オノ・ヨーコ ポール・マッカートニーとの関係

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オノ・ヨーコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 22:27 UTC 版)

ポール・マッカートニーとの関係

ポール・マッカートニーが「ビートルズ解散は、ヨーコのせいではなかった」と発言した[13] ことに、オノ・ヨーコは感謝の意を表明した。またポールとリンゴ・スターがグラミー賞の功労賞を受賞した際には、客席でうれしそうに体を揺らしていた。これらの事実から、ヨーコとポールの人間関係は、良好であると判断するのが妥当である。

なお、争点の一つとなっていたのは、ビートルズの楽曲クレジットに関する問題である。ビートルズの活動中、ジョン・レノンかマッカートニーの書いた曲は、どちらが書いても、また共同で書いても、すべて「レノン=マッカートニー」名義とされた。レノンの死後、マッカートニーは、彼単独で、または彼主導で書いた「イエスタデイ」などの曲について、クレジットの順序を「マッカートニー=レノン」と変えようとした。ヨーコはこれを認めず、レノンの生前に2人が取り交わした協約に違反すると批判した。マッカートニー側はこれに反論、そのような協約は存在しなかったとする。他のビートルズのメンバー2人が、クレジットは従来どおりにとどめるべきだと意見すると、マッカートニーは要求を撤回した。しかし2002年、マッカートニーはアルバム『Back In The US Live 2002』で、ビートルズ時代の19曲について「作詞作曲ポール・マッカートニー、ジョン・レノン」と記したことからこの論争が再燃する。

しかし1995年、ヨーコは「ヒロシマ・スカイ・イズ・オールウェイズ・ブルーイタリア語版」をマッカートニーとその家族、ショーン・レノンとで共同制作した。これは広島原爆投下50周年を祈念する曲であった。ヨーコについてマッカートニーは「彼女は冷たい女だと思っていたけど、間違っていたよ。(中略)その正反対だった。(中略)彼女はただ、断固として自分自身であろうとしているだけなんだ。たいていの人よりもね」と述べている。

2005年にQアウォード英語版を受賞したとき、ヨーコはマッカートニーの作曲を批判しているともとられるコメントを述べ、メディアで物議をかもした。レノンはあるとき自らの作曲に不安を抱き、「なぜ他のミュージシャンはいつもポールの曲をカバーして、僕のはしないんだろう」と訊いた。「あなたは優れたソングライターよ。あなたが書くのは『スプーンを手に六月』("June with Spoon")[注釈 3]みたいなのじゃないわ。あなたは優れたシンガーだから、多分ほとんどのミュージシャンは怖くてあなたの歌をカバーできないのよ」[14] とヨーコは答えたという。ヨーコの発言に明白な批判の意図があったかは、疑問が残る。ヨーコは後に「自分の言葉はジョンを慰めようとしたもので、ポールを攻撃するものではなく、他意はなかった」と声明を出している。また、自分はマッカートニーを尊敬しており、マスコミが自分の言葉を文脈から切り離して報道したのだと付け加えた。

さらにヨーコは「私とポールが喧嘩してるとか、そんなのんきな話題が人々には必要なのね。この世の恐怖から逃れるために。でも、それはもはや真実じゃない。(中略)私たちは過去、何度も衝突してきたわ。でも今はジョンのパートナーだったポールを尊敬してるし、ポールはジョンの妻だった私を尊敬してるわ」とも述べている。

また、2001年の『Mojo』誌インタビューでビートルズの曲で何が一番好きかと問われた際には、「ビートルズ時代の作品に関しては、私は実はジョンの曲よりもポールの曲のほうが好きなのです」と打ち明けている。

2008年6月1日には、アンフィールドで行われたマッカートニーのコンサートに姿を見せている。このコンサートでマッカートニーはレノン作曲の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」(前半と後半がレノンの作、中間部はマッカートニーの作という3部構成になっているが、その中間部まで)〜「平和を我等に」のメドレーを披露した。


注釈

  1. ^ このエピソードは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中でもレノンの証言によって紹介されているが、フィリップ・ノーマン著『シャウト!ザ・ビートルズ』などの書籍では「鉄板に釘を打つパフォーマンスを試したいというレノンのリクエストにヨーコが難色を示したところ、レノンは『君に空想のお金を払って僕は空想の釘を打とう』と提案し、それがヨーコを感動させた」という別のエピソードが紹介されている。
  2. ^ メイン・ホールではなく258席の会場
  3. ^ "June with spoon"は、適当にを踏んだだけの内容のない歌詞という意。

出典

  1. ^ a b c d Phares, Heather. Yoko Ono | Biography & History - オールミュージック. 2021年4月18日閲覧。
  2. ^ a b Olivia B. Waxman (2019年3月25日). “Behind the Photo: How John Lennon and Yoko Ono Came Up With the Idea of Their Bed-In for Peace”. TIME. 2023年10月20日閲覧。
  3. ^ 安田善三郎 歴史が眠る多磨霊園 2020年2月21日閲覧
  4. ^ 小野節子『女ひとり世界に翔ぶ ― 内側からみた世界銀行28年』講談社、2005年8月30日。ISBN 4-0621-3013-0 
  5. ^ オノ・ヨーコ#芸術活動参照
  6. ^ Steve Dougherty, “ Oh Yes! Ono Turns 70” (2003), Oh Yes! Ono Turns 70, ピープル(2003)
  7. ^ Yoko Ono, “Celling Painting (YES Painting)” (1966), YES YOKO ONO, Mito Arts Foundation (2003)
  8. ^ ジョン・レノン・ミュージアム・プログラム 2000.
  9. ^ a b メーガン妃が英王室を「オノ・ヨーコした」 海外で相次ぐツイート”. J-CAST ニュース. J-CAST (2020年1月10日). 2020年10月3日閲覧。
  10. ^ 映画評論』1967年6月号、12-13頁、「アングラ旋風、ロンドン上陸 小野洋子のオヒップ・シネマ」。
  11. ^ No. 4 - IMDb(英語)
  12. ^ 飯村 1992.
  13. ^ “Paul McCartney: Yoko Ono did not break up the Beatles”. The Guardian (Guardian Media Group). (2012年10月27日). https://www.theguardian.com/music/2012/oct/27/paul-mccartney-yoko-ono-beatles-david-frost 2021年4月18日閲覧。 
  14. ^ Herbert, Ian (2005年10月15日). “Yoko Ono claims she was misquoted over McCartney outburst”. The Independent. Independent News and Media Limited. 2005年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月18日閲覧。
  15. ^ ABOUT IMAGINE PEACE TOWER”. IMAGINE PEACE TOWER. 2021年4月18日閲覧。






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