によって経済的な困窮へと追い込まれた各地の領主と家臣団による窮余の策として「北海道移住」と「帰農」が広く行われた。また後進地域だった東北地方では、農村部の商工業や貨幣経済の浸透も遅れていたため、土地の産物ではなく貨幣により税金を払うシステムが初めて導入された地域では、現金収入を得ることに慣れない人々に大きな混乱を与えた。

また明治以降の富国強兵殖産興業の時代においても、郡山盆地における安積疏水、宮城県の野蒜築港東北帝国大学設置、岩手県の釜石製鉄所などの例外を除いて、政府は東北地方での大規模な投資や開発に積極的ではなかった。野蒜築港が台風によって破壊された後も修復や代わりの港の建設はされず、鉄道のうち最初に敷設された東北本線は官営による国家計画としては行われなかった[注釈 8]

大蔵卿・松方正義による松方デフレは、農産物の価格下落をもたらし、全国的に小作農の比率を上昇(小作農率の全国平均38%→47%)させた。その影響によって、全国的には富裕層による地主所有の寡占化が進み、また産業化(生糸産業・造船業など)が進んでいた関東の都市部などは経済が好調となった一方、常磐炭田周辺などを除き工業化の遅れていた東北地方は更なる経済的ダメージを蒙ることとなった。そのため多くの者が女工や各種労働者として都市部などへと働きに出ざるを得なかった。

さらに、日清・日露戦争後に顕著となった日本の対外進出指向は、日本内地の開発の軽視につながり、地方の近代化を遅らせる結果を招いた。特に1910年(明治43年)の韓国併合後は、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、東北地方にとっては大きな痛手となった。また昭和になってからは、農家の次男・三男などを中心に旧満州国などへの移民が活発化した。1930年昭和5年)には昭和東北大凶作が発生し、身売りや欠食児童が続出、二・二六事件を起こす要因の一つとなった。

第二次世界大戦後は農地改革により、従来の封建的な地主小作関係は過去のものとなった。東北地方でも工業化が進み、生活水準に顕著な向上が見られたが、太平洋ベルト地域の著しい発展に取り残され、高度経済成長時代には東京方面への出稼ぎ集団就職は非常に広い範囲で行われた。




注釈

  1. ^ a b 統計日は、青森県が2018年10月1日、岩手県が2018年10月1日、宮城県が2018年10月1日、秋田県が2018年10月1日、山形県が2018年10月1日、福島県が2018年10月1日。
  2. ^ 明治維新以後、九州を「西南」(西南地方)、奥羽を「東北」(東北地方)と改めた。
  3. ^ 「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面
  4. ^ 弥生中期、北端の青森県の垂柳遺跡砂沢遺跡でも水稲耕作が行われていた形跡は見られるが、その後の気候の寒冷化により、稲作は長い中断を余儀なくされたとみられる。
  5. ^ ただし、岩手県の角塚古墳は他の前方後円墳から孤立して存在する。
  6. ^ ただし30万両を新政府に献金した。
  7. ^ 廃藩後藩主茂憲は家財を処分し、士族一人当たり10両および籾3俵、さらに銀行結成のため14万両を給与し東京へ移住した。士族はそれらを元に自活の道を歩んだ。『シリーズ藩物語 米沢藩』p.194
  8. ^ 実態としては半官半民会社だった日本鉄道による建設。ただし、奥羽本線は当初より官設鉄道である。

出典

  1. ^ 全国都道府県市区町村別面積調国土交通省国土地理院
  2. ^ おううちほう【奥羽地方】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
  3. ^ 『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7
  4. ^ 海から見た東北地方の過去と未来 (3) 〜東北の未来 Archived 2014年4月26日, at the Wayback Machine.
  5. ^ 地域区分(北日本、東日本、西日本、沖縄・奄美) Archived 2013年1月24日, at the Wayback Machine.(気象庁
  6. ^ 東北地方の面積・人口・地形
  7. ^ [1]
  8. ^ a b c d 新聞・雑誌名「東北」にみる明治期の東北地域観岩手大学教育学部研究年報第57巻第2号、1998年2月)
  9. ^ 新潟は北関東?北陸?東北?asahi.com 2010年6月2日)
  10. ^ 国土形成計画法施行令
  11. ^ Tohoku International Tourism Promotion
  12. ^ 『中世出羽の領主と城館』p.28-29
  13. ^ 社会科教育と地域・地名-「奥羽」と「東北」の歴史的変遷を例に-」(岩手大学)
  14. ^ 『中世出羽の領主と城館』p.34
  15. ^ 『新明解日本語アクセント辞典』(三省堂、2001年)
  16. ^ 転出入者数の推移(国土交通省東北運輸局)
  17. ^ 東北地方の面積・人口・地形(国土交通省東北運輸局
  18. ^ 明治期と現在の都道府県別人口一覧 Page white excel.png (XLS)(国土交通省北陸地方整備局
  19. ^ 空港別乗降客数の推移(国土交通省東北運輸局)
  20. ^ 空港管理状況調書 Archived 2008年8月5日, at the Wayback Machine.(2008年度)
  21. ^ a b 統計表(県民経済計算)(内閣府)
  22. ^ アーカイブされたコピー”. 2006年3月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2005年12月9日閲覧。





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