大韓航空機爆破事件
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事件の動機
北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成主席の後継者に指名されていた金正日がとったものと考えられている[36]。このテロの目的は、
- 韓国大統領選挙直前に与党候補に打撃を与えるとともに韓国社会を混乱に陥れるため
- ソウルオリンピックへの参加申請を50日後にひかえ、ソ連や中国などの社会主義国(東側諸国)が参加する可能性が高まり、孤立感を強めた北朝鮮が、韓国のオリンピック単独開催、または開催そのものを阻止するため
であったといわれる[23]。すなわち、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年に行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであり、具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった。
ただし、西岡力によれば、この事件は単にソウルオリンピックを潰すためにその場で思いついたテロではなく、10年がかりの陰謀であるという[36]。たとえば、もし、金賢姫が自殺に成功していた場合、東洋人の死体2つと偽造パスポートがそこに残るだけとなり、当時は中東で重信房子の日本赤軍が活動していたのだから、彼らが115人の乗った飛行機を爆破した可能性が高いとされたであろうし、逆に金勝一と金賢姫が逃亡に成功したら、搭乗者リストには蜂谷真一・蜂谷真由美という身元不明の日本人の名だけが残ることになる[36]。いずれにしても、多数の韓国人乗客を爆殺させたのは日本人ということになる[36]。
北朝鮮による偽装日本人テロは、これが初めてではなく、1974年には在日本朝鮮人総連合会が在日韓国人文世光を洗脳し、朴正煕大統領の暗殺を指示した文世光事件(陸英修狙撃事件)があった[37]。このとき、日本のメディアは朝鮮総連による情報操作などもあって韓国側の自作自演という説をまことしやかに報道した[37]。それに対し、韓国側は「日本もかかわっていながら謝罪どころか自作自演などという妄言を続けている」「韓国へのテロを平然と見逃し、しかも弁護すらしている」と言う認識に基づく反日感情から大デモ行進が起こり、大使館の窓が全部割られ、日本国旗が引きずりおろされて大使館員が殴打されるという事態に発展した[37]。在日韓国人のテロというだけでこれほどの反日運動が生起しており、もし、左翼日本人によるテロと言うことになった場合、日韓関係が修復できないほどに悪化しただろうと考えられている[36]。
しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮のパスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていたソ連と中国は正式に参加を表明し、他の東欧諸国も追随して参加を表明した。金賢姫が偶然自殺に失敗し、韓国当局にすべて自身の犯罪を自供することによって、日本も予定どおり参加することができた[36]。北朝鮮の目論見は、完全に裏目に出たのであった。
その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し、有事の際の支援を要請したが、中ソ両国からは逆に反感を買っている[38]。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという[38]。
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fa%2Fa3%2FKorean_Air_Flight_858_Memorial.jpg%2F250px-Korean_Air_Flight_858_Memorial.jpg)
ソ連のタス通信は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道しはしたが[39]、北朝鮮の主張を擁護するものではなかった。以上のことから、事件に対して直接的な批判こそされなかったものの、事実上、北朝鮮は同盟国である他の社会主義国陣営からも見捨てられたといえる。なお、ソ連は事件及びソウルオリンピック後の1990年に、中国は1992年に、北朝鮮の激しい抗議を無視し、それぞれ韓国との国交を樹立した。
事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には殆どの東側諸国や非同盟中立諸国も参加するかたちでソウルオリンピックが開催された。また、テロ事件は、他国への主権侵害である日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件などのテロ事件と並んで、北朝鮮による国家犯罪の典型として周知され、北朝鮮は世界中から非難を招いて国際的に孤立した。
注釈
- ^ 2006年に金属探知機による海底の再調査が行われ水中の残骸位置が特定された。
- ^ 発注・受領が大韓航空経由で行われたため、モデルネームは-3B5Cとなっている。なお、大韓航空のほかの707は中古機のため、同機がこのモデルネームを持つ唯一の707でもあった。
- ^ エア・インディア182便爆破事件など
- ^ 事件の3年前の1984年8月、金勝一と金賢姫は一度ペアを組まされ[5]、金賢姫が勝一を「おとうさん」と呼んで親子を偽装し、すべての会話を日本語で話すことを原則として、「蜂谷真一」「蜂谷真由美」名義の偽造の日本旅券でソ連[6]、ハンガリー、オーストリア、デンマーク[7]、西ドイツ、スイス、フランスを周遊する日本人観光客の父娘として行動している[8]。賢姫は9月には金勝一とパリで別れて、その後、香港からマカオ、広州、北京を経て10月に平壌にもどった[9]。
- ^ 尋問に対し「不知道!(知らない!)」と中国語で返答するなどしており、これは当時の日本のニュースでも報じられた。
- ^ 取調官に出身地を聞かれた金賢姫は黒竜江省「五常市」と繰り返し答えたが、当時は五常市ではなく五常県であったため、嘘が見破られることとなった[19]。ちなみに五常県が五常市に移行したのは事件から6年後の1993年の事である。また、金賢姫の話す中国語が広東省訛りであったことも、「黒竜江省(同地は北京語圏)出身」が嘘であることが見破られるきっかけになった[19]。2010年(平成22年)放映の『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』では、金賢姫の証言にもとづいて、このシーンが描かれていた。
- ^ 金賢姫は、「金玉花」の名をあたえられ、金淑姫と何度もペアを組まされ、彼女と同居しながらの工作員教育を受けた[41]。
- ^ 泣き叫ぶ遺族を前にして、彼女は「ただ、自分が死ぬことだけが、彼らの恨(ハン)をはらしてあげる唯一の道だ」と考えたという[50]。北朝鮮に残した家族の顔が走馬灯のように流れ、涙がとめどなく流れたが、その後はかえってさっぱりした心境になったという[50]。
- ^ 1987年当時の「韓国政府の自作自演」による捏造説であるが、韓国の中央日報は、政府から圧力を受けたとする金の主張が真実であれば、前政権の誰かがあおった疑いがある[58] と主張している。なお、韓国では「北朝鮮寄りの理念を拡散させた」場合には、国家保安法によって処罰される可能性がある。しかしながら文在寅政権下では、従北勢力が何らかの批判にさらされる状況下にはなく、却って金が「本事件を韓国当局の陰謀である」と唱える従北勢力を批判したことが、名誉毀損として刑事事件化する事態に陥っている。
出典
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